言語行為論、ついにやります
いつも読んでくださってありがとうございます。
このエッセイは元々カクヨムに掲載していたものなのですが、ロシア・フォルマリズムについて語った後、諸々の事情で本当はかなり空白の期間があり、文学理論とは別の話題を何度となく扱いました。ようやく言語行為論の話をすることが出来たのは、ロシア・フォルマリズムの話から1年半ほど経ってからでした。しかし、カクヨムと同じ順番でご紹介しても分かりにくいだけなので、このなろうでは、ロシア・フォルマリズムの話の直後に言語行為論の話を置かせていただきたいと思います。
今回と今後のエッセイは時系列が前後することになりますので、そのつもりでご覧いただけますと幸いです。
2022年01月15日
どうも、あじさいです。
新年早々、年末年始はドタバタしていると近況ノートに書かせていただきましたが、今もその余波が残っています。
動画配信サービスでアニメを見て精神状態を安定させようとしていますが、残念ながらあまり落ち着かない日が続いています。
一体何なら手を付けられるのかと色々試し、その結果として、どういうわけだか、もう1年半ほども先延ばししてきた課題を片付けることができたので、さっそく投稿させていただきます。
ということで、今回は言語行為論のご紹介です。
皆さんは覚えていらっしゃるでしょうか、筆者は以前、このエッセイでロシア・フォルマリズムという文学理論の解説をしました。
解説と言っても、「超入門」を謳う新書の内容を自分なりに噛み砕いてお話しするという程度のもので、大学生のレポートだってもう少し色々参照してから書くだろという内容なのですが、それの言語行為論バージョンをついに書くことができました。
本の内容を大いに省略しましたが、そのおかげで一話完結の分量に収まりました。
解説すると予告しておいてここまで引っ張った(というか引っ張りすぎて千切れてしまった)理由は、ひとつにはいかにも面倒くさそうな用語が出てくるからであり、もうひとつには筆者自身がこの言語行為論について、「超入門」レベルの話では納得できないものを感じているからです。
自分なりにもっと集中力が出るときに、もっときちんと調べてから書きたいと思ったのですが、そもそも文学を研究しているような方々の論文なんか読み始めたら、用語の定義だけで泡を吹きそうなので、もう勢いでやってしまうことにします。
先に申し上げておきますと、小説を書こうという方にとって、言語行為論は結構面白い話だと思います。
ロシア・フォルマリズムは「文学理論ってこういうものなんだぁ」というイメージを持ちやすい例でしたが、今回の言語行為論は、登場人物たちに小粋な会話をさせたり、真面目なシーンに厳粛な空気を漂わせたりするヒントとなる考え方です。
参考文献は亀井秀雄(監修)、蓼沼正美(著)『超入門!現代文学理論講座』(ちくまプリマー新書、2015年)で、以下、「本書」と言えばこの本を指すものとします。
ただし、筆者の独断で、本書で紹介されている内容を省略したり、たとえ話を変えたりしてお送りします。
言語行為論のポイントをあえて一言で言うなら、「会話というものは情報を口にするだけでは完結しない」という具合になると思います。
たとえ話ですが、高校の校長先生が開会式で
「これより体育祭を開催します」
と言ったとします。
このときの校長先生の言葉は、「鎌倉幕府を開いたのは源頼朝です」といったような会話とは全く性質が違っているのだ、というのが言語行為論の考え方です。
言語行為論を始めたオースティンという学者によると、発言や文というものは2種類に分けられます。
(本書ではこの後それらが「発話」という言葉にまとめられるように見えるのですが、なぜかここでは発言と文に分けられているので、このエッセイでも分けておきます。)
ひとつは、事実を指し示したり確認したりする類のもので、これを「事実確認的」発言あるいは文と呼びます。
例に挙げた「鎌倉幕府を開いたのは源頼朝です」という発言は事実確認的発言です。
もうひとつは、発言あるいは記述と同時に「何らかの別の行為」を遂行する類のもので、これを「行為遂行的」発言あるいは文と呼びます。
先ほど例に出した「これより体育祭を開催します」という発言は、これにあたります。
なぜなら、「今から体育祭を開催する」という情報を伝えると同時に、実際に体育祭を始めてもいるからです。
ここで注目してほしいのは、事実確認的発言がそれ自体として完結しているのに対し、行為遂行的発言の方は、発言それだけでは完結していないことです。
開会式という場が設定され、校長先生がその発言をするからこそ、体育祭の開始という行為が遂行され、開会宣言が意味を持ちます。
逆に言うと、校長先生が前日の夜に自宅で「これより体育祭を開催します」と発言しても体育祭は始まりませんし、開会式の場であっても「これより体育祭を開催します」と発言するのが不法侵入した露出狂では体育祭は始まりません。
ここから言えるのは、行為遂行的発言が成立する状況を考えるためには、発言を支える社会的な慣習や文化、文脈を考慮に入れる必要がある、ということです。
開会式よりもっと日常的なところで言うと、私たちは人に何かを頼んだり質問したりするときに、特に意識することもなく婉曲的な表現を使いますが、これも行為遂行的発言あるいは文と言えます。
たとえば「お名前を伺ってもよろしいですか?」と言われたのに「はい、よろしいですよ」としか答えない人はまずいません。
質問者は単に「名前を尋ねても構わないかどうか」を聞いているのではなく、「あなたは何という名前か教えてください」という依頼(丁寧な命令)をしているのです。
この場合も、ひとつの発言に表面的な(純粋に文法的な)意味と裏の意味(意図)があり、裏の意味を分かり合うためには、実際の会話に先駆けて社会的な慣習や文化、文脈を理解している必要があるわけです。
オースティンはさらに、発言は3つの行為を含んでいると言います。
1つ目は発話行為、2つ目は発話内行為、3つ目は発話媒介行為です。
いかにも面倒くさそうですが、先ほども申し上げた通り、字面が難しそうなだけで、内容は難しくありません。
発話行為とは、「これより体育祭を開催します」という音と情報を発することを指します。
発話という行為だから発話行為です。
発話内行為とは、体育祭を開始するという行為を指します。
発話の内にある(含まれている)行為だから発話内行為です。
発話媒介行為は、筆者の読みが正しければ、発話行為と発話内行為にくっついてくる行為を指すようです。
例の場合、校長先生が開会宣言によって「生徒たちに拍手させる」とか「生徒たちに気合いを入れさせる」とかの行為をした、と考えるとき、それらを発話媒介行為と呼びます。
本書によると、発話行為と発話内行為が「同時的かつ必然的に結び付いている」のに対し、発話媒介行為は「必ずしも一義的ではなく、多種多様」です(p.79)。
筆者なりに補足すると、発話媒介行為は解釈によってどうとでも捉えられる、と言ってしまって良いと思います。
校長先生は開会宣言によって体育祭を開始し、それによって周りの人々に何らかの反応を呼び起こすことができます。
しかし、それらを完全に制御することはできません。
生徒たちの頭の中まで考慮に入れると「特定の感情を呼び起こした」と言えるのかどうかさえ怪しくなります。
その意味で、発話行為と発話内行為は校長先生自身が意図したものですが、発話媒介行為は校長先生が意図していないものを含むことがあります。
当たり前の話ですね。
さて、この辺りでWeb小説を書くときのことを考えてみましょう。
分かりやすくするため、異世界ファンタジーにありがちな世界観を借用し、AさんとBさんが森で魔物と遭遇した場面を書いてみます。
――――
「あれ? ネコかな?」
「違う、スペシャルタイガーだ。俺が引きつけるから、Aは援護してくれ」
「いいや、この程度の相手なら、その必要はないよ」
Aは魔法で火を出して、スペシャルタイガーを追い払った。
――――
言語行為論の考え方を念頭に置きながら、この場面を推敲してみましょう。
最初の「あれ? ネコかな?」と「違う、スペシャルタイガーだ」という発言は、どちらも事実確認的な発言ですが、頑張ってここに行為遂行的な発言を持ち込んでみます。
大事なのは、2人が発言している文脈です。
2人は同じもの(スペシャルタイガー)を見ているはずですが、Aさんはそれをネコだと言い、Bさんはそれをスペシャルタイガーだと言っています。
つまり、2人は同じ事実を前にしているにもかかわらず、文脈の共有が上手くいっていません。
このことに注目すると、「あれ? ネコかな?」に対する返答として、「お前の目は節穴か、スペシャルタイガーだ!(どうしてそんなことも分からないんだ?)」とか「魔法は使えても魔物の知識はまだまだだな」などの台詞を使うことが考えられます。
続いて、「俺が引きつけるから、Aは援護してくれ」という発言は、体育祭の開会宣言とは違って儀式的な要素はありませんが、行為遂行的発言の一種と考えられます。
発言者であるBさんの頭の中では、この発言をすると同時に、Bさんが魔物を引きつけ、Aさんに援護を任せるという行為をしたつもりなわけです。
これだけでも場面としては成立しているのですが、ここでも少し捻った言い方を考えることができます。
要はAさんに援護を任せるという行為を何らかの形ですればいいわけですから、「前衛は俺に任せろ」「(お前に)背中を預けるぜ」という言い方でも良いわけです。
そして、最後の場面。
Aさんによる「いいや、この程度の相手なら、その必要はないよ」という発言は、Bさんの直前の発言をキャンセルする意図で発せられたものです。
お気付きの方もいらっしゃると思いますが、この意図を達成するとき、実は言葉は必要ありません。
Aさんが魔法でスペシャルタイガーを追い払えば、それだけでBさんの指示が不要だったことを示すことができます。
これらのことを踏まえると、先ほどの場面について、次のような書き方を考えることができます。
――――
「あれ? ネコかな?」
「スペシャルタイガーだ、図鑑で見たことないか? お前は下がれ」
Aが魔法の杖を振ると、火が飛び出し、魔物は呆気なく逃げていった。
「名前は知らないけど、ネコと変わらなかったね」
――――
前後の物語が充実していれば、それらを踏まえることでさらに違った表現を追求できるでしょう。
もちろん書き方はどちらでも構いませんし、作風や好みによって変わって然るべきですが、表現を考えるこのような足掛かりは多いに越したことはないと思います。
というか、筆者は、言語行為論という考え方を知ったことで表現の幅が広がった気がしたのですが、皆さんはいかがでしょうか。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
本書ではこの後、言語行為論で重要になる社会的な慣習や文化についての話が出てきて、言語行為論を切り口として芥川龍之介の『羅生門』を読んでいくのですが、このエッセイでは取り上げなくて良いかなと考えています。
たしかに社会的な慣習や文化についての議論は興味深いような気もするのですが、話が哲学的な方向にも広がりそうな一方、「超入門」の本書ではあまりすっきりしませんし、Web小説の執筆に活かせるかという点も微妙だと判断しました。
本書にはロシア・フォルマリズムと言語行為論の他にも、読書行為論と昔話形態学の話も収録されているので、もっと知りたいという方は実際の本書を手に取ってみるのも良いかと思います。
それでは、また次のエッセイでお会いできれば幸いです。




