2
朝凪は十日前に兵士として王城に雇われていた。目的は王族の一人の暗殺だ。
配置されたのは奥宮と呼ばれる王城の一角。王族が住まう場所である。王城のどこよりも高い壁で囲まれ、出入りのできる場所は一か所のみ。その出入口には三重の扉が存在し厳重に警護されている。正に、外の世界から完全に隔離されたような場所である。とは言え、敷地は広大で閉塞感は感じない。敷地の中には国王の住む館を中心に、王族が家族単位で住む館が点在している。
おそらくは雇い主の計らいであろう。通常なら新人の、ただの平民(暗殺者なのでそれ以下かもしれない)が奥宮の警護に就くことはあり得ない。もっとも、王族の身近でその身を護衛するのは、貴族の出身で様々な基準で選抜された近衛騎士である。単なる兵士は、王族の住む館から離れた奥宮を囲む壁沿いの巡回が主な仕事である。
朝凪はその日、夜の巡回を行っていた。相方は五年ほど奥宮の警護を担当している兵士で矢萩という。
「今日は月が明るい。遠くまでよく見えるなあ。なっ?」
「・・・・・・」
「今日も返事が返ってこないなあ」
陽気にしゃべる矢萩を尻目に、朝凪は相槌も打たず周囲に視線を巡らせる。今からこの矢萩をどうにかして自分は暗殺の対象者を探しに行かなければならないのだ。
「仕事熱心なのは感心だがなあ、面白みがないし、熱心な割に肝心なことは覚えないし」
陽気にしゃべっていたかと思えば、今度は朝凪に対して文句を言い始める。いつもの事とはいえ、かなり鬱陶しい。
朝凪はまだ巡回経路を覚えきれていないふりをしていた。なので矢萩を先行させている。
「そうだ、今度非番の時に城下に行くぞ。酒でも飲んで親交を深めようじゃないか」
「・・・・・・」
「俺と二人が嫌なら、お前と年の近い新人も誘おう!」
「・・・・・・」
今度は親睦を深めるための飲み会のお誘いが始まる。朝凪は酒をたしなむにはまだ早い年頃なのだが、矢萩は朝凪をいくつだと思っているのだろうか。ついでに心当たりのある他の新人は、たぶん朝凪よりまあまあ年上だ。
すでに寝静まっている時間なので、奥宮に点在する館の窓から漏れる光は無い。満月のおかげで明るいが、やはり夜というのは心細さを誘うのだろう。矢萩は夜の巡回の時はいつも饒舌だった。ただ、朝凪はそういう雑談の類が得意ではなかったので、適当にあしらうこともできず、結果無口な新人兵士ということになってしまったのだ。
そうしているうちに目星をつけていた地点にたどり着く。ちょうど壁の中央に近い部分で、そばには隠しものをするのに良さそうな茂みもある。
「なんだよ、酒、飲めな・・・・・・っ!」
ドサリ。
しゃべりかけた矢萩が地面に崩れ落ちる。
朝凪の手刀で気を失った体を引きずり、低木の茂みに放り込む。矢萩はそこまで体格の良い方ではなかったので助かった。
気絶の具合を確認し、念のため眠り薬も飲ませる。朝まで目覚めることは無いだろう。
朝凪は静かに駆け出す。
事前に依頼主から提供された情報と、警備の際の情報を元に、目的の館を目指して最短の距離を取ろうと広い庭園を抜けていく。
開けた場所を目前に緊張が高まる。
その時。
ふわり、と優しい風が吹き、白い花弁が目の前を横切る。思わず花弁の飛んできた方へ目を向けた。
「あ・・・・・・」
視線の先に見えたのは藤の巨木。王都の名の由来となった白い花が咲く藤の木だ。
その木の下に少女は佇んでいた。
風に揺れる髪は純白。身を包むのも白が基調のドレス。
「見つけた・・・・・・」
朝凪が依頼された暗殺対象者の特徴として聞かされていたのは純白の髪だった。なんという幸運か。まさか、外に、それも一人でいるなんて。
気配を消し、少女の背後に迫る。
静かに剣を抜き、構える。
すっ、と息を吸う。
風がやみ、草木が奏でるささやかな音が消えた一瞬、足元の踏みつけられた枯れ葉だけが音を上げる。
その瞬間、少女が振り返り、朝凪の姿を捉える。
「ちょっと待って」
わずかな間の後、少女は、朝凪に制止の声をかける。剣を向けられているとは思えない、状況に全く似つかわしくない静かな声で。
朝凪を見つめるその瞳は、月夜だというのにやけに鮮やかに見える薄紅色。その特異な色に思わず朝凪は固まる。
見るからに非力な少女の瞳は、この場において圧倒的に強者である朝凪の足をいとも簡単に地面に縫い付けてしまった。
それでも、朝凪には依頼がある。
剣を握る手に力が入る。
それを捉えた少女は再び声を上げる。
「わたしと取引しましょう」
「・・・・・・」
少女は、今にも自分を傷つけようという人間を前にしても、一切の怯えを見せない。
「私に武器の扱いの心得はない。今、その剣を下ろしてもあなたにはいくらでも機会がある」
淡々と、少女は朝凪に語り掛ける。確かに、見たところその手は傷もなく、白く滑らかで、武器を持ったことなどなさそうに見える。周囲に神経を向けても目の前の少女以外の気配は感じられない。
「たとえわたしを殺したとしても、あなたは報酬を得る前に別の誰かに殺される。その可能性を考えたことはある? 報酬が目的なのなら、わたしを殺すのは危険が過ぎる。でも、思想に基づいてあなたがわたしを殺したいのなら、わたしに貴方を止めることはできない」
どちらだ、と少女の目が問いかける。
「俺の、目的・・・・・・」
思想、とは何だろうか。今ここにいるのはただ依頼があったからだ。支払われる予定の報酬が破格で、朝凪の属する組織が朝凪を王城へ送り込んだ。
それだけだ。
朝凪自身は目の前の少女に何ら思うことはない。少女の詳しい立場も知りはしない。
ただ、この国で最も珍重される純白の髪をもつ人間を殺そうというのだから危険なことは最初から分かっていた。
なのに、なぜだろうか。少女に言われるまで自分が仕事の成功によって殺されるかもしれないという可能性に気が付かなかった。
逡巡する気配を朝凪から感じたのか、少女はさらに言葉を重ねる。
「報酬が目的なら、わたしを殺したときにもらえる額よりいっぱい払ってもいい。なんなら安定したお給料がもらえる仕事も紹介する」
とても魅力的な少女の言葉に朝凪の手から力が抜けた。
それを見た少女はほんの少し、表情を和らげた。
「あなたの名前を聞かせて?」
「朝凪」
あまりに穏やかに尋ねられて、つられてぽろり、と朝凪は名を告げてしまった。