第一章 平穏の裏表
世界は矛盾している。
一体どこのどいつが、安寧秩序なんて言葉を作ったのだろう。
世界はちっとも穏やかではないし、社会の秩序が保たれているとも思えない。どう考えたって、世界は歪んでいる。
歳も十六を越えた生徒たちの喧騒が、どこか遠いところから聞こえる。どれも笑い声ばかりで、まるで世界は平和のようじゃないか――故に思うことがある。
世界は矛盾している。
世界は、平和だったことなんて一度もない。
春先の生暖かい風が、桜と共に砂を舞い上げた。
桜舞う春――というよりは、砂埃舞う春だと、 紳代翔也は思った。その風を真っ向に受けることの出来る屋上へ、彼はわざわざ足を運んだ。
桜並木を抜けた先に聳え立つ、県立青原高等学校。一つの町ほどの敷地を陣取り、充実した教育設備、「自由」を謳う校風。その生徒の数およそ4千人。校舎内は、新学期が始まったことに浮かれる生徒達の喧騒によって埋め尽くされていた。
その喧騒に耐え切れず、逃げるようにたどり着いた場所は立ち入り禁止の屋上。5階建ての屋上は、風が容赦なく吹き付ける。
制服指定の無いこの学校では私服が許されているが、彼の纏う服は到ってシンプルだ。青いティシャツの上にワイシャツを羽織り、ジーンズに脚を通している。着飾る気などさらさらないというような、無気力さがにじみ出ていた。
「俺も大概、……馬鹿だな」
叩きつけるような風が、彼の漆黒の髪を揺らした。
その黒い前髪の向こうに覗く、感情など何一つ感じさせない、冷たい双眸が煌いた。彼が見据える先には、異様な光景が広がっていた。
屋上に広がる灰色のコンクリと緑のフェンスが視界を彩る中、日常的にはありえない黒い影が、視界の至る所で蠢いている。それらはまるで人の影そのものが実体化したかのようだった。目や口らしきものはない。鼻のような突起はあるものの、そこにあるべき孔もない。
人でもなく、妖でもなく、ましてや生きているわけでもない、「異質」な存在。
それはこの世界に存在してはならない、歪んだ間違った存在。故に破壊され、殲滅される必要がある。人の負の感情や、公害によって生み出される――まるで人の闇、そのもののような。
そしてその《異質》を破壊・殲滅するために天界より遣わされた 神族――それが紳代翔也であった。故にそれが、存在意義だ。
翔也はその存在意義に従い、その手に拳銃を出現させた。淡い青の光が拳銃を出現させると共に、翔也は《異質》に向って走りだした。走行中にもすでにスライドを引き、狙撃の準備を終えた。その時点で、セミ・オートマチックの拳銃は、引き金を引けば装弾数だけ打つことができる。
蠢く《異質》は質量に限界がない。「腕」と思われる部位を変形させ、相手を貫くには充分な突起を形成した。 異質の腕が伸び、鞭のようにしなり打ち付けられる。が、翔也もとっさに身をかがめて攻撃を回避した。的を外したそれは、コンクリートの地面を穿ち粉砕した。
舞い上がる粉塵の中、翔也は身をかがめた状態から、脚をバネに高く飛び上がった。空中で半回転し、地面と頭が向かい合った状態で、粉塵の中へ引き金を引いた。
「翔也君」
粉塵が風に吹き飛ばされ、屋上には《異質》の存在が消え失せたその時、静かに佇む翔也に呼びかける声があった。
そこで、翔也は全く何事もなかったかのように普段どおりの冷静さで、振り向きながら言い放った。
「人手不足にも程がある。と、俺は思うんだが」
先ほどまで翔也以外、屋上には人の影がなかったはずだが――翔也の視線の先には、驚くほど華奢な、白衣を羽織った青原高校の生徒が佇んでいた。
「観察員と戦闘員で二人だもんねぇ」
穏やかな口調で返答を返してきた生徒は、男子生徒なのか女子生徒なのか、判断に困る容姿をしていた。天使の輪が浮かぶブロンドの髪に、華奢な体躯、瞳が大きく整った顔立ちをしている。その上、白衣の下にはおおよそ男が好まないであろう、いわゆるレディース服を纏っていることから、普通に判断すれば女である。
が、彼は正真正銘、この青原高校の男子生徒であり、その種族は翔也と同じく下級の類に入るとはいえ「犬神」――谷岡翔であった。
「『共有地』の管理がこんなにザルでいいものかな」
「いいんじゃない。一応仕事に支障は……あるけど」
彼に女装趣味があるのかどうかは知らないが、本人曰く「メンズは僕の趣味じゃない」とのことだ。この寒さを残す風の中、彼は恥ずかしげもなくチェックのショートパンツをはいていた。
翔也も彼の性別を知ったとき、多少なりとも嫌悪を示したが、すぐに慣れた。
「そうかな」
「だったら人手不足だなんて。僕に愚痴を言わないでよ」
そして、彼もこの街の《異質》の破壊を任された、特殊機動部隊の一人であった。正確に言えば、「政府軍所属治安維持特殊機動部隊・観察員」という無駄に長い肩書きを持っているのだ。
「愚痴は言ってない。人もいらない。異質を壊すのは、俺一人で十分だ。ただ……」
異質の破壊に貪欲なのは、自ら自覚している。
「退屈なだけだ」
そして翔也もまた、矛盾していた。