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短編小説

救い

作者: もん・えな

 コンクリートの壁に囲まれた窓のない薄暗い部屋。その中央に白いシーツで覆われた何かが、テーブルのようなものに乗せられている。シーツの先の方から、青白く変色したヒトの足が飛び出していた。右足の親指の付け根部分に三つのホクロがあり、その点を繋いだなら正三角形が出来上がる。

 くしくも、その身体的特徴は私のモノと同じであった。

 私は死体をぼんやりと見下ろしながら、なぜ自分がこのような陰気な場所にいるのかを思い出そうとした。しかし、それに思考を巡らそうとすると、その先から分厚いモヤのようなものがあらわれ邪魔をする。


 私は現状を(いぶか)しく思いながらも、このような場所に用はないので部屋を出ようと扉に近づく。

 部屋は耳鳴りを覚えるほどに静かだ。

 ドアノブに手をかけようとしたが、どうにもうまくいかない。何度、ドアノブに手をかけようとしてもうまくいかない。

 不思議に思いながら、手を自分の顔の前にまで持ってくる。しかし、私の目の前には鉄製の扉しかない。

 私はそこでようやっと、自分に手がないことに気が付いた。手どころか、足もない、胴体もない、頭もない、まして、目などというものがあるはずもない……。


 自分がどのような姿形であるのか判別がつかない。

 混乱を来し始めた意識の中、頭を掻きむしり、叫び散らしたい衝動に駆られるが、ひとつとしてそれを成すためのモノはない。

 実態はないから、五体がないのは当然であるが、しかし、いまだ五体満足に揃っているような感覚が拭えない。

 まるで、ヒトのカタチをした透明の膜に意識だけが覆われているようである。

 不確かな感覚のためか、自分が宙を漂って移動したのか、それとも床に足をつけて移動したのかさえ分からない。それなのに、部屋が静寂に満ちていることが分かるし、あろうことか、私は部屋の中央にある死体を視認している。そして、それが、おそらく自分のモノであることも理解していた。


 奇妙な状況にココロは恐怖と不安のない交ぜになり、ふいに、透明の膜が胸の部分から静かに波紋を描きだす。波紋は次第に強くなり、膜がヒトのカタチを保てなくなっていく。私は自分が自分でなくなるような感覚に襲われる。どうにかヒトのカタチを保とうとしたが、ついに膜はバスケットボールほどの大きさの球体になってしまった。

 膜がさらに小さな球体になったころ、今まで感じていた恐怖や不安といったものが嘘であるかのように、穏やかな気持ちになっていた。

 すると、小さな球体が、再び波紋を描きだす。弱々しく、静かに広がったそれは、再びヒトのカタチを作ろうとしていた。

 不思議に思いつつも、私はその現象が自分に害がないと判断すると、静かに、それを受け入れた。

 完全なヒトのカタチに戻ってから、私はふと、何かが抜け落ちてしまったような感覚に陥った。それについて思いを馳せても、やはり、分厚いモヤがそれの邪魔をするだけだ。その正体が分からないことに、私が不気味さを感じることはなかった。そのことが、とても不気味であった。


 奇妙な状況とは裏腹に、ココロは穏やかで静かなものである。

 コンクリートに囲まれた重苦しい雰囲気のこの部屋にあっても、花園の中心のような愛に満ちた感動を覚えることができた。

 部屋を見回していると、ふと、中央にある、テーブルに視線が止まる。

 そこには、シーツから青白くなったヒトの足が飛び出しており、親指の付け根に三つのホクロがあった。それを繋ぐと正三角形が出来上がった。

 私は愕然とする。

――これは私の身体だ!

 今しがたまで、それを覚えていたはずなのに、すっかり忘れてしまっていた。

 膜が再び、小さく波紋を描き出す。

 私はそれをどうにか抑えるために、心を無にする。

 意外なことに、それは功を奏し、ヒトのカタチを保つことに成功した。


 不意に、後ろの方から、錆びついた耳障りな音をさせて扉が開かれた。

 私はそちらを見やる。

 上背のある彫の深い顔立ちの男が、顔面蒼白で目を赤くした小柄な女を引き連れて室内に入ってくるところだった。小柄な女は私の母親である。

 男は静かに死体の方に近づくと、眉を潜ませ、顔に掛けられたシーツを外した。

「……息子さんで間違いありませんね」

 母はためらいがちに、下を向きながら、その場に佇む。やがて意を決したのか、その男の隣に立ち、それを確かめる。

「……はい、間違いありません」

 風に吹かれたロウソクの火のように弱々しいその言葉は、コンクリートの床に無情にも落ちていく。それに少し遅れて、母は、とうとう膝からくずおれ、両手で顔を覆いながら嗚咽を漏らし始めた。

 男はそのただ一人の家族を失った哀れな女を直視できないでいた。

 私は、母子家庭で育った。父親は私が幼いころに交通事故に遭いすでに他界している。それからは、母は女手一つで私を育ててくれた。私は、そんな母親を尊敬しており、いつか、楽をさせてやりたいと常々思っていた。

 私は母親に対する罪悪感に耐え切れず、この部屋から逃げ出したい思いでいっぱいであったが、どうにも、その場から動けない。耳を塞ぎたい衝動に駆られたが、どうにも耳は無いものだから、その慟哭をただひたすらに自分に刻み付けるしかなかった。


 やはり、私を覆う膜が、波紋を描き始めた。

 それは今までで一番強く、いくら自制しようと思っても、不可能であった。

 ふたたび、何かが抜け落ちていく。

 透明な膜の内側から、多くのモノが抜け落ちていく。 

 再び、小さな球体になる寸前、私の目は死体の顔を捉えていた。

 それは、青白い肌をさせて、しかし、穏やかな表情で、眠っているような若い男のものだった。

 私は、そこに眠るヒトが誰なのか分からなかった。

 それは、おそらく、自分なのだろう。しかし、それが、自分であるという確証を、私は得ることが出来なかった。


 卓球の玉程度の大きさになった私は、宙に漂っていた。

 男はシーツを顔に掛けなおし、膝を付き、女の肩を抱き寄せる。

「新島さん。外に出ましょう。ここは寒いですから」

 その女は、嗚咽を漏らしながらも小さく頷き、男の言葉に従い立ち上がると、テーブルの上を肩越しにちらりと見やり、力なく部屋を出ていった。頬には涙の後が痛々しく刻まれていた。

 男が女を追う形で部屋を出ていくと、扉が閉められた。

 私は死体の上で円を描くようにぷかぷかと漂いながら、自分が何者であるのかを思索した。また、それに飽きると、先ほどの涙を流す女について思いを馳せた。しかし、そのどちらにも、答えは出なかった。

 ココロは静寂な平穏の中にある。しかし、自分が何者なのか、あの女は誰なのかを考えると、そのたびに分厚いモヤがあらわれる。

 全てが不快に感じられて仕方がない。

 私は、それらすべての不快に対して、考えることを止めた。

 後に残るのは解ではなく、快である。

 私は意識が自分のモノではなくなっていくのをうっすらと感じていた。

 遠ざかっていく意識を、私は、捉えることをせずに、ただ、その流れに、全てを任せることにした。

 大事なこと全てに蓋をして。

 

 小さな箱の中に、人間が入っている。

 すでにこと切れており、動き出すことはないだろう。

 それにとっては、どこか、懐かしいような、愛着のある顔立ちをしていた。

 ふいに、箱を炎が包み込む。

 青白い肌は、黒く焦げていき、白い骨があらわになっていく。

 途中、透明な膜に覆われたそれが、箱の中で霧散した。

 しばらくすると、炎は完全に鎮火し、中には、まばらな骨だけが残った。

死んだら全部忘れたいなあ。早く成仏したいな。って感じで書いたお話。

 

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