俺の愛しいお嬢様
男達の四方山話 第三弾
セレン目線(前編)です
物心ついたときは、俺の世界は終わっていた。
両親や兄弟が、いたかどうかも分からない。
俺の周囲は常に悪意に満ち溢れ、殴られ蹴られ暴言を吐かれ蔑まれる。
助けを求めても、必死に手を伸ばしても、それが報われることはない。
暑さを感じていたのはいつまでか、寒さを感じていたのはいつまでか、痛みを感じていたのはいつまでか、辛さを感じていたのはいつまでか。
皆の望むように、死ねば楽になるんじゃないか?
その考えが頭に過ぎったことも、一度や二度なんかじゃない、けれど何故か体は必死に生きることを望み、死肉を漁り木の根を齧って泥水を啜る。
──シナナイ、シネナイ、アノヒトトデアウマデハ──
そんな日々を過ごしたのち、気が付けばいつの間にか俺は囲われていた。
ろくに手入れされていないあちこち崩れた長屋に、痩せこけた子供が集められていた。
不衛生な寝床……壁と屋根とシーツがあって、雨露をしのげれば十分。
一日一食、硬いパンと薄いスープ……毎日食べられるのが信じられなかった。
「黒」と呼ばれ怒鳴られる……暴力を振るわれないならそれでいい。
特に、悪いと思えることもなかったが、周囲の状況は刻々と変化していく。
客が来て、子供を連れて行く。
夜、寝ているうちに何人かがいなくなっていた。
ある程度、子供がいなくなると、また何処からか連れてきて増えた。
それの繰り返し……。
──ツカマルワケニハイカナイ、アノヒトヲミツケルマデハ──
今日も客が来るらしい。
見つからないように中庭の隅で、小さく丸まって蹲る。
全ての感覚を遮断し、ただ石ころがあるかのように気配を殺す。
なのに
ザッザッザッ、砂利を歩く足音に気づいて思わず顔を上げた。
そこにいたのは、光を受けて輝くプラチナブロンドの縦ロールに、見開かれたアーモンド形の猫目のような瞳は紫色で、淡いピンクのドレスを着た、自分とは正反対の妖精のような女の子。
そんな子の利発そうに整った顔の眉が、へにゃんと歪む。
「よかった、やっとみつけた」
──ヨウヤク、デアエタ──
直後その子に手を引かれ、長屋の外に止めてあった豪華な馬車に押し込められた。
椅子も壁も窓にかかったカーテンも、どれもこれも立派すぎて落ち着かない。
モゾモゾと居心地悪く尻の座りを直していると、何やら外で一悶着あってから女の子も護衛人らしき男に支えられて、馬車に乗り込んできた。
馬車内に二人きり、女の子が椅子に座ると馬車は見計らったかのように、ゆっくりと走り出した。
「おまたせして、ごめんね。 あ、おなかへってない? これ、たべる?」
ニッコリ笑いながら、そう言って差し出されたバスケットには薄い木切れの破片のような物が詰まっていた。
だが、甘くいい匂いがするソレ。
初めて見たソレが、一体何なの分からず手を出しあぐねていると、女の子はソレを手に取って、サクッと軽い音をさせ齧った。
「ビスケットっていうの、わたしがたのんでつくってもらったのよ」
サクサク、ポリポリ、ビスケットを齧る音が馬車内に響く。
美味しそうな顔につられ、恐る恐る齧ったビスケット。
それは生まれて初めて口にした、甘い菓子。
次の瞬間、バスケットを膝の上に抱え込み両手で鷲掴んで、口一杯にビスケットを頬張り、貪り食っていた。
「いっぺんにたべると、のどにつめちゃうよ。 はい、かじつすい」
目の前に差し出された竹筒を呷れば、口の中に爽やかな酸味と甘みが広がる。
食べて、飲んで、食べて、飲んで、どれだけの時間が経っただろう。
気が付いた時には、ビスケットも果実水も自分の腹の中に全て消えていて、今まで行儀など考えたこともなかったが、流石に気まずくて顔を上げられず、どうしようかと視線を彷徨わせていると
「じゃ、しょくよくもみたされたことだし、おはなししましょう」
おずおずと様子を窺ってみれば、こちらに向けられていたのは柔らかな笑顔のままで、そこに罵倒も、蔑みも、嘲笑の色もない。
今まで、こんな優しげで柔らかな眼差しなど、一度たりとも向けられたことなどなかった。
「まずは、じこしょうかいね。 わたしは、クレリット・エルランス 5さい。 エルランスたいこうのむすめよ、あなたのおなまえは?」
問いかけたその瞳に、ほんの一瞬浮かんだ興味と期待の色は何か。
「……」
エルランス大公の娘、それがどれだけの身の上なのか全く分からなかったが周囲の状況や馬車の豪華さ、女の子の容貌に着ているドレス、そして先程の甘い菓子。
本来なら俺が、一生お目にかかれることなどない筈の人だ。
そんな女の子が自分の名を尋ねている、答えたい、応えたいのだが『名前』そう言われて頭に思い浮かぶのは、お前、あいつ、そいつ、そして『黒』と。
ゆるゆると首を横に振った。
「そう、でも、なまえがないとふべんだから、なにかなのりたいなまえはある?」
暫く考えて何も思い浮かばず、首を横に振る。
「なら、わたしがつけてもいい?」
何故だか嬉しくなって、ゆっくりと首を縦に振った。
「じゃっ、セレンディバイト」
何の躊躇も躊躇いもない即答。
しかもやたらと長い名前で、覚えるどころか舌を噛みそうだ。
「えっ、セレ……バ……ト?」
「セレンディバイト、いこくのくろいほうせきなの」
「……宝……石?」
「とってもきちょうで、めずらしいほうせきなのよ」
キラキラと輝く紫色が、自分を真っ直ぐに見てる。
その瞳の方が、宝石のようだ。
「セレン、わたしはあなたのいろをだいじにしたいの。 とてもなつかしくてすてきな『くろ』なんだもの、ね」
優しく握られた両手が温かい。
── 暑さを感じていなかったのに ──
生気のなかった黒目に光が宿る。
── 寒さを感じていなかったのに ──
開きっぱなしの目から、後から後から涙が止めどなく溢れてくる。
── 痛みを感じていなかったのに ──
生まれて初めて『人』として見てもらえた。
── 辛さを感じていなかったのに ──
嗚呼、俺はこの人の為に生きて、この人の為に死のう、そう決めた。
お屋敷での生活は、初めてで慣れないことの連続だった。
風呂に入れられて、伸ばし放題だった髪は切られ、汚れっぱなしだった体は身綺麗にされ、一度も触れたことのない服を着せられた。
日に二度の十分な量の食事に、日中の間食。
与えられた使用人部屋の一室、ベッドと棚と机と椅子、そしてクローゼットにはすでに数着の服が掛けられていた。
長屋では十人が押し込められるような広さの部屋を、一人で自由に使っていいと聞いた時には本気で驚いた。
女の子……クレリット様とは、毎日ほぼ一緒に過ごしていた。
朝起きて朝食を食べ、家庭教師が来ると一緒に授業を受ける。
舞踊はまだしも、礼法と座学は壊滅的なダメさだった。
クレリット様が年齢よりも数段上の授業を受けている横で、読み書き計算から。
あまりの不出来に残念な目を向ける家庭教師をよそに、クレリット様が後から懇切丁寧に教えてくれた。
正直、クレリット様の教え方の方が百倍は分かりやすかった。
痩せていた体に肉が付くごとに、剣術は学びやすくなったが、魔法に関しては今一と言ったところだ。
魔力が大きくて、どうしても大雑把な魔力操作になってしまう俺に対してクレリット様の緻密な魔力操作に、教師である前魔法師団長も舌を巻く。
なのに
「やっぱりセレンのまりょくはおおきいわね、すごいわ。 こればっかりは、うまれもったさいのうね、わたしではどうにもできないのはわかっているわ、でも、いいなー」
そこには、嘘も誤魔化しもおためごかしの色も全くない、唯々純粋に憧れを孕んだ目で見つめられ、自分の心の中の空洞が日々、甘やかな何かで満たされていくのを感じていた。
日々に慣れ、屋敷に馴染み、目まぐるしいながらも安穏として過ごした半年間。
しかしその日、自分にとっての平和な時間など、決して長くは続かないのだと思い知らされた。
クレリット様と第一王子との婚約が、正式に取り決められたのだと聞いた。
そして王妃教育を修めるために、今後はここ大公領ではなく王都に住むことになるのだという。
家人達が祝福ムードの中で、そうでない人物は二人……正確には三人だが。
その後に顔を合わせたクレリット様は、いつもの柔らかく表情豊かな雰囲気はなく酷く硬い顔をしていた。
「セレン、わたし、だいいちおうじとこんやくすることになったの。 それで、おうひきょういくをまなぶから、こんどからおうとでくらすの。 ねんにいちどぐらいは、かえってこられるとおもうわ。 セレンはこのままここで、まほうのべんきょうをがんばってね」
突如、明確に引かれた線引きに、一つの思いが持ち上がった。
屋敷の使用人達との関わり合いで、色々な事情を理解して前々からいつかは戒めなければならない、と思っていた事。
「お嬢様」
「……」
読んだ名の違いにお嬢様の硬い表情が崩れ、みるみる頬を膨らませた。
まるで本物の小動物ような可愛らしさだが、続けた言葉でその様子は凍り付いた。
「第一王子とのご婚約、おめでとうございます」
「っ!?」
家庭教師から、大公令嬢に仕えるのだからと、口酸っぱく教えられた従者としての立ち振る舞い。
お嬢様は、紫の瞳が零れ落ちてしまうのではないかと、心配になるほど目を見開き顔色を青くし、体も小刻みに震えていた。
そんなに驚くほど、自分の出来は拙かっただろうかと、二の句が継げないでいると
「わっ、わたしは、セレンにじゅうしゃなんてのぞんでないわっ!」
そう叫んで、廊下を走って行ってしまった。
いつもと違って、頑張った事に対してのお褒めの言葉がなかったのは寂しかったが、でも良いことを聞いたと思った。
従者になれれば、お嬢様と一緒にいられるんだと気付いたのだから。
その日以降、旦那様に毎日毎日、必死にお嬢様の従者になりたいと願い出た。
本来なら、お嬢様に認めてもらってからの方がいいことは分かっている。
けれど、あの様子では絶対に許してもらえないだろう、だから
「今はまだ従者として頼りないと思いますが、この命に代えてもお嬢様をお守りします」
旦那様に告げた言葉に、魔力を乗せてしまったことは仕方ないと思う。
だがその誓いはお嬢様には不服だったようで、後々呼び出されて
「いのちがけでまもられても、ちっともうれしくない。 セレンがしんだら、わたくしはかなしいわ。 だから、わたくしのためなら、いっしょにいきてちょうだい。 やくそくしてね」
今までになく必死で、真剣な表情でそう言われてしまった。
純粋にお嬢様の言葉には従いたい、だがいざとなった時に命を懸けることに迷いはない。
その二つの想いを秤にかけ、約束は口にできず、頷くのが精一杯だった。
王都のタウンハウスで暮らすようになって、生活様式は変化する。
お嬢様は、いつもの授業に王妃教育も加わり、度々登城するようになった。
その間、俺は魔法と剣術を中心に他の授業も組み込んでいくが、メインは大公令嬢の従者として、相応しいだけの様々な指導を執事さんから受けている。
人の目のある場所では、お嬢様は主らしい態度をとり、俺は従者となる。
が、二人っきりの時はその限りではなく。
今日も今日とて、剣術指南の教師にコテンパンにやられ、庭の端で息をついていると、こちらに向かってお嬢様が駆け寄ってきた。
「セレン、だいじょうぶ? これのんで」
あちこちにある打撲の痕を痛ましそうに見ながら、両手で何かを掬うような形にして口元に差し出してきた。
見ると掌の底の方に、僅かな量の透明の液体が溜まっている。
先程まで走ってきたのに、この水はどこから湧いたのだろう?と思わなくもなかったが、お嬢様が望むならそれが毒でも飲み干す。
ビスクドールのような小さな掌に口をつけ、液体を飲んだ。
「どう、かな?」
その問い掛けは、味の事だと思った。
無色透明の液体に味はなく、強いて言えば僅かな塩味、その塩が何の味なのかは言わぬが花、だと言うことは分かっている。
何と答えたらいいかと迷っていると、何だか体が軽くなっているような気が。
「あんまりききめないのかな、セレン、もういっかいのんで」
「え!?」
小さな掌の底に、見る見る液体が溜まっていく。
「お嬢様、まさかこれはポーションですか!?」
ポーション……普通は薬の知識がある者が、様々な薬草と水と魔力を大鍋なんかで一緒に煮出して作る、所謂、水薬だ。
だがたまに、こんな風に身一つで作り出せる者もいることはいる。
その時の材料は、体内で作り出せる水と魔力で、水魔法の一種だと言われてもいるが、当人の血や体液を水に変えているのではないのか? と言われるぐらい魔力消耗が無駄に多く数は作れない、と先日の魔法授業で習ったばかりだ。
お嬢様の両手を恭しく包んで、ゆっくりとポーションを口に含むと、先程と違いそれは仄かに甘い味がした。
「有難うございますお嬢様、大変楽になりました。 ですが、このような無理はなさらないで下さい」
「わたしはかいふくまほうをつかえない、ポーションしかないのよ」
回復魔法が使えるのは、神官の一部か、水魔法が特化した者か、聖魔法を宿した者くらいだ。
聖魔法保持者など、黒髪黒目の出現率と同じぐらいではなかろうか。
ならポーションを作れるというのは、便利だろう。
だからと言って、本当に身を削るような無理をして欲しくない。
「お嬢様、すぐにポーションがいらないぐらい強くなりますから、くれぐれも無理はなさらないでくださいね」
曖昧気味に微笑んでさらに念を押せば、お嬢様は真剣な表情で
「だいじょうぶよ、あんしんしてセレン。 そのうち、こうしゅけいになろうとも、だんとうだいのつゆにきえようとも、しんでないかぎり、かんぜんかいふくのフルポーションをつくるから!」
……お嬢様、一体どこを目指しているのですか?
そんな日々を過ごし王都に来て半年、そろそろ社交シーズンが始まろうかという時期、丁度、お嬢様は六歳になられる。
今までは大公領で行われていた誕生日パーティーも第一王子の婚約者としてのお披露目も兼ね、このまま王都で行うと。
だが俺は当然ながら、そのパーティーには出席できない。
正式な従者でもなく、まだ子供である俺は、側に控えることもパーティーの裏方としても、手伝えることはないらしい。
今まで誕生日を祝われたことなどなく、一体何をするのか知らなかったので、教師の中で一番気の合う、前魔術師団長に聞いてみたら、貴族のそれは自分の顔見せと名売りの意味合いがあり、謂わば家の都合。
ただ個人のそれは、生まれた事と産んでくれた人に感謝する日であり、この世に生を得た事を祝い、御馳走を食べたり、贈り物をするのだと……。
「えっ!? 贈り物ですか」
「そうさの、大公令嬢、しかも第一王子の婚約者じゃ。 さぞかし金銀財宝が集まるのだろうな」
そう先生に言われて、頭を抱える。
まだ働いてなどいないから、給金を貰える身などではないのに、小遣いという名目で毎月金銭を支給されているし、使う必要も時間もないからずっと貯めてはいるが、そんな金額で何でも持っているお嬢様に贈れる物などあるわけがない。
「さてその金銀財宝の中で、どれだけの数が真にクレリット様を思っての贈り物だろうかの」
「……え?」
「貴族であるならば、エルランス大公家と縁が欲しい。 第一王子、ひいては王家と親しくありたい。 その思いがあって当然で然るべきだからのぅ、幼子のご機嫌など格好の餌食よ。 まぁクレリット様は、その辺りも分かった上で対応されておられそうだからの。 いやいや、将来が末恐ろしいお子よ」
「……先生、俺にできそうな事ってありませんか」
「ふむ、ならば今日の授業はそれにしようかの」
長い白髭をゆっくりと撫でながら、反対の手を握ったと思えば、すぐに開いた掌には、透明で繊細なデザインのカメオがあった。
「これは?」
「結界魔法の応用じゃよ、小さな範囲で結界を張り思いの形に留める。 小ささ故に、常に魔力を補充しないと瞬く間に霧散してしまうがのぉ。 お主の大雑把な魔力制御では、ちと難しいかもしれんがな」
カメオを消すと同時に、挑戦的な笑みを浮かべた先生。
もうそこからは俄然やる気になって、日がな一日、魔力操作に費やしたのは言うまでもない。
周囲が夕焼けに染まる頃、授業を死に物狂いで終わらせた俺は、裏庭の隅で探し物をしてた。
以前、この辺にあったのを見つけていたのだが、何せまともな生き方をしてこなかったから、今までそんな見方をしてないので、どんな構造なのか良く分からなかったのだ。
「何だこいつ、こんな所に化け物がいるぞ」
唐突に後ろから叫ばれた声に振り向くと、立派な服を着た四人の子供が立ち並んでいた。
「化け物?」
「あ゛ー黒髪黒目、魔を呼ぶってやつか」
「なんで化け物が、大公家にいるんだ?」
あぁ、久しぶりだと思う。
侮り、恐怖、憎悪、不快、そんな目で見られるのは。
そして自分の甘さも嫌になる。
以前は、常に周囲の様子を気にして、身を隠し自然と気配も消していた。
一年前はそんな世界で生きていたはずなのに、たった一年でどれだけ自分の世界が変わったのか。
しかしそれはこの大公家の中だけで、1歩外に出ればこの有様なのだと改めて実感した。
お嬢様の誕生日パーティーに招待された、貴族の子弟なのだろう。
暇を持て余して裏庭まで探索に来てしまったか、単純に迷ったか。
しかし、この流れはあまり良くないと思った。
年齢の同じような相手だ、今の俺なら逃げ切ることは容易いだろうが、ここで騒ぎになっては、お嬢様のパーティーを台無しにしてしまう。
ならば口を封じればいいかと言えば、勿論そんなことをすれば、大公家に迷惑をかける程度で済めばいい方だろう。
だったら自分が取れる方法は一つ、相手の気が済むまでやらせればいいだけだ。
「何とか言えよ、化け物」
「なんだ、化け物には人の言葉は通じないのか」
「化け物は退治しないとな」
「そうしたら、父様に褒められるかな」
貴族の子供達はそう言いながら、周囲をキョロキョロと見回した。
武器になるような物を探しているのだろうが、生憎ここの庭師の仕事は完璧で棒っ切れ1本と落ちてない。
それでも、花壇の中から数個の小石を見つけたようだが、そんな小石数個でどうしようというのか。
もしここにいるのが、本当に人の言葉を理解しない化け物なら、いや普通の動物でも、無傷のまま手負いの獣となって牙を剥くだろうに。
まぁ、俺は人の言葉が分かるから、甘んじて受けようとは思っているが、でも一応自分の周囲に結界魔法を張っておく。
万が一にも怪我をして、またお嬢様が無茶をして、ポーションを作ったりしたら大変だから。
まさか今日の授業が、こんな風に役立つとは思わなかった。
「食らえ、化け物っ!」
「なにをなさっているのですか」
子供が腕を振り上げた瞬間、屋敷側から貴族令嬢らしい凛とした声が響いた。
そしてそのまま、こちらに向かって歩いてくる。
「クレリット嬢」
「こちらに来ては危険です」
「化け物が潜んでいたので」
「今すぐ、退治してみせます」
子供達は自分の勇敢さと武勇を示そうとしたが、お嬢様はそんな彼等の横を通り過ぎ、俺を庇う様に子供達との間に立ちはだかった。
「このものは、わたくしのじゅうしゃみならいですが、なにかしつれいでも」
「えっ!?」
「この、化けも……いや、彼が」
「あ、いや、失礼なことは」
「なぁ」
先程までの勢いは何処へやら、お嬢様の一言で子供達は目を白黒させた。
「しつれいがないのでしたら、よろしかったですわ。 セレン、あなたはへやにもどりなさい」
「はい、失礼いたします、お嬢様」
頭を下げ、間違いない礼法を見せると、子供達の息をのむ音が聞こえた。
相手は人間、しかもこの国で最高位の大公令嬢の従者見習いを集団で害そうとしたのだから。
子供とはいえ下手をすれば叱られる程度では、済まない。
やっと、自分達が何をしようとしていたのか理解したのだろう。
「では、わたくしたちはホールにもどりましょう」
「クレリット嬢、僕がエスコートを」
「君では身長が合わないだろう」
「ならば、僕が」
「身分を考えると、私ではないかな」
エスコート役を取り合い、結局両手を引かれるように戻っていったお嬢様は淑女というよりはまだ小さな女の子で、でもあの子等が今お嬢様の手を何の躊躇もなく取れるのが、憎いと思った。
先程は自分が害されようとも、何の感情も沸かなかったというのに。
その大本の感情の名は、分からないままだったが。
少しだけ夜の帳が下り始めた頃、自室のドアが弱々しくノックされる。
今日この部屋に来てくれる人物なんて、分かりきっている。
ベッドから跳び起きると、返事もしないままドアを開けた。
瞬間、小さなプラチナブロンドの塊が腰に抱き付いてきた。
腹に顔を埋めたまま、苦しいぐらいにギューッと抱きしめて離れない。
「お嬢様?」
「……ごめん、ごめんねセレン、あんなひどいこと」
「大丈夫ですよ、お嬢様、あんなの何でもありません」
「でも、わたしもセレンのこと、ちゃんとまもれなかった」
「従者見習いだと、認めてくれたじゃないですか」
「……じゅうしゃになんかしたくないのに……」
「俺は、お嬢様の従者になりたいんです」
「……」
あんな酷い事、は普通の日常だった。
そこから救い上げてくれた人が、俺よりもその事を悲しんでくれている。
もうそれだけで、全てが報われる、温かい何かに包まれる気がする。
その甘やかなナニカを堪能していたい気持ちが無い訳ではないが、流石にドアを開けてすぐのところで、男の従者(見習い)の腹に主が顔を埋めてグリグリしているのは、些か不味いだろう。
「ところでお嬢様、俺の誕生日を祝ってくれるのではなかったのですか」
弾けるように顔を上げたお嬢様は、その紫目に俺を映す。
「えっ、あっ、うん、セレン、おたんじょうびおめでとう」
「ありがとうございます。 お嬢様も、お誕生日おめでとうございます」
「ありがとう」
そしてやっと、無邪気な笑顔を見せてくれた。
大公領のお屋敷にいた時に、年と誕生日は分かるか、とお嬢様に尋ねられた。
名前さえ分からなかったのだ、日々生きるのが精一杯で誕生日の存在さえ知らなかった。
首を横に振ると
「じゃぁ、わたしとおなじひにしましょう。 ねんれいは、いま、8さい! わたしより、3さいとしうえのおにいさんね」
その約束が、今から果たされるのだと思うと、とても心地よいと思えた。
お嬢様を部屋に招くと、クッションを沢山置いた椅子に座らせる。
度々、お嬢様が部屋に来ているので、お嬢様用のアイテムは準備万端だ。
お嬢様が運んできていた小さいワゴンを部屋に入れると、ここにテーブルはないから、ワゴンをお嬢様とベッドの間に固定させて付け焼刃のサーブを始める。
シードル瓶の蝋封を剥がしコルク栓を抜いて、グラスに注ぐと琥珀色に細やかな泡が湧いた。
クロッシュを持ち上げて見れば、奇麗に彩られた二人分のオードブル。
「りょうりちょうにたのんで、つくってもらってたのよ。 さぁ、かんぱいしましょう」
優しく細められた紫目に、どうやらサーブの及第点はもらえたらしい。
ベッド側に腰かけ、グラスを持つ。
「セレン、9さいのおたんじょうびおめでとう」
「ありがとうございます。 お嬢様、六歳のお誕生日おめでとうございます」
「うん、ありがとう」
改めて互いを祝福し、シードルを口に含んだ。
甘口で微炭酸のそれは、侍従指導で飲んだ物よりかなりアルコールは低い。
お嬢様用に料理長が気を使ったのだろう。
「セレン、これおたんじょうびぷれぜんと」
「嬉しいです、お嬢様」
お嬢様がワゴンの下に隠すように置いていた、バスケットを取り出しこちらに差し出す。
受け取ったのは『あの日』のバスケット。
「でも、ほんとうにそんなのでよかったの?」
「はい、何よりの贈り物です」
プレゼントに何が欲しいか聞かれた時、すぐに思い浮かんだ、だから願った。
そっとバスケットを開けると、あの日と同じ匂いが……。
「わたしがやいたのよ、まえとおなじのと、ちょっとくふうしたのと」
「……は?」
「いろいろなハーブや、きのみや、こうちゃばをいれてみたの」
「えっ、ちょっ」
「いつもよりかたくやきしめたから、ひもちするのよ、そのビスケット」
「お嬢様が厨房に入られたのですか!?」
「うん、だってセレンへのプレゼントだもの、ひとまかせになんてしないわ」
悪戯が成功したと、目を細めて笑うお嬢様に理解が追い付かない。
たまにお嬢様はとんでもない事をしてくれるが、大公令嬢が厨房に入ったとしかも料理をした。
料理長はどうして止めなかったのか、まぁ止めて聞くお嬢様ではないか……。
旦那様に叱られそうだ。
「おとうさまにも、りょうりちょうにも、あじみしてもらったから、ちゃんとおいしいのよ」
執事さんに叱られるかな。
とりあえず明日の懸念は頭の隅に片付けるとして、バスケットを脇に置くとグラスを持つお嬢様の小さな手を見る。
「有難うございます、お嬢様。 本当に嬉しいのですが、火傷なんかされてませんよね」
「だいじょうぶ、ちゃんとりょうりちょうに、みててもらってたから」
うん、料理長も叱られるな。
苦笑しながら、グラスを持っていない方の手を両手で包み目の前までゆっくりと持ち上げる。
夕方、お嬢様の手を取られた時の憎さが、すっと消えていく。
俺は両手でお嬢様の手を持てる事を許されている、それはほんの少しの優越感。
「お嬢様、俺からは感謝の気持ちを込めて」
目の前に捧げた掌に、透明の小さな野苺の花が咲く。
花と言われれて、実が食べられる野苺くらいしか思い浮かばなかった。
それでも、どんな花だったかよく覚えていない自分に呆気にとられた。
奇麗に真ん丸く目を見張ったお嬢様が花に触れようとした瞬間、空気に溶けるように透明の花は霧散してしまう。
「……あ」
「すみません、今はこれが精一杯なんです。 もっと魔力操作ができるようになったら、沢山の花を長い時間咲かせる……お嬢様?」
お嬢様は真ん丸にした目をさらに大きく見開いてから、照れたように目元を赤らめた。
「リッ、リアルでいわれると、かなりのはかいりょくがあります、わ」
お嬢様は、時々、理解できない事を言われますが、喜んで頂けたなら何よりです。
あのシーン、いいよね。




