180話 追憶の試練
よろしくお願い致します。
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「さて、迷いの森……ね──」
迷いの森に侵入するのは初めてではない。今のアースティアに於いて過去、二、三度立ち入った経験はあった。
だが、確固たる“目的”を持って侵入するのは、今回が初めての事だ。ここからは感情を表にさらけ出さない様、更なる覚悟を以て挑まなければならない──
私は再びクリス。彼女の小さな手を取り、キュッと握り締める。
「さあ、行きましょう、クリスティーナ。ここから自ら発した感情は、全て何らかの“象”となって自身の身に何かの影響を及ぼすわ。この場にふたりできた最大の要点は、片方がそういった状況に陥った時。もう片方が混乱した意識を正気に戻す役目を担う為なの。勿論分かってるわよね? もしも、私がそうなった時はよろしく助けて頂戴ね?」
「そうだね。だけど、大丈夫。何故だか今のボクは、いつもより思ってた以上に冷静だよ。だから、きっと上手くいく。さあ行こう。フォステリア姉さん。桃源郷の在処を見付ける為に──」
「──ええ」
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そして私達は、迷いの森へと足を踏み入れて行った。
──『迷いの森』──
それは侵入者に対して、最も過酷な空間となる領域──
立ち入る事は誰に於いても容易く、そして抜け出す事は途方もなく困難とされている。
立ち入った者は、まず真っ先に方向感覚を失う。同じ所を訳も分からず、さ迷う羽目となる。
次に森が放つ幻惑によって試される事となるのだ。
それは、記憶の親族や知人だったり、または自らの礎となる体験であったり──
とにかく侵入者に対して、最も近しく大切と感じているものを幻惑として生み出してくる。
そして、それに対して発する感情に、過敏に反応してくるのだ。
規模が大きければ、その場で森が繰り出す蔦などによってがんじがらめとなり、場合によっては即、命を落とす程だ。
また、それに耐えてもその行為は、森を抜け切るまで延々と途切れる事はない。
そう、迷いの森によって護られているもの。即ち──場所。
それに辿り着けるに相応しい者かどうか、試される訳となるのだ。
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実質、私も突然として現れる筈のないミナやミオ。または、今は亡き友だった神狼であるカイやイルマの幻影に大いに悩まされたが、何とか耐え凌げていた。
だが──
「……はあはあ……アレン……コリィ……」
直ぐ後ろ隣を歩いているクリスの息が荒い。
かなり苦しそうだ。
無理もない。クリスティーナ、今は女性である彼女。
この精霊界へと侵入している精神の依り代となる媒体が、この場所。迷いの森とは正に相反し合う属性の火の精霊だったからだ。
火の属性である炎は如何なる物も焼き尽くす──
火トカゲ、サラマンデルとて、それは例外ではない。
クリスに掛かる精神的負担は、私のそれよりも大きいのは最早必須であった。
「ク、クリスティーナ。大丈夫なの!?……絶対に無理はしないでね? きつかったらそう言って頂戴。迷いの森の幻惑は、ちょっとした隙に付け込んでくるから」
「……う、うん。ありがとう、フォステリア姉さん。だけど、まだ大丈夫……だよ……」
クリスの弱冠乱れた呼吸の声に、私は振り返りながら彼女に再び声を掛ける。
「本当?……少しでもきついと感じたのなら遠慮なく言って。私の精霊力をあなたに分け与えるから」
「……あり……がとう……」
クリスが力なく笑った。そんな時──
───
『──フォス』
不意にそれは私の直ぐ後ろで聞こえた。
──ああ、懐かしいと感じるこの呼び方、この声は……。
『フォス。さあ、こちらにおいで。僕と外の世界へと旅立とう──』
──ああ、あ……あ……ま、まさか、また逢える事ができるなんて……
私は溢れてくる涙をそのままに、声が聞こえてくる方へと振り返った。
『僕達はいつも一緒だ──』
「──ああっ……!!……あっ……あああっっ……!」
冒険者風の出で立ちの青年が、爽やかな笑みを浮かべて私へと手を差し伸べていた。
……間違いない……“記憶の男性”だ……!
─────
エルフの里である“静かなる森”──
その場所で、里の護人として生を受けたハイエルフであるこの私──
あの頃の私は、生まれ故郷であるこの静かなる森の中が全てであり、また知る必要もないとされ、自身も特に興味はなかった。
外界は人間という種族によって穢れており、いずれ自らの行為によって、大きな禍を自らの身を以て思い知る事になるだろう。
なんて愚かな種族──“人間”。
だけど──
──貴方は突然私の前に現れた。
初めて聞く異国の言葉。その魅惑的な響きに、私は彼に興味を持った。
冒険の最中に、偶然にもこの“静かなる森”へと迷い込んでしまった彼。
そんな彼が話す外の世界の話や、今までの自身の体験談──
彼が語る自らの信念や、先にある自身の大きな夢──
彼の全てを包み込む様な──何故だかそう感じる、温かさと不思議な人柄に──
──私は次第に惹かれていった──
───
何も知らない私に、広い世界の素晴らしさを教えてくれた彼──
穏やかながらも、何処か物足りなさを感じていた私の心を満たしてくれた彼──
そして人を愛する恋愛感情を、私に抱かせてくれた彼──
今までの生涯の中で、唯一愛した異性の人──
─────
『さあ、フォス。おいで──』
「……ああっ……ああああっ……!」
差し出された彼の手に、私は手を伸ばそうとする。
『さあ──』
………。
──貴方は私の愛した人──
だけど──
───
私は彼の手に触れようとした自らの手を、既の所で引き戻す。
『フォス……?』
怪訝そうな顔で呟く彼に、私は宣言する様に声を上げた。
「ええ、貴方は確かに私が愛した人……あれから私は貴方の手を取り、外の世界へと共に旅立った。“静かなる森”の護人たる役目を放棄して──」
彼は無言で差し伸べていた手を引っ込めると、じっと私の顔を見つめていた。
「貴方との外の生活は私にとって素晴らしいものだった。今まで見た事もなかった様々な光景、知り得なかった数々の体験──毎日が満たされて、楽しくて、幸せで……何より愛する人。その傍らにいつも共にいられる事が最も嬉しかった。だけど──」
『フォス……』
「時間というのは本当に残酷よね? 老いていく“人間”としての存在である貴方──やがて、私はひとりとなった。だけど、貴方と出逢った事は決して後悔してないわ。だって、この世界がこんなにも広く素晴らしいものだと、貴方は私に教えてくれたから。だから、ありがとう。私の愛した人──」
『フォス……ふっ、そうか。やっぱり君は強い人だな──』
彼は静かに笑いながら目を閉じる。
「貴方と死別した私は“静かなる森”には戻らず、やがて我が主、風の大精霊によって、次の『守護する者』に選ばれた──そう、今の私は貴方に恋し、外界へと飛び出したひとりのハイエルフの稚い女なんかじゃない!」
そう言葉を放った瞬間。私の身体を覆う様に、黄緑色に輝く疾風が渦巻いた。
やがて、私という存在を象っていた形が、衣を覆っていただけの少女から、胸当てを取り付け、精霊の刺突剣グロリアスを腰に帯び、長身の身体に紫のマント。そして金色の長髪──
本来の自分の姿を取り戻す。
「──今の私は、風の大精霊を『守護する者』。ハイエルフのフォステリア・ラエテティア──さようなら。かつての私の最も大切だった人──」
──ヒュンッヒュンッ
私は腰に帯びたグロリアスを抜き取り、“彼”を十文字に切り裂いた。
───
『お見事。風を『守護する者』、フォステリア・ラエテティア──』
そう女性の声を発しながら、“彼の幻影”は消えていった。
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……ふう、終わったか……。
──!! そういえばクリス! クリスはどうなった!?
私は直ぐ様周囲を見回した。
不意に聞こえる甲高い声。
「お母さんっ!!」
──クリス!
私は声のした方向へと目をやる。
そこにはまだ若いと思われる女性が、クリスへと手を差し伸べていた。
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『クリスティーナ! ああ、私の可愛いクリスティーナ!……良かった……本当に良かった。あなたがこんなに可愛らしい女の子になっていてくれて……男の子に生まれて族長と火の『守護する者』としての重荷となる枷……何より火竜の封印──忌まわしい呪いを、あなたは免れる事ができたわ。本当に良かった……もし仮にクリスティーナ。あなたが男の子として生まれてきていたのなら、母さん……きっと……』
『……お母さん……』
女性が差し伸べていた手を、クリスが受け取ろうと手を差し伸べ様としていた。
「止めろ、クリス! それは幻影だ! 惑わされるな、気を強く持て!!」
私はクリスに向かって声を上げた。
少女の姿であるクリスが、今まさに差し出された手を取ろうとしたその時。
クリスは伸ばした手を、下に下ろすのと同時にうつ向いた。
「お母さん、ありがとう。ボクの事をそんなに思っていてくれて……そんなに愛していてくれて……本当にありがとう……」
『クリス……ティーナ……?』
うつ向いたまま、クリスは言葉を続ける。
「だけどね。やっぱり男の子で生まれたい──これはボクの我儘なの。お母さんのやさしさを全て無駄にしてしまったけれど、ボクは男の子に生まれて族長になりたい! 火の『守護する者』に選ばれたい! 何かを成し遂げる大きな力が欲しかったの……ごめんね」
『クリスティーナ……』
うつ向いていたクリスが顔を上げた瞬間、燃え盛る様な赤い閃光が、彼女の薄い衣を纏っただけの少女としての身体を覆い隠した。
「本当にごめんね……」
やがて、閃光が収まりその姿が顕になる。
長かった藍色の髪は首元までになり、身体には白い法衣。利き手である左手には、刃の付いた長杖を手にしていた。
「──そやけどな、おかん。そのおかげで僕はこの力を得る事ができたんや。今の“男の子であるクリスティーナ”っていう存在になれた事でな!──そう、今の僕は火の『守護する者』クリスティーナ・ソレイユや! だから……ホンマにごめんな。かんにんやで──」
クリスは次に手に持った長杖で、自身の母親である幻影をビュンッと掻き消す様に打ち払った。
手を伸ばしたままの女性の幻影が、消え去ろうとする。
「そやけど、僕もおかんの事。すごく好きやで! メッチャ愛してるから──」
そして再び響く女性の声──
『お見事。火を『守護する者』、クリスティーナ・ソレイユ──』
そしてクリスの母親を象った幻影は、完全に消滅したのだった。
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「クリス、無事か!?」
「うん、フォス姉。僕は大丈夫やで! 身体も男に戻ったみたいやし、フォス姉も元に戻ってるみたいやな……これは僕達は認められたって事でええんやろか?」
「ふむ……おそらくはな。後はどうするかだが……」
ふたり声を掛け合う。
直後、突然として私達ふたりの目の前に、目映いばかりの黄色い光を放つ光球が出現し、宙に浮き上がる姿が確認できたのだった。
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『『守護する者』、フォステリア・ラエテティア。クリスティーナ・ソレイユ。“迷いの森”──幻影の試練を見事乗り越えました。あなた方ふたりを認めましょう』
黄色い光の球体は、言葉を続ける。
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『ようこそ。わたくしが地の大精霊です。あなた方がこの場所を訪れた理由は既に存じ上げています。けれど、その前にわたくしから語らせて貰う事があります。まずはわたくしの話に、暫しの間耳を傾けて頂きましょうか──』