129話 アレン王子と名もなき兵士
よろしくお願い致します。
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──ピチャンピチャンと、天井から落ちる水滴の音が耳に届いてくる。
「……寒い……」
そう小さく声を漏らし、ふと周りに目をやる。
岩肌の壁にひとつの小さなベッド。奥には仕切りがあり、簡易的な厠が備え付けられてある。
ただそれだけの無機質な雰囲気を漂わせる空間。その薄暗い空間である部屋を仕切っている頑丈な鉄格子の外で、照明の為の松明の炎がユラユラと揺らめき、周囲を僅かに照らし出していた。
(……寒いと感じるのは、僕が生きる事をまだ完全に諦め切れてない証拠なのか……)
手足に枷を取り付けられた金髪の青年が、憔悴しきった身体を動かせぬようにあぐらをかき、うつ向いている。
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──ノースデイ王国、王都バール。ここはその場所にある地下牢だ。そしてその中のひとつの牢獄でうつ向いているこの青年こそが、かつてのこの国の第一王子であるアレン・ジ・ノースデイだった。
青年アレンは虚ろな目を地面に向けたまま、無意識に心の中で言葉を紡ぎ出す。
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(……僕は全て失ってしまった……生きる目的も存在意義も、もう何も残ってない……なのに、何故死ぬ事ができないんだ……何故そうする事をためらうんだ……?)
支給され続けてきた食事も、ことごとく食べる事を拒み続けてきたが、結局限界が超えれば何も考えずにかぶり付く自分がいた。
手足は束縛されてはいるが、いざその気になれば舌を噛み切る事だってできる。
──だが、できなかった。“死ぬ事”を望まない自分がいる。
込み上げてくる惨めな感情に、思わず目頭が熱くなる。
「……ふふ……僕は結局、死ぬ勇気すらないんだ……」
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「それは違うと思うな……王子さんよ」
「──!?」
自身が発した呟きの言葉に、思いも掛けず返ってくる返事──それに驚き、アレンは顔を上げる。
目の前に鉄格子越しに立つひとりの警備兵の姿が目に入ってきた。手には新しい食事のトレイを持っている。
その兵士は屈み、受け渡し用の柵状の小窓を錠で解く。そこから前に置かれていた手を付けていない食事を下げ、新しい物と交換する。
「食べてないのか?……そりゃ駄目だぜ。食うって事は大事だ。何せ生きる為の最も大事な行為だからな」
そう声を掛けてくる兵士の男。
アレンもこの兵士の事は知っていた。いつも無言で行われる警備兵とのやり取りの中で、唯一彼だけがアレンに言葉を掛けてくれる人物だったからだ。
そして何回か、彼から外の情報も伝えられて貰った事もあった。
「……違う……何故そう思うのですか?」
アレンはその兵士に向かって言葉を投げ掛ける。
フードを被り、無精髭を生やした男がそれに答えた。
「だってそりゃよ、現に今、あんた生きてるじゃねぇか」
「………」
「飯だって我慢できなくなりゃ最終的には食うし、死ぬ事だってその気になりゃどうにかして死ぬ方法はいくらだってある……だが、あんたはそれをしようとはしない。人間なんて皆そうさ、心がどう思おうが身体は本能的に生きようとする……皆、死にたくはない。生きようと必死に足掻く……それが人間ってもんさ──あんたもそうは思わないか?」
「……私が死ぬ事を拒んでいると……?」
「さあ、それは俺には分からねぇよ……だが、あんたも人間だろう。心ん中じゃどう思ってても、身体は生きようと求め続ける……それに王子、あんたには、まだするべき事があるんだろ?」
「私にする事?……今の僕にするべき事なんて──」
「これは最近知ったばかりの情報なんだけどな」
そう言いながら、その兵士の男は立ち上がる。
「先日から行方をくらましているコリィ王子──その名を語る謎の小規模集団が、行く先々の関所駐屯兵をけち散らしながら、ここに向かっているそうだ。名は──“小さな反乱軍”……確か、そう名乗ってると聞いたな……」
(……そ、そんなまさか……)
「……コリィ」
「それと何でもよ、王子。あんたを助けに火の寺院の奴らが、ここバールに迫って来てるらしいぜ」
「!?──クリス!」
兵士がもたらすその情報に、アレンは目を見開き、地面を凝視する。
「……クリスが来てる……いや、来てくれているのか……?」
アレンはそう呟きながら、牢獄に入れられる時、取り外す事が敵わず、そのまま残される事となった自らの右腕にあるブレスレットに視線を落とした。
炎と竜を象った細工が施された銀のブレスレット──幼い時に知り合った大切な友人。その友から譲り受けた大切な自分の最早、身体の一部分──
思い浮かんでくるかつての親友の綺麗な笑顔──
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──大丈夫や、心配せんでもええ。離れる事になっても、僕はずっとお前と一緒におるさかい。必ずアレンの事、守ったるから──
──アレンは僕にとって、大切なやつやって、そう思ってんねんで。
──何ちゅうても……。
──僕、クリスとアレンは、“親友”やもんな。
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(──クリス)
チリッチリッと、アレンの中で久しく忘れていた熱い何かが、くすぶりを始める。
「……コリィ、クリス。何故……今の僕は、希望も目的も失ったカラッポの価値のない、そんな存在意義のない人間だ……なのに何故ふたり共、僕の事を助けようとしてくれるんだ……?」
アレンの口から絞り出されるような呟く小さな言葉。
「……そりゃ、あんたの事を大切に思ってるからだろ?」
「──えっ……?」
アレンはそう答える兵士を見上げ、視線を向ける。
「その奴らが、アレン王子。あんたの事を大切に思っている。カラッポになってようが、価値がないダメ人間になってようが、そんなの関係ねぇ──あんたは今、“生きてここにいる”──その事実がある限り、奴らは必死になってあんたの事を助けようとするだろうさ」
「──そ、それは……」
「あんたも本当はもう分かってるんだろ? 自分が死ぬ事を拒絶する理由──あんたの中にも大切と思う人達や物が、または己の信念が必ずある筈だ。それがある限り、人間は絶対に死ぬ事を望まねぇ。あんたの事を助け出そうとしている奴らもそれは同じだ……」
「………」
「……アレン王子、あんたはあんたを知る人達の中で大切に生きている。人は互いに大切な“何か”を失う事も、失わされる事も怖れ、必死に抗う──あんたの命はもう自身の物だけじゃねぇんだ……皆、そうやって生きているのさ──」
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(──生きている──)
アレンはその言葉に、静かに目を閉じる。
──沸き上がってくる熱い何か……それは既に明確な形となって彼の中に存在する事となった。
“生きる”──それを強く望む意志の力へと──
アレンは閉じていた目を開ける。その開かれた瞳には、先程とは明らかに違う強い光を宿していた。
「……へへっ、いい顔付きになったじゃねぇか? やっとその気になったか──」
「はい。自分が愚かでした。そして気付きました──今の私が“何をすべき”なのかを……ありがとうございます。だけど、何故あなたは私の……僕の事を気に掛けて下さったのですか……?」
「……それはな……」
そのアレンの問いに、兵士の男は顔を背け、遠くを見るような仕草をした。
「……それはあんたの姿が、昔の俺と被って見えたから──俺も過去、大切なものを失った……何もかも……生きる事さえ嫌になった……その時の俺の姿にな……」
「でも、今のあなたは強いですね?」
アレンのその言葉に、男はふっと軽く笑う。
「ふふっ、強い……か。そうかもな──俺はその時、生きる事を止めようと諦めかけたが……いざ死のうとした時、頭の中に浮かんできたんだ……失った大切な家族。妻が、幼かった息子が……その姿が──」
「………」
「結果、俺は死ぬ事を止めた。生きる道を選んだんだ……命はなくなってしまえばそれで終わりだが、生きてさえいれば、まだ先に続く未来がある」
そう言いながら、兵士の男は自身の左手に視線を落とす──その左手の薬指には、何故かふたつの指輪が填められていた。
「今の俺には、また新しい大切な存在だと思える者ができた……それでかも知れないな。あんたが俺の事を強いと感じたのも……」
「いいえ、あなたは間違いなく充分に強いですよ。僕なんかよりずっと……良ければ名前を教えて頂けませんか?……“その時”がくれば、充分なお礼をあなたに報酬としてお支払いしたいので」
その言葉に兵士の男は答える。
「ははっ、名前なんて、教えた所で意味ねぇよ……でも、そうだな……」
そして兵士の男は身を屈め、アレンと目線を同じ高さにする。次に顔を隠していたフードを外し、素顔を顕にした。
「アレン王子。この顔を良く見て、そして覚えておいてくれ。あんたが自身の中で大切と思える何かを達成させた時、その時に俺は再びあんたの前に現れる……その時に、もしもあんたが俺の顔を覚えておいてくれりゃ、その時は充分な報酬を期待してるぜっ!」
素顔をを見せ明快に笑う男の姿──アレンにとって全く見覚えのない知らない顔だった……が、アレンはそんな彼の容姿を、心の中の奥深くに刻み込んだ。
「まあ、そん時に気が向いたら名乗ってやるよ……おっと、そろそろ時間だ」
そして男は立ち上がり、再びフードを被ってから立ち去ろうとした。そんな男の後ろ姿にアレンは声を掛ける。
「また再会しよう。『名もなき兵士』、必ずだ──!」
兵士の男は振り返らず、手をヒラヒラと振って返した。
「名前がない訳じゃねーんだが……なんかカッコいいなそれ、『名もなき兵士』か……ははっ、じゃあなアレン王子! 元気でやれや。上手くいく事を祈ってるぜ!」
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立ち去る名前も知らない兵士──その姿が視界から消えて、やがて足音も遠ざかり聞こえなくなった。
しばらくその方向に目をやっていたアレンは、彼が持ってきた食事を、牢獄に捕らえられてから、初めて自分の意思でそれに貪るように食らい付くのだった。
──生きる──
今は自分の、その“目的”の為に──