【4】
確信があったわけではないが、ユーゴは予想していた。
ゲームを再開するならば、始まりは前回死んだ場所である。
もちろん、これは遊びではない。もう二度と平和なあの日本には帰れないことをユーゴは承知している。独特の浮遊感はどれだけ続いていただろうか。眼を閉ざしたまま、世界の流れとでも云うべきものをたっぷり味わった。その終わりは唐突にやって来た。
日本の春は何処かに行ってしまったようだ。
代わりに、凍てつく風が肌を刺す。刃物のようなその風には覚えがある。
「やっぱり、ここか」
ユーゴがゆっくり目を開くと、そこは塔の上だった。
一人、吹きさらしの塔の頂上で座っている。
「ああ、懐かしい。涙が、出そうなくらいに――」
予想が当たり、喜ぶべきか。だが、まずは悲しみを覚えた。
かつてのユーゴが玉座を放棄し、引きこもるために選んだ孤独の塔である。
この国の中で一番高い場所だ。城の外壁すら見下ろす位置にある。だから、外壁の先に広がる城下町もかなりの範囲が見渡せた。相当な距離を隔てているため、何もかも豆粒のようにしか見えないが、少なくとも生ける者の気配がないことはすぐにわかった。
殺風景に広がる、果てしない廃墟の大地。
地平線の向こう側から光が漏れており、夜の闇が薄手のヴェールのように引き伸ばされている。夜明け前、普通の街ならばそろそろ活動の兆しを見せ始めるものだ。民家の窓が開き、煙が立ち上り、往来を行く者がちらほらと目につくようになる。だが、そうした気配は悲しくも皆無である。
「わかっていた」
十五年の月日が経っている。
魔王は死んだ。
その結果としてこの国がどうなったか、想像するのは難しくない。王国を支えていた百万の民は魔王の力の影響下で生きていた。魔王が死ねば、彼らも死ぬ。一夜にして、この国はこれ以上なく完璧に滅んだに違いない。唯一予想が外れたのは、魔王の力が途絶えたこの土地を奪う者がいなかったという点である。
東の帝国。
西の自由都市群。
両者はどうして、この広大な跡地を放置しているのか。
もちろん、城下街がいずれかの支配の元に活気付いていたとして、ユーゴがそれを歓迎する事はなかっただろう。為政者としての仕事を放棄していた自分が云う資格はないだろうが、この国と民を愛していたのは事実である。何もかも奪われて喜べるようなものではない。
「勇者は……クオンは、どうしているだろうか?」
ユーゴは一番気になる所を口にした。
太陽が姿を見せ始める。地平線の向こうから光が差し込んだ。
ユーゴが立ち上がろうとする間に、塔の頂上も光に照らし出された。
「……え?」
反射的に、ユーゴは口を押えていた。
震える。声も、身体も、ぶるぶると震え出した。
「待て。待てよ、そんな……どうして……?」
動揺である。
混乱である。
ユーゴにはわからない。
十五年という月日は決して短くないのだから。
こちら側の世界にどのような変化が起こっているか、想像も付かない。盤石と思われていた政治体制が崩れ、国家のトップが入れ替わっていたり、新たな戦争が起こっていたりしても不思議ではないだろう。魔王が滅び、それで確実に世界の情勢が良くなるならば話は簡単だ。だが、現実はおとぎ話のようには進まない。
勇者が魔王を倒し、ハッピーエンド――。
世界は平和になり、人類から争いはなくなりました――。
残念ながら、世界はそんなに単純ではない。
「でも……これは、あんまりだ」
思い出すのは、十五年前の一夜の邂逅。
大戦争の最終局面、勇者と魔王は遂に一対一で対峙した。
もちろん、血を血で洗うような凄惨な戦闘は起こるはずもなかった。勇者はともかく、魔王には戦う力なんてなかったからだ。両者の戦いは語り合いに終始した。勇者は結局、最後まで刃を振り下ろすことを躊躇していた。魔王にとってそれは嬉しい誤算だった。最悪の場合、一言の挨拶もできないまま、出会い頭に斬り捨てられる可能性もあったからだ。
勇者と魔王の戦い、その結果については今さら何も述べる必要がない。
あの時、魔王はひとつの希望を抱いて死んだ。自分自身がうまくやれなかったことを、もしかすると、クオンはうまくやってくれるかも知れない。身勝手なのは承知の上である。期待しているなんて、最後まで口が裂けても云えなかった。
田舎の平凡な少年クオンは過酷な旅を経て、魔王を打ち破る勇者に成長した。
それはもう夢物語である。世界の希望に十分なり得る物語だった。
神にも等しい力を獲得しながら、最終的には破滅に至ってしまった魔王の物語とはまったく違う。両者の物語はこの場で一度きりの交錯を果たし、片方は潰えるが、片方は続いていく。そのはずだった。そう信じていたから、魔王は殺される立場でありながら一種の清々しさすら感じていたのだ。
勇者こそが、魔王の最後の希望。
世界の平和と未来を、彼に託したつもりだった。
それなのに、どうして――。
ここに今、ひとつの死体が転がっている。
「クオン……?」
ユーゴは力なく、膝から崩れ落ちた。
塔の屋上、その中心にて、完全に白骨化した死体が転がっている。
亡くなってから相当な年月が経っているのは一目瞭然だった。生前の人相や肉付きは一切不明である。ただし、衣服や鎧の類は風化しているものの一部がしっかり残っていた。それらは、ユーゴの記憶にある勇者の装備と完全に一致している。
何よりも、揺るぎない証拠が残っていた。
白骨化したその手が、それでも握りしめたままの剣である。
まるで塔を台座替わりとするかのように、まっすぐに突き立っていた。
――勇者の剣。
ユーゴは尻もちを着くようにして倒れてしまった。
そのまま大の字に寝そべり、暁の空を呆然と眺める。これで本当に、何もかも失ってしまった。この十五年は何だったのだろうか。家族というそこにあったはずの幸福を失い、魔王が死んだ後に生まれているだろうと思った幸福はそもそも生まれてすらいなかった。
クオンが死んでいる。
この場で、おそらくあの夜に――。
十五年前だ。
魔王が死んだ後に、何が起こったのか。
孤独の塔に、魔王以外の者は基本的に立ち入らない。大戦争の夜も、魔王は一人だけだった。そこにやって来た勇者と完全に二人きり――邪魔をする者は誰もいなかった。
ユーゴは考え始めて、すぐにぞっとした。
魔王はこの場から、勇者が空中回廊を破壊するのを確認していた。勇者がこの塔に入って以降、追いかけて来られる者はいない。勇者と魔王が対峙したその時、この塔の中は完全に二人きりだったはずだ。
二人だけ。
そして、まずは片方が死んだ。
残るのは、一人――。
その一人がどうして死んでいるのか。
誰もいない場所で、誰に殺されたというのか。
ユーゴはわずかな可能性について、慰めを求めるように考えてみる。
空中回廊は使えない。完全に破壊されていた。クオンを襲った者がいるとして、この塔の中に入り込むことは絶対の条件である。例えば、城の中庭に一度降り立ち、塔の底の部分から昇って来ることはできるだろうか。
残念ながら、それは不可能である。
仮に、魔王の暗殺を企むような輩がいたとして、かなりの人目に付く空中回廊を堂々と通ることは難しい。他の侵入経路を考えた時、最初に思い付くのが地上からだろう。しかし、それを試みたならば無残な最期を遂げることになる。
塔の地上部からの侵入、その発想に至った時点で罠にかかったも同然なのだ。
中庭に用意されたトラップやモンスターの群れを潜り抜け、どうにか塔の麓にたどり着いた賊は唖然とするに違いない。なぜならば、そこに塔の根本はない。なぜならば、これは浮遊塔である。
要は、この塔は巨大な磁石のようなものだ。反発する魔力を利用して、塔の底は浮き上がっている。そもそも地上に接していない。
塔の形はしているが、ある意味、これは塔ではなかった。
宙に浮かんだ巨大な一本の棒――極端な話、そんな風にも表現できる。
だからとにかく、地上から昇ることは不可能だ。
内部に入るには、やはり空中回廊からの出入り口を通るしかない。
しかし、前述の通り、唯一の通路である空中回廊は破壊されていた。
「空でも飛んだか?」
だが、そのような魔法は存在しない。
「……瞬間移動? それこそ、神の領域だな」
馬鹿らしいアイデアしか浮かばない自分に、ユーゴはあきれ果てる。
「密室とも云えるわけか。……ああ、畜生。馬鹿々々しい」
どうして、勇者が死んでいるのか。
誰が、勇者を殺したのか。
ユーゴはさらにもうひとつ、どうしようもない疑問にも思い至っていた。
クオンは勇者である。彼はたった一人で、魔王城の並み居る精鋭を蹴散らして来た。最終局面に至るまでにも、三年間の旅でどれだけの強敵を打ち破って来ただろうか。間違いなく、彼は強い。世界中の誰よりも強い。その強さゆえに、彼は勇者なのである。
最後の難問――。
世界最強をどうやって殺せるのか。
「わからない」
ユーゴはふらふらと立ち上がる。
骨だけになった勇者の死体を呆然としたまま見下ろした。かつての力があれば、こんな状態の死体でも蘇らせることは可能だった。スケルトンとして蘇るなんて、勇者はたぶん嫌がる。激怒されるかも知れない。それでも被害者に語ってもらえば、この場で何が起きたのか、誰が犯人なのか、全ては一瞬で解決したはずだ。
ユーゴは無言で、自分の両手を見つめる。
魔王の力。
最後には持て余し、破滅に至ってしまった。
だが、それで為し得た事も多い。ユーゴには今、できる事は何もない。家族を生き返らせる事ができなかった。そして、勇者を生き返らせる事もできない。これから何かを求めるならば、つかみ取るためには己の手だけを使うしかない。
自分の手。自分自身の力。
さて、自分本来の力とは何だろうか――。
魔王の力は偶然手にしたもの。それを失った自分は、無力な少年に過ぎない。
「ここから、どうしろって……」
十五年。
短いようで、長い。
魔王を信じてくれた民はもういない。
平穏と愛を教えてくれた家族はもういない。
最後の希望を託したはずの勇者はここで死んでいる。
ユーゴは空っぽの両手をしばらく見つめ続けた。
何もない。本当に、何もない。
ふらり、と――。
考えれば考える程、身体が軸を失くしたように揺れた。
「なに、か……」
すがるものが欲しかった。
空っぽの身体を支えるものが欲しい。
「誰か」
思わず倒れそうになったユーゴは手を伸ばした。
結局、全ては偶然である。
クオンが勇者の剣を手にしたのが偶然ならば、魔王が力を手に入れたのも、ただの偶然に過ぎない。偶然の果て、勇者と魔王の物語は生み出された。二人とも、そのような宿命を持って生まれたわけではない。力を手にした、それで何かを為そうとした――そうして、勇者は勇者に、魔王は魔王になった。
ユーゴは今、無力である。
しかし、力が欲しいと思ったわけではない。
魔王として失敗した。その過去を思えば、人智を超えた力は恐ろしいとすら感じる。そもそも、ありえない。あってはいけない。打算なんて微塵もなかった。予想すらしていなかった。ユーゴは本当に、ただ単純にふらりとバランスを崩したから手を伸ばしただけだ。
――勇者の剣。
指先が少し触れると、それだけで閃光を感じた。
言葉にならない、息がグッと詰まった。
体温が瞬間的に上昇し、全身が汗で濡れる。
吠える、刃が。
獣のプレッシャーを感じた。猛烈な闘争心と破壊衝動が襲い来る。ドロドロに焼けた鉄を胃に流しこまれるようにも感じた。ユーゴの指が、無意識に剣の柄に絡みついていく。止まらない。人差し指から小指まで、気がつけば、がっちりと握り込むような形になってしまう。
やがて絶叫する。
振り払うつもりが、さらに強く握りしめ、飛びずさろうとして、抜き放った。
勇者の剣は塔に突き立っていた。おそらく、息絶える寸前の勇者が最期にそうしたのだ。魔王の力が他に類を見ない唯一無二のものであったように、勇者の剣も、それを抜ける者はたった一人に限られる。
要は、選別の儀式。
勇者の剣を抜ける者はこの世に一人だけである。
すなわち、剣を抜き放ったからには、その者は勇者である。
「……え?」
ユーゴは、勇者の剣を手にしていた。
朝日を受けて、その曇りなき刃が輝いている。
「ええ……?」
最悪の運命のいたずら。
たっぷり沈黙した後でも、言葉は出てこない。
ユーゴは以前、魔王であった。
ユーゴは現在、勇者であった。
最初は理解が追い付かなかった。何が起こったのか、じわじわと脳髄に染み込んでいく。いきなり血の気がサッと引いた。高揚していた身体が真逆の反応を見せる。吐きそうだ。頭痛がする。バタンと倒れてしまいたい。そんな風に思うのに、ユーゴはまったく身動きが取れなかった。
刃だけ、ひたすら輝く。
あまりに強く力を入れてしまったからなのか、ガチガチに固まっているユーゴの右腕。まるで自分のものではないようだ。今すぐ放り捨てたい。こんなものはいらない。自分には勇者の資格なんてない。あるはずがない。それなのに、右腕は全然云うことを聞いてくれなかった。
朝日に向けて、勇者の剣を高々と掲げたままのポーズ。
まるで、誓いでも立てているようだった。
「嘘だ」
ようやく云えたのは、そんな間の抜けた一言である。
一方で、勇者の剣は十五年振りに出現した主を歓迎するかのように、太陽をギラギラと反射させて勇ましく輝き続けていた。まるで、疲れ切った飼い主の様子に気付かず、全力でぶんぶんと尻尾を振りながらまとわりつく犬みたいに。