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【1】

 これが最後の戦いになることを、クオンは知っていた。


 決意と共に、伝説の剣を携える手に力を込める。


 三年前、クオンはまったくの偶然でこの剣を引き抜いてしまった。田舎の大工屋の一人息子として、小さな頃から自分の人生は平凡なものと気づいていた。村の誰かと結婚し、子を育て、決して裕福になる事はないだろうが、それほど不幸になる事もないだろう人生を送るものと勝手に想像していた。生来、争いは好まない。野心もない。村の仲間たちのように、都会に出て名を上げようとも思っていなかった。


 それがどうして、勇者の称号を与えられ、世界を救うための旅に出ることになってしまったのか。人生はわからないものだ。こんな所まで来たというのに、それでもふとした時、クオンは自分が長い夢でも見ているのではないかと思ったりする。目が覚めれば、そこは故郷のベッドの中で、父にさっさと仕事の手伝いをしろと怒鳴られ、母に微笑みながら帽子と鞄を手渡されて見送られる、あの頃の日々がまた始まるのではないかと――。


 だが、残念ながら、さすがにもう夢は見ていられない。


 クオンの旅はいよいよ終わりを迎えようとしていた。


 ここは、魔王城である。


 三年という月日が流れる間に、クオンの背は随分と伸びていた。日に焼けた肌には、死線を幾度も潜り抜けた際の傷痕がたくさん刻まれている。旅立ちの直後は木の枝すら斬り落とせなかった剣の腕前は、帝国騎士団長と肩を並べる程にもなった。顔立ちには若干のあどけなさが残るものの、クオンを子ども扱いするような者はもう一人もいない。


 あの頃の無垢な少年は、いつしか大人になっていて――。


 今、本物の勇者にもなろうとしている。


「待て……」


 弱々しい声が、クオンの背後から響いた。


「クオン……お前、まさか一人で行くつもりか?」


 魔王城の中央に位置する大広間は激闘の爪痕も生々しい。


 豪奢な装飾品のほとんどが砕け散り、床や壁には槍や槌の跡がくっきりと残っている。


 瓦礫の隙間には一人の男が倒れていた。


 端正な顔立ちの男である。


 ただし、その顔は額の切り傷から流れ落ちた血でべったりと汚れてしまっていた。艶のある黒髪も血でどろどろになって顔の半分に貼り付いてしまっている。ブルーの瞳は澄んでいるようで濁っている。仲間想いの癖に、無関係の者には徹底して冷徹なその性分を象徴するかのような瞳だった。


「行くな。お前ひとりで……そんなのは……」


 傷が痛むらしく、彼の声は震えている。


 クオンは振り返ることなく、別れを告げた。


「さようなら」


 振り返れば、決意がにぶる。


 言葉を増やせば、感情が漏れる。


 それでも、クオンの胸の内には堪えきれない涙みたいに、無数の思い出が蘇った。


 幾多の勝利、その歓喜を覚えている。野営の焚火を囲みながら、取り留めもなく語り合ったいくつもの夜を覚えている。初めて酒を飲んで騒いだ日、喧嘩した後に笑い合った日、戦友を失って泣いた日――それらを忘れることは絶対にない。


 三年間の旅で、出会いと別れを繰り返し、たくさんの仲間ができた。


 彼は最初の仲間である。そして、最後の仲間にもなった。


 クオン一人では絶対にここまで来られなかった。


 唯一無二の親友に、最後の感謝を告げる。


「今まで、本当にありがとう」


「だ、だめだ……行くな!」


 背後から、悲痛な叫び声が聞こえる。


 クオンは拳を強く握りしめ、振り返らずに進み始めた。


 行くな、と――ひたすら繰り返される叫び声が、石造りの回廊に反響する。クオンも心の内では叫び返していた。帰れるものならば帰りたい、と――。


 クオンにも待ってくれる人はいるのだ。


 帰らなければいけない理由はちゃんとある。


 しかし、それはもう決して叶わない。代わりに、クオンはここに残していく親友のために祈りを捧げる。彼の無事を願い、彼が築き上げていく平和な未来を想った。


 クオンは前を見続ける。


 ゴールは見えている。


 結末は見えている。


 ここは最終決戦の大舞台である。


 魔王城の最奥、魔王までもう一歩の位置だ。


 最後の関門は突破した。仲間の内でここまで唯一残っていた親友の脱落という大きな代償は払ったものの、敵軍の最終防衛線である〈七将軍〉を打ち破ることができた。指揮系統のトップを失ったことで敵軍の統率は大いに乱れている。


 もちろん、魔王城の中枢に配備された者たちの練度は高い。混乱の中でも、彼らはクオンの行く手を最後まで阻もうとしていた。


 今もまさに、廊下の角を曲がった所で敵の小隊が出現する。


 黒鉄の装備に身を包んだ重装の兵士たちが油断なく隊列を組んでいた。最上級の冒険者や名立たる騎士であろうと、たった一人で立ち向かうのは自殺行為だろう。多勢に無勢であるし、実力も十分、そこらの野盗の類とはレベルが違った。


 だが、クオンが歩みを止めることはなかった。


 無心で、腰元の剣に手をかける。


 季節は、冬。


 空気は刺すように冷たい。


 一方で、掌にじんわり感じるのは、生命の鼓動にも似た熱いうずき。


 装飾なんて一切なく、素朴で、安物みたいな剣である。しかし、この剣にはただの金属の塊にはない魂が込められている。さあ、戦おう――。クオンが決意すると、刃は応えるように唸り出す。まるで獣が巣穴から這い出すように、刃はするりと抜き放たれる。


 勇者の剣。


 クオンは両手で構える。


 それだけでもう負ける気はしない。


 道理も理屈も常識も――。

 あるいは、魔法すらも――。


 この世の全てに断てぬものはなかった。


 才人が一生をかけて行き着く最果ての、さらに果ての果てがここだ。


 それはもはや、人の域ではない。

 それはもはや、神の域である。


 剣を振り下ろした。


 重厚な鎧、大剣や戦斧、シールド、それらに守られた生身まで――。何もかも、一太刀だった。隊列を組んでいた敵の小隊は剣の一振りで消し飛ぶ。残るものは塵だけである。それから、静寂。クオンの心にも、何も残らない。勇者の剣に選ばれた者として、それに相応しい戦い方をした。それだけである。


 静かになった廊下をクオンは淡々と進む。


 道中、何度か敵と遭遇したものの、苦戦はしなかった。一太刀で済む。


 やがて目的の地点に行き着く。クオンは空中回廊を目の前にして立ち止まった。


 この魔王城は不思議な造りをしていた。城の中心がぽっかりと開けているのだ。中庭と呼ぶには広すぎるその場所には、魔王城よりも背の高い塔が建てられていた。魔王城はむしろ、その塔を守るための城壁に過ぎないのかも知れない。


 空中回廊は、城と塔を結ぶ唯一の道である。


 クオンは塔を目指していた。


 なぜならば、魔王はそこにいる。


 王と呼ばれているのに、彼の者に玉座はないらしい。


 玉座の代わりとしてあるのが、まるで罪人を幽閉するような寒々しい塔なのだ。


「決戦の舞台にしては、さびしいかな」


 冗談を口にしながら、クオンは空中回廊を進んだ。


 空中回廊を渡り切り、塔の入口でクオンは再び足を止めた。


 塔の周囲は深く切り立っている。下をのぞき込んでも地面は見えない。それだけの高さがある。やはり塔の入り口は空中回廊が唯一無二で、ここ以外の侵入経路は存在しないようだ。


 クオンは一人うなずく。決断はすぐに済んだ。


 勇者の剣を空中回廊に向けて振り下ろした。


 刃から光が走り、空中回廊を裂いていく。


 すぐさま、轟音と共に崩壊が始まる。


 空中回廊が塵と変わるのは一瞬の出来事だった。


「うん、これでいい」


 これで、塔から逃げられる者はいない。


 あるいは、塔に入って来られる者もいない。


 正真正銘の一対一である。


 勇者と魔王の決着にふさわしい舞台が整った。


「本当は、あいつも――」


 捨てて来たはずの未練が、それでも一瞬、クオンの後ろ髪を引いた。


 空中回廊を破壊したのは、何もかも振り払うためだ。クオンは頭を振る。親友がここでも横に立っていたならば、何よりも心強かったに違いない。あるいは、三年間の旅で出会った仲間たちの誰か一人でも、最後まで一緒だったならば――。


 それは考えてはいけないことだ。


 現在進行形で、大戦争は続いている。


 クオンは最終的に一人きりで敵国の中心部に突入しているが、魔王城の外縁部や城下では大規模な軍勢の衝突が起きていた。戦場の最前線に立っている仲間たちがいるはずだ。混沌とした戦場から抜け出し、クオンを始めとした少数精鋭のパーティーを城の内部に送り込むため、隠密行動を手助けしてくれたのも仲間の一人である。他にも、この戦場ではなく、政治の場で戦いを繰り広げている者だっている。


 運命が少しだけ違っていれば、彼らの一人ぐらいここに居てくれたかも知れない。


 だが、やり直しはきかない。


 残念ながら、それが人生である。


 クオンは塔を昇った。


 螺旋階段がぐるぐると上に続いていく。城の中ではたくさんの敵が待ち構えていたが、塔の中は不気味なぐらい静まり返っている。誰にも出会わない。クオンは何となく、普段からこの塔を訪れる者はほとんどいないのではないかと想像した。塔の中は、そう思わせるだけの静謐さに満ちている。


 クオンは思い出していた。


 魔王の勢力圏で出会った人々は口々に云ったものだ。彼らの魔王に対する、揺らぐことのない信望。しかし、それらは統治者に対する敬意と云うよりも、むしろ、ある種の信仰だったように思える。


 塔の屋上にたどり着く。


 満天の星空がクオンを出迎える。思わず、澄んだ光景に心を奪われた。そんな場合ではないとわかっている。しかし、これがこの世で最後に目にする美しいものになるかも知れないのだ。


「こんばんは」


 黒い雲が星空を覆い、闇ばかり塔の頂上に立ち込めていく。


 闇の向こう側から、妙に気安い声が届いた。


「……魔王、か?」


「俺が自分からそう名乗ったことはない。みんながいつの間にかそんな風に呼び始めた。だからお前も、俺のことは好きに呼んでくれればいい」


 親密さすら感じさせる声色に、クオンは戸惑いながら一歩を踏み出した。


「君は何と呼ばれたい? 勇者でいいのかな?」


「クオンだ。それが僕の名前だ」


「ありがとう、クオン。愛をこめて、君の名を口にしよう」


 塔の頂上、風の吹き抜ける屋外の片隅。


 玉座はない、宝冠もない。

 豪奢な敷物はなく、装飾品の欠片もない。


 灯りはない。

 光はない。


 痩せて、骨と皮ばかりの少年がそこに座っている。冷たい石畳の上に藁を敷いて、貧相な体を朽ちかけたボロ布で隠している。首と手足には枷と鎖が巻き付いていた。奴隷か、あるいは囚人か。いや、冬の凍てついた風が吹き抜ける塔の頂上にほとんど裸の状態で放置されれば、すぐに死んでしまう。奴隷や囚人でもそんな扱いは受けない。これは拷問に等しい状況である。


 予想外の光景に、クオンは呆然と立ちすくんだ。


「はじめまして、俺が魔王だ」


 一方、魔王はそんな反応が予想通りだったとでも云わんばかりに笑っていた。


「魔王が恐ろしいモンスターとでも思っていたか? 噂で囁かれているような、バカでかいアンデットでも想像していたかな? 期待はずれで申し訳ない。期待に応えられないのは胸が苦しくなるよ。俺は、こんなものだ。お前が今、一目見た瞬間に抱いた印象そのままのちっぽけなものだ」


「……わからない。貴様は、この国の王のはずだ。どうしてそんな――」


 理不尽なぐらい過酷な環境下にあるのか。


 クオンは、これが何かの罠なのかと思ったぐらいだ。それとも、バカにされているのか。この世界を混乱と恐怖に包み込んでいる魔王が、こんなにも惨めな姿の、今にも死にそうな、ただの年若い少年だと云うのか。最悪の冗談である。凶悪なモンスターならば良かった。その方がずっとわかりやすい。


 クオンはまったく意味がわからず、何も云えなくなってしまった。


 一方で、魔王は陽気さすら感じさせる声色で続ける。


「王ならば、それらしい格好をしていないとおかしいか? 玉座でふんぞり返っているべきか? 俺がこんな風なのは、俺がこんな風であることを望んだからだ。俺はこの国で誰よりも不幸でありたかった」


 その声は枯れていて、時々、空咳が混じる。魔王は、身振りでクオンに座れよと示してくる。


 だが、クオンは動けなかった。剣を抜くこともできなかった。


「いつだったか、初めの頃……そう、国家なんて形ができあがる前だ。俺はひとつだけ命令を下した。『俺よりも不幸なものを作るな』。実の所、こんなにも膨れ上がったこの国の根っこはそんなものだ。街中で鞭打たれている子供がいれば、俺はそれよりも強く鞭打たれることを望み、誰かが金なんかのために人を殺すならば、俺から盗み、奪い、殺してくれと頼んだ。当然だけど、みんなは困り果てたさ。なんて面倒な王様だろうと思ったかも知れない。それでも、みんなは俺の命令を無視することなく従順に働いてくれた。俺が変な気を起こさないように、この国を立派に育て上げてくれた。飢えるものがないぐらい豊かに、虐げられるものがないぐらい幸せに、老若男女の区別なく、人種も出自も関係なく、互いを思いやり、互いを愛す――これこそが『楽園』と云えるような国を作り上げてくれた」


 楽園。


 その言葉を聞いて、クオンは胸の内にかすかな痛みを覚えた。


 これまでの旅の間に幾度も聞いた言葉であるからだ。魔王に従う者の多くがそれを口にした。彼らは心の底から信じていたのだ。魔王を中心として築き上げられたこの巨大な勢力圏こそが、この世界に初めて誕生した本物の楽園であることを。そして彼らの多くはただ自分達の居場所を守るためだけに戦っていた。


「時々、誰かがここにやってくる。『陛下、先月は一人も死ぬものはありませんでした。酔っ払い同士の喧嘩すらありませんでした。だから、どうかお戻りください』なんてね。必死に頭を下げてくるのに根負けして、城の方に降りてみる時だってあるんだ。ふかふかのローブを着て、暖炉の前に座ると、忘れていた人間らしさを思い出すよ。温かいスープをゆっくり飲む。ああ、とても幸せだ。でも、やっぱりダメなんだ。俺はすぐに気づいてしまう。変わり映えのない毎日に憂鬱そうにしている女中だとか、他の国に住んでいる家族の事を心配する兵士だとか、特に理由もなく死にたくなっているそこら辺の奴だとか。気付いてしまうと、もうダメだ。俺は責任を負わなければいけない。なぜならば、この国に生きる者の全ての悲しみと苦しみは俺のせいだからだ。そして結局、俺はいつもここに帰ってくる」


 空にも届きそうな塔からは、城だけでなく、城下町の多くが見渡せた。


 遠くで火の手が上がっている。戦いがまだ続いている証拠だった。


 音は聞こえないが、悲鳴や怒号が聞こえたようにも錯覚する。


 魔王がぼんやりとそちらを眺めているため、クオンも同じように眺めていた。


「俺は王だ。望まなくとも、それでもな」


 魔王は淡々と告げる。


「王であることは、俺の責務であり、俺の贖罪でもある。俺はみんなを幸せにしなければいけなかった。だが、見えるだろう? この光景が俺のたどり着いた結末だ。もしも、俺の命ひとつで何もかも許されるならば、どうかそうして欲しい。こんな命はいくらでもくれてやるよ」


 クオンは、まさかと思った。しばらく言葉を失くす。


 枯れ木のような腕を床につき、魔王が深く頭を下げてきたからだ。


「悪かったな、勇者。お前にも謝らなければいけない。勇者なんてものにならなければ、お前は普通の人生を歩めたのだろう。勇者としての重責に苦しむ必要もなかった。最後にこんな最低の、人として最大の罪を犯させる必要もなかったのに――」


 いったい、何を云っているのか?


 クオンは混乱し、やはり何も反応できない。


 ただ呆然と、自分が今から戦うはずの相手を見下ろした。


 これが、魔王である。


 これが、世界を破滅させる者である。


 これが、人間の世を徹底的に破壊する敵である。


 これが、世界中の平和を願う者たちが死んでくれと願う悪である。


「お前は、なんだ?」


 クオンは思わず尋ねた。


「神さまのなりそこない」


 魔王と呼ばれる少年は、はっきりとそう答えた。


 神。そうである。クオン自身、この塔に足を踏み入れて思った。


 魔王と呼ばれているが、これはもう王ではない。王の域ではない、人の域ではない。何人たりとも近づくことすら恐れ多く、宗教的な静謐さすら感じさせる不可侵の地。塔の中は聖域である。神域である。


 王ではなく、彼はもう神としての地位に片足を突っ込んでいる。


 クオンの呼吸は荒くなった。


 戦いの火ぶたを切って落とすのは簡単だ。決着もまた、簡単そうだ。


 鞘から剣を引き抜き、一歩踏み込んで振り落ろせばいい。


 たぶん、それで終わる。


 予想もしていなかった。


 最後に待ち受けているのは激闘であり死闘であり、クオンは己の命を振り絞るようにして魔王と戦うものだと思っていた。だが、そうではなかった。「お前は戦えるのか?」と、クオンは素朴な疑問を口にする。魔王は自嘲的に「剣を持ち上げる力もない」と笑って答えた。


「世界中が誤解している。俺は魔法使いですらない」


 魔王は、クオンの腰にある剣を指さした。


「俺と君は似ている。その剣を手に入れたという偶然だけで、君は世界一の力を得た。俺も同じようなものだ。俺も偶然に力を手に入れた。その力でやれることは、たったひとつだけ――。君がその剣で世界を救おうとしているように、俺も、この力で世界を救おうとしてみた。まあ、それだけの話だよ」


 クオンは遂に、勇者の剣に手をかけた。


「お前が戦えなくても関係ない」


 口調は激しく、己を叱咤させるように叫んだ。


「お前が力を持つと云うならば、それだけが問題だ」


 生きとし生ける者として、絶対に許すことはできない。


 わずか十年足らず前に誕生した、魔王を中心とした新興国。尋常ではない速度で人口と領土を拡大し、工業力と技術力では他国の数世代先を行くとも云われている。軍事力もまた恐ろしい。軍と軍の正面からのぶつかり合いでは、世界中のどれだけ強大な国家であろうと絶対に勝てないのだから。


 魔王の配下となった『元人間』は、少なくとも百万を下らないと噂される。もしも勇者の活躍がなければ、大陸全土はもちろん、世界中を支配下に置くのもそう遠くなかっただろう。


「これ以上、そんな力を使わなければ……」


「無理だ。もはや、この力は制御できない。抑えられるならば、もっと早くにやっている。俺が生きている限り、この力は疫病のように広がり続ける。……いや、仮にもしも、この力を止められるとしても俺はそうしないだろう。俺なんかを信じてくれた人々を殺すことなんてできない」


「殺す? それは違う」


「違わない。彼らは生きている」


「違う、彼らは死んでいる」


「勇者! お前が殺すんだ」


 魔王は容赦なく、はっきりと告げた。


「勇者よ、君がその刃で俺の心臓を貫く意味を自覚しろ。君が殺すのは魔王だけではない。罪もない百万の民を君は殺そうとしている。俺が滅びる時がこの国の亡びる時だ。俺と共に全ての民が朽ちる。彼らは生きている。しっかりと生きている。作物を育て、鉄を鍛え、子に教え、笑いあい、泣きあっている。彼らがただの死者ならば俺はこんな所にいない。彼らが感情のない、ただのアンデットならば……ああ、どんなに楽だっただろうか。誤解するな、俺は死霊術の特異な魔法使いというわけではない。さっきも云った通り、俺は剣も魔法も使えない。俺にできるのは、ただひとつだけ――」


 クオンが偶然、伝説の剣を手に入れて勇者となったように、この少年もまた、偶然手に入れたその力で魔王となった。


「彼らは生き返った。一度は死んだ。だが、もはや生きている」


 魔王の持つ力は、死者の復活である。


「俺が、皆を生き返らせた。善と悪の区別なく、若きも老いも区別することなく。彼らが、死にたくないと願ったからだ。彼らを愛する者が、もう一度会いたいと願ったからだ。勇者よ、お前は見たことがあるか。もう二度と会えないはずの者たちが再会した時の笑顔を。この世に存在する最大の幸せというやつを。ありとあらゆる想いの受け皿として俺は事を為してきた。ここを死者の王国と君たちが呼ぶのは知っている。だが、俺たちはここを楽園と呼ぶ」


 魔王は勇者に尋ねた。


「生きたいと願うのが罪か?」


 クオンは反射的に剣を引き抜いた。


「……もういい、黙れ。終わらせる」


 いつもと変わらず、勇者の剣はするりと滑らかに躍り出た。


 刃が滾っていた。クオンの両手に殺せという強い衝動が伝わる。


「魔王、お前はここで死ね」


 クオンは戦うことしかできない。


 魔王にできることがただひとつ、命なき者を蘇らせることならば――。

 勇者にできることはただひとつ、命ある者を滅することだけなのだから――。


 魔王がその力で復活させた死者の数は百万を下らない。それだけの途方もない数の生ける死体がこの国で『普通』に生活している。だが、議論する必要はない。考える必要はない。それらはただの死者である。


 死者をあるべき姿に戻す、それだけの話のはずだ。


「みんな、生きている」


 魔王は何度でも繰り返した。


「勇者よ、お前が百万の罪なき人々を殺すのだ」


 クオンは剣を頭上で構えながら、永遠のような時間を感じていた。


 夜が明けようとしている。地平線に走った光にクオンは耐えられず目を閉ざした。

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