逃げるのコマンドしか選べない
「――敵だ! 矢を射ってきた!」
サツキはできる限り大きな声で警告を発する。気付いたのに無視して自分だけ助かろうなんて後味の悪いことはしない。
周囲の人たちは騒然とするだけで、何かしらの行動を起こすものは少ない。どうすればいいかわからないのだろう。
「あっちに逃げろ! 死にたくなかったら走れ!」
矢が飛んできた方向と逆を指し示す。そうすることで、やっと動き出す。しかし、遅かった。いや、矢を射られた時点で既に遅かったんだろう。
闇の向こうから人型の影が飛び出してきて、近くにいた男に突進する。男の背中を突き破って鈍色の塊が出てくる。動かなくなった男の身体を無造作に横に放って、人影が月明かりに照らされる。
腰布を巻いただけの人間みたいな生物で、唯一違う点は、頭が人間と豚の中間、少し豚よりなことだ。身長は百六十センチぐらいか。その手に血に濡れた剣を持っている。
その豚人間をオークと呼ぶことにする。オークは勿論一体ではなく、次から次へと剣を手に出てきて、悲鳴を上げ逃げる人たちを襲う。オークが剣を振るう度に、背中が斬られ、頭が潰れ、一人、また一人と血飛沫を上げ死んでいく。
多くのオークは剣だけしか持っていないが、中には胸当てや籠手などの防具を着けているオーク。全身鎧を身に付けているオークまでいる。武装したオークが七体もいる。
観察するのはいいけど、そろそろ逃げないとやばい。サツキは逃げる人たちの背中を追い、追い抜く勢いで走る。だが全力では走らない、いや走れない。ただでさえ暗く、敵に追われている状況で、足元や進む先に気を張っていないといけないからだ。
木の根とかにつまずいて倒れる人、足を滑らせ坂を転がり落ちる人、後ろを振り返って木にぶつかる人など、一人の例外もなくオークに殺された。オークは夜の世界で両目を光らせ、危なげなく、軽快に走り追ってくる。追いつかれていないのは、オークたちが狩りを楽しみ遊んでいるからだろう。
足の速さに少しばかり自信がある。一人ならたぶん逃げ切れるだろう。……なのに、何をしているんだろうな。
前を走る長い髪の少女が木の根に躓きその体が浮く。倒れそうになる彼女の腕を引っ張り上げて、体勢を持ち直した。そのまま彼女を連れて走ってしまっている。
彼女の方が足は遅く、引っ張って走っている。はっきり言って足手纏い以外の何物でもない。なのに、なんで助けたんだ? はっきりした理由はないと思う。たぶん反射的に身体が動いたんだろう。今からでも手を放せば、生き残る確率は上がる。このままでは追いつかれるのも時間の問題だろう。
でも、さ、一度助けておいて、やっぱり死にたくないからと言って、彼女を見殺しにするのか? 希望を与えておいて、絶望の底に叩き落とせと?
そんな非道な事をしてまで生き残って満足か? 俺は、嫌だ。絶対にこの手を放さない。
「っ……、がんばれ、もう少しで、助かるっ」
「……っ、……っ、……っ」
サツキは何の根拠もない嘘を言って彼女を励ます。彼女は息も絶え絶えになり、体力の限界が近く、答える余力もないみたいだ。嘘でも希望がないと今にも倒れてしまいそうだ。
背後から迫る三体分の足音が近づいて来ている。戦うか? 無理だ。武器もないし、一対一ならまだしも、三対一だ。確実に殺される。
ああ、マジで、やばいやばいやばいやばい。追いつかれる。もうすぐ近くまで来ているって。今この瞬間にも剣で頭を叩き割られるんじゃないか。
「あ、ぁぁあああああああああああ――!」
彼女を抱き上げ、無駄とわかっていても、走るしかない。ひたすらに走るしかない。足を動かせ、少しでも速く、少しでも前へ、足を運べ。余計な事を考えるな。前を見て走る事だけを考えろ。それ以外のものは排除しろ。走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ――。
「――――あ」
つまずいて、間の抜けた声を出す。身体が地面に倒れていく。もう止められない。咄嗟に彼女を庇うように倒れる。
――終わった。ここまでだ。彼女を助けられず死ぬ。一人だったら助かったかもしれない。後悔しても遅い、助けなくても後悔しただろう。何を選んだとしても後悔はしただろう。どうすれば良かったんだ? わからない。……疲れた。せめて痛みを感じないように一思いに殺してくれ。
死の瞬間から目を逸らさずに振り下ろされるだろう剣を待つ。
「…………………………………………」
しかし、いつまで待っても剣は振り下ろされない。彼女を抱えたまま上体を起こした。オークの姿はどこにもない。首を左右に振り周囲を見るが、オークの姿は影も形もない。いつのまにか森を抜けて、山肌が露出した岩や石がごろごろと転がっている岩山にいる。
「……助かった?」
オークがいないのだから、そうなのだろうが、いまいち納得がいかない。捕まえられたはずなのに何で追ってきていないんだ? いや別に追ってきてほしくないけどさ。帰ってくれて助かったけどさ。違和感がある。
「……私たち助かったの?」
「ん……ああ、たぶん、助かったんじゃないの? ……オークはいないし」
「オーク……?」
「えっと、……さっきの豚人間が、オークって感じだったから? ……あくまで、俺がそう思っただけで、実際には、ちゃんとした名前があるかもしれないけど、……まあ、知らないし、オークって呼んでもいいかな?」
「いいと思うよ。……それで、そろそろ放してくれない」
少し下を見ると、彼女の身体を抱きしめている腕はちょうど胸のところだ。柔らかいかと言われれば柔らかいけど……、ちょっと? だいぶ? 違う。だって、俺の腕が触れているのは、ブレザーを押し上げる大きな膨らみではなく、その間に折りたたまれている彼女の腕だからだ。ちょっと、いやかなり残念だけど、こういうことしている状況じゃないって。
腕を解いて彼女を離す。彼女はサツキの身体から降り、正面に向き直る。この時になって初めて彼女の姿を正面から見た。逃げている時は、後ろ姿を少し見ただけだったから。
きれい、だと思った。かわいいというより、きれいだ。月明かりに照らされた彼女を見ているだけで、胸が詰まるような感じがする。俺のような凡人には不釣り合いなほど美人だ。
「助けてくれて、ありがとう。本当に……ありがとう」
彼女の瞳が潤み、目元を隠すよう下を向く。
「いや、……あの、まあ、……その、当然のことをしただけっていうか、身体が勝手に動いただけって感じで、……まあ、一応、どういたしまして?」
「なに、一応って、あなたのおかげで、こうして生きているのだから素直に感謝されればいいんじゃない」
目元を拭った彼女は噴き出す。なにかおかしなこと言ったけ? よくわからないけど、泣かれるより笑ってくれた方が断然いい。彼女の笑顔を見ているだけで、自分の選択が間違ってなかったと思える。