008.落下/遭遇
《山頂》
ここは山というより、どちらかと言えば丘に近い。
ラムダ山の頂に達した私は、そこから見える光景を詳細に把握した。
私が目覚めた時は地上にいた為に気づかなかったが、オリー、オービスと別れたところは大が付くほどの森林となっており、二人が走り去っていった先には村のようなものが見えた。泥濘を含んだ水浸しの大地。沼地とも異なる異様なる光景に、薄水に浮かぶ村とそれを覗く丘の存在に、別種の感動を抱いた。
視線を移動させ、村々から先を見渡す。さすれば、私が立つ場所の他に、山らしき姿が二つ程確認出来る。水面に浮かぶ山。私にとってそれは、他に類を見ないのだと思う他なかった。
視界に映る限りの山に自然にそして空。その色は私の知る青ではなく、「白色」に近かった。表すならば空が明るい、そんなところだろう。それに。そんな明るい空には、大きな扁平的な円盤が、まるで無理矢理そこにあるように存在していた。拭い切れない違和感とは、この異質のことである。
(気づいてはいたが、何なんだろうな……)
聞いた話によれば、オリヴァレスティが慕う人物は、私が目覚める以前にアルバスという生物に記憶を根こそぎ取られたという。……彼女の母はラムダ山にある魔石がないと危ない。
ラムダ山の中に入るには記憶を感知する魔獣を掻い潜らねばならない。その為、記憶がないとされた私が、その役を任されたということになる。
────私が彼女の母親を助けたとなれば、大人からの支持も得られやすいというものだ。
美しい景色、明るい空。それらを確認したのは、既に山頂の大穴を目にしていたからである。この穴の中に入れば、もうこの景色を目にすることが出来ないことに気づき、これを見納めとしたのだ。
◇ ◆ ◇ ◆
今いる場所から一歩を踏み出す。
私が大穴へ入ろうとすると────突然、視界から「光」が消え去った。
前へ踏み出した瞬間。体が浮くような感覚と共に、視界に存在していた全てが転ずる。唐突な状況の変化の束の間に、時立たずして臀部に強い鈍痛が走る。私はその初めて感じた「痛覚」というものによって、自らの体が何かに接した事に気づいた。
同時に。それが影響してなのか、突如として変わったこの暗闇は、自分自身がその瞳に蓋をしているせいだと気づき、その痛覚が消え去る前に瞼を開いた。
「おい、貴様どこから……!」
紛うことなき、人の声。唐突な状況の変化。
驚いていた私は、自らの聴覚によって人の存在に気づいた。
「おい、聞いているのか! もしや貴様────」
目の前に突如として映し出された信じ難い光景を目にして、問いかけに対する反応など到底出来ない。
────頬が熱い。
眼球を釘付けにしながら、左手で自らの頬を拭う。
手が触れると、僅かに痛む。
(なん……だ……?)
だが。そのような確認などしなくとも。自らの頬に傷がついたということは、その光景を目にすれば分かる。私から離れて立ちはだかっていた者の内の一人が、その場で真っ赤に揺らめく鋲のような炎を生成させ、空中にて浮遊し続けた火柱は、目にも留まらぬ早さで頬を掠めていったのだ。
そして聞こえた背後の炸裂音。崩れ去る土壁、砂煙が辺りを曇らせる。まるで、「霧」のように消える人々。火柱を射出させた面付きの男達は影の如く変化し、揺らぐ。一秒もかからずに起こった出来事を前に、私の身は静かに震えていた。
「これは警告だ! 次は貴様の頭を容赦なく焼く! さぁ、両手を上げろ!」
────静寂の中を進む規則的な甲高い音が聞こえ、私の前に声の主がその姿を現す。両膝をつけ、頭を垂れるような格好で両手を上げ、その者の指示に従う。
頬を掠めた火柱。それは無から生まれ浮遊した。そして、後に聞こえた炸裂音がその威力を物語っている。目の前で起こった威力は破格だ。恐らく。あの一撃を受けただけで、私のような人間は丸焦げになってしまうだろう。
「待て。そいつは例の者かも知れん。ご苦労、あとは休んでいいぞ」
視界を閉ざす前に得た、少しばかりの時間から齎された生命体の特徴。それを必死で、連続性を保ちながら、自らの心の中で浮かび上がらせる。
……こんな場所には似合わないほど大きな日除けの帽子が、真っ先に映る。黒い十二穴編上長靴を響かせながら向かってくる貴婦人。前髪を横に流し、結わいた後ろ髪から、どこか格式張った印象を受ける。首元に大きな傷が見える彼女。身長と同じ大きさをした赤と青の異系統二色の杖を黒い手袋のままに握り、私に向けている。
彼女の一声と共に目の前の人達が、たちまち霧のように消える。
嫌なことを思い出すが、今回のそれはおそらく彼女の力なのだろう。
胸と腰につけられた金属板。確認した腰帯革から、黒色基調の鋲付き籠手が吊るされている。また、その下には濃紫の外套を身につけ、歩く度に様々な色をした蛍光色の管のようなものが見え隠れしている。言うなれば。軽装鎧の下に神官が身につけているような服を身につけ、手には杖を持つ異様な女性がその姿を現したのである。
「おい、あの先は封鎖されているはずだが、何も知らないのか?」
彼女は手に持つ杖を上に向ける。発せられた言葉に従って顔を上げる。視界より得た記憶の流れを何往復もさせるといった、無意味な運動を辞める。
声を追うようにして自らの真上を見上げた。私はその光景を事実として得たことにより、現在巻き起こっている状況の発端を即座に知る事が出来たのだ。
……目にしたのは、人一人が通れそうな穴。
そして、その位置は丁度、現在地点の真上である。流水の如く勢いで入ってくる情報を受け、辺りを見渡した。混凝土のようなものにて形成された地下空間。私は、自らが未知なる空間に迷い込んでいることに気づいた。ただ、あの大穴の先がこんな状態になっていることなど、足を踏み入れる時には気づかなかった。
「いえ、私は、あの……」
私は彼女に問われていることには気づいてはいるものの、今まで、口を動かし反応する事が出来ていなかった。だが、いつまでも沈黙を通し続けることは出来ない。圧倒的にこの状況は芳しくない。穴に足を踏み出したら更なる穴に落ちたという状況を把握し、なんとか口を開く────。
「少し待て」
彼女は、間髪入れずに言葉を遮る。長さのある杖をすらりと伸びた腕で支え続け、その先端をこちらに向ける。そのまま反対側の手を、腰に吊り下がっている小袋に伸ばす。ひらりと開いた外套の隙間から丸められた鞭のようのものが、彼女の腰から艶かしく揺れた。
「……餌の時間だ」