045.獲物/回収
私は、汚れたその身で、後方を確認する。視界に映るのは、足を互い違いに痙攣させ、目も当てられない凄惨なる姿。憐れみを一身に背負った生物が倒れ、影を落とすように佇んでいた。しかし、私が捉えたのは、それだけでは無かった。心底恐ろしかったのが、未だに全ての足を失っても尚……。頭部と充血した二つの眼球が、私達に釘付けであることだ。今も獲物を狙うような眼差しを向けているエクタノルホス。それをニキシー山脈最上辺の場で見ながら、移動する。
空中で失速後に滑るようにして出来た、抉られた地面の跡。そこに被さるようにして、エクタノルホスに近づいていく。絶えず張り詰めていた緊張感。今となっては解け、肩の荷が降りるような感覚的な冷却を感じる……が、同時に全身の温度が内側から、じわじわと蒸すように上昇していくのが分かった。全身の毛穴から飛び出ていた冷や汗がまるで蒸発する勢いであり、胸の高まりと高揚感で心が一杯になる。まるで、心臓の鼓動が今にも聞こえてきそうである。
そう、本来の体温が、本来の場所に戻されたような感覚であった。押し寄せた疲労感と同時に現れた緊張感の余韻から、その場で崩れ落ちたい衝動に駆られたのだが……そうもいかなかった。私達が近づいていく目標は、先程まで予測不能な動きを見せた。今回に限り、それが起こらないとは確定出来ず、目の前の光景に慢心した後に、同じ結果が訪れる可能性も十分有り得る。
ファブリカの決死の飛び込み。よって、間一髪、回避されたエクタノルホスの突入。突き放された奴との距離が、私達に与えられた猶予なのではないかと考える。私は、少し前に起きたばかりの光景を浮かばせながら……。近づいたこの場所で、息を整える。
「……ファブリカさん、やはり、エクタノルホスはまだ生きているのですよね」
「だねー……足を全て失って、あの場所から移動出来ないとはいえー、『今後』何が起こるかー分からないよねー!」
「ですよね……これから奴の角を回収し、シュトルムさんのもとへ帰還する訳ですが……」
「うんうんー! 角を回収するにはー、あそこにー近づかなきゃだしねー。やっぱりやっとくー?」
「その方がいいと思います。予測不能な動きを見せていましたし。ですので、今も何か……こちらを待っているかのような印象を覚えます。……ですが、身体に魔術攻撃が」
「そうなんだよねー。そこが問題なんだよー! エクタノルホスが持ってる角のせいでー、私が得意な魔術は使えないしー、かといってー。有効だっていうー魔術槍もー足にしか効いてないしー……どうしたものかなー!」
「魔術、攻撃以外なら……効くんですよね」
私は、腰に吊るされた伸縮自在の刺突剣を構える。
「あーなるほどー。刺突攻撃なら、魔術なんてものは関係ないよねー!」
「……はい」
意識から消え去ろうとしていた、両腕という存在を感じる。残された移動可能部位。その不安感を根こそぎ奪い去るように。身体にと比較して割りに合わない小さな両腕めがけて視線を固定させる。私は迷わず縮小状態の刺突剣を鞭のように振り、鋭く尖った剣先を伸ばした。
────耳の奥底の残響と逬る鮮血の中で、私は初めて、声を聞いた。
奴にとっての希望の芽のようなものが、腕の破壊によって摘まれたことを表現しているが如く響いたその声に、哀愁なる印象を抱いた。エクタノルホスから発せられた声は、奴の大きな体躯からは想像出来ない程に小さく、そして異様に「か細く」思えた。
遠くて近い様な、予想だにもしなかった声。私は紛れもなく自らの意思で、エクタノルホスの両足に魔術筒を……。両手に刺突剣を突き刺したのだと、先程までの威勢が消えゆく姿を見ながら、自らに言い聞かせる。私は、命を自らの天秤にかけたのだと。
「一本足になろうとも、変わらず進んでくる」というところから連続して起こった予想外な出来事。それを目の当たりにしてきた自分自身からすると、奴が目の前で倒れているという光景は信じ難いものであった。だが……。いかに目の前の光景が飲み込めなくとも、エクタノルホスという対象の動きを止めたという事実から、目的の達成に伴った足掛かりは確立されたであろう。
けれども、精神的な面から、全ての瞬間に対する心持ちや受け取り方、一つの事にかける執着の度合いは奴の方が遥かに上である。もし、地の利や有効な武器を持ち合わせていなければ、私は奴の執着心に押し潰され、状況を理解すること無く蹂躙されていたと思う。立場が違えば、私もあちら側に回っていたかもしれない。残されたイラ・へーネル団長、そして、ダルミを助けるためにエクタノルホスは大地に伏している……奴には罪はない。決して、意味すらもありはしないのだ。
奴の呼吸は腹の筋肉の躍動によって知ることが出来、その動きは回数を重ねていくごとに、明らかにだんだんと細くなってきているのが分かった。それは無理もなく、全ての足と肉食恐竜の前足の様な申し訳程度についている小さな両腕までもが餌食となり、脈打つ心臓の鼓動に合わさるように血液が傷跡から滲み出ている。奴の息はかなり深く。次の呼吸が来るのだろうかと不安になるほどに微弱化しているように見えた。角の回収の為には奴の動きを止める他なく、全ての手足を失った奴の「命」は、今や風前の灯である。
────私は、動く事が出来なくなったエクタノルホスの前で、ヴァシュロンを勢い良く引き抜く。
最後の最後まで、一方的に奴の攻撃範囲外から攻撃するのも仕方がないとはいえ、どこか心に留まるものがあった。あくまでも不明瞭で勝手な、自己的範囲を越えない葛藤ではあるが……。せめて、命の瞬間を鮮明に感じ取りながら、解放を告げようと思ったのだ。
「ファブリカさん、これで終わりです」
「うんー、お疲れ様だねー!」
「……あいつに、罪はないですよね」
「ないねー! でもーないからこそー、丁重にー、だよねー!」
「……はい。本来、等しいはずですから」
柄を持ち替え、氷に鋭針を突き刺す様な勢いで、全身の体重で奴の首元に深々とヴァシュロンを刺し込んだ。刺突剣が首元を喰らっていくと……。漲るばかりの眼差しは、徐々に光を失っていった。
エクタノルホスが発した言葉。両腕を撃たれた時が最初で最後となってしまった。奴は息の根が止まるその瞬間でも、何の声も発する事はなく、私の事を最期の瞬間まで見続けたまま絶命してしまった。
ファブリカの生体感知による調査によって、生命活動が完全に停止した事が判明すると、私とファブリカは本来の目的である「角」の回収に勢いよく乗り出す……。島のような巨大な体躯の上に立ち、奴の額の上に上がる前に。私は開ききったその瞼に手を触れ、エクタノルホスの目を静かに閉じた。
……充血したその眼を、忘れる事は無いであろう。




