024.黒泥/空間
(……!)
揺れ動く内部。例えるならば、紐に吊るされた振り子の上に乗っているかのような浮遊感。それを感じ始めると私はすぐに、自分が乗っているこの場所が昇降機のようだ、なんて言ってはならならなかったことを悟ってしまう。
扉の向こう側。何か大きな物が動くような、独特の軋みを孕んだ金属音が聞こえる。また、それらが擦れ合い硬質的な音が組み合わさるように鳴り始め、振り子のような揺れは、次第に大きくなっていく。
聞いたこともないであろう音。扉の向こうにどのような光景が広がっているのか……。この音の正体は何なのだろうと胸を踊らせながらも、自身の存在している正確な位置に対する不安感は拭えなかった。……しかし、正直最も気になるのは、現在の高低の度合いである。
「この音はー……始まったねー……っ!」
ファブリカは不穏な言葉を発する。
「始まるって……何が始まったのですか?」
「なんとー! 王国防衛中枢機関が対魔術防御壁を展開し始めたのだよー!」
「王国防衛中枢機関が対魔術防御壁を展開し始めた……?」
「なんでー同じことなぞってるのさー。まあーそうなんだけどー、その防御壁が展開することによってー防衛結界がー王都へのー敵の侵入をー防いでくれるんだー!」
「凄いですね……って、それが展開されているということは、もう既に……敵が」
「そうそうー。私達の報告によって予め防御策を講じたんだねー」
「なんと……。しかし、この揺れといい……その防御結界というものは一体どんな……」
「それはーまもなくー、分かりますよー……!」
恐らく外部からの衝撃によって発生していた空間の揺れは、眩しいほどに内部を照らしていた灯火の消失と共に消え去る。唐突な衝撃から始まった先程までの揺れから考えると、一切の揺れが消え去ったこの空間は異質そのものである。
間も無く広がり、露になる扉の存在。なぜ漆黒へと一転したこの中でそんなことが分かるのか。それは、暗闇の中で一筋の光、縦に切り裂く存在を確かに確認したからだ。私は、濃黒の中でも明確に分かる扉の存在と、それが徐々に開いているこの光景から、まもなく分かるのだと気持ちを落ち着かせる。
こうして揺れの無く、電飾が落ちた異質な空間の中にその身を委ねると、扉が開かれる。入り込んでくる光に目を細めながら、私が目にした光景は隔ての無い、それは溢れんばかりの大空であった。
開ききった扉が映し出したのは。電灯も電線も、何にも邪魔されることのない空。大空に悠々と漂い、浮いている雲に手を伸ばせば届きそうな、この覆い被さるような光景に目を疑う。私は、柱内部に乗り込んだあの時から今の時をもって。地上で目にした壁の上に来たのだと、瞬間的に悟った。
「着きましたね……」
ファブリカはこの閉所から抜け出し、真っ先に駆けていく。私はそれに触発されるように一歩を踏み出す。────こんな所から早く抜け出したかった。今まで滴り落ちる様に感じていた汗。それを拭うように、自らの手を首元へと移動させる。
私は、ただ単に目の前の扉が開き、外に出ようとしたのではない。これは、今初めて自分が外の世界を目の前にしているという視覚情報がある事によって言えることであり、もし、今の時点で外の世界があるという事が視覚的に分からなければ、その存在を意識することは決してなかったであろう。
今、私の置かれている状況を知るには、この場所に入り込んだあの時……衛兵の姿をこの目で見送ったところまで遡ることになる。
* * * * * *
────違和感。
視線。音。私はあの時。扉が閉じられ細くなっていく外界の先を目で追いながら、外にいた衛兵が完全に見えなくなるまでのある程度の時間、前を見続けていた。扉が完全に閉じられたことを境に内部の光が失われたが、暗闇は一瞬のみで、すぐに主張の激しい電飾が点灯し始めたので、大して問題ではなかった。だがこれも、今となって分かることなのだが、その一瞬。本当に気にならないくらい程の一瞬の間に感じた些細な事が、本来は大いに問題だったのだと気づいたのだ。
実は、扉が完全に閉じられた外の光が一切入らない暗い空間で、私はその内部の変化と時を同じくして、ある重みを感じていた。しかし、すぐに暗闇から一転し、内部が明るくなってしまった事が影響しているのかも知れないが、光が灯るまでの間に感じた違和感に対して特段意識することはなかった。ただ一つ言えるのが、その重みは……今までずっと、まるで私の背中に覆い被さっているかのように感じられていたのだ。
私が感じた重みとは。その文字通り、指先の一本も動かせない程の重圧だった。この空間は暗闇から解放され変化したはずなのだが、私はその頭上に、信じ難い光景が捩じ込まれるように存在していることに気づいてしまう。
私はファブリカを隣にし、至って普通に会話を続ける中。必死に何が起きているのだと考えていた。だがあの時、私はそのような疑問を頭には浮かべ続けていたものの、彼女に問うことは決してなかった。それは疑問を問う以前に、私がそのような圧力を発生させている恐らくの原因を既に目にしてしまっていたからだ。
────暗闇から一転し、変化した空間の頭上で目にしたのは所狭しと犇めき、小さな穴や斑点のようにも見えた眼球の集合体であった。
今までただそこにあるだけの頭上の平面はそれを発見してしまった時をもって、畏怖の対象と化した。平面上に隙間なく敷き詰められ、拳大ほどの瞳がこれでもかというくらいに見開かれた状態のまま、黒泥の瞳孔をこちら向かって覗かせている。しかも。許容範囲を遥かに超えている目頭は、今にも裂けてしまいそうなのだ。
さらに不可解なのが……。黒目を引き立てている大きな余白……そう、白目の部分である。見開かれことによって周りの白目が目立ち、そんな部分を認識して、充血しているのではと思っていたが、実際は全く異なるものであったことに気づいた。なんと、白目の部分には、白以外の何色も見当たらなかったのだ。
平坦な白色で、ただ塗り潰されるだけという不気味な姿。その事実に気づいた私は、体内における振動を認知する。何の潤いも光沢も感じられず、瞬きや挙動の一切を見られない不自然さを強烈に感じてしまい、目の前の光景が何なのかと考え続けているうちに、まもなくその視界が霞んでいくのが分かった。
私は光を感じるまでの間。気を抜けば消え去ってしまう視界を守り、重圧から耐え続けてきたのだ。こんなところから一刻も早く、抜け出したいと思い続けながら。だが、今も尚、閉所であるこの内部には、高周波の甲高い音。何かが削れるかのような研磨音が鳴り響いている。
* * * * * *
あの時から一切変化の無く、永遠と監視し続けるのではないかと錯覚してしまいそうなこの空間から逃げ出したいと内心の想いを爆発させる。私は、勢いよく彼女の背中を追いかけるように、息が詰まりそうな空間から外へ飛び出す。しかし……私はなぜだが自身の意思とは反して、扉の前で無意識のままに振り返ってしまう。
私は止めることも出来ない身体の動きと共に、今まで乗っていた柱内部の空間を外の世界から目にする。内部を目にした途端、一気に血の気が引くような感覚を知ることになる。首筋から滴るような冷や汗を感じながら、後退りをする私の目が捉えていたのは────真っ赤に染まった眼球の全てがこちらを覗き、羽音のような音を響かせながら瞬きをしている光景だった。
得体の知れぬ光景。それを目にした私は、跳ね返るように体を元に戻して扉を背にする。目の前の映ったのは振り返りながら様子を伺うファブリカの姿。不思議なことに、その姿を目にして張り詰めていた緊張が解けたような気がして、私はその場で深く息を吸って吐いた。
「……どうしたのー? 早くしないとー、置いてくよー」
首を傾げ、笑顔で無慈悲に急かす彼女を見て、何とか気持ちを落ち着かせる事が出来たが……。────ああ、君にはあれが見えていなかったのか。同時に私は、その姿を確認する。すると、自分が……。この場所から遠退いていくような感覚を微かに感じた。
「…… 行きますよ、行きます行きます。ファブリカさん。そんなことしたら泣きますからね私」
「それってー声に出す方の鳴くー?」
「え?」
「ほら早くー! おいでーオネスティーくん!」
口調から愛でられているような印象を覚え、何となく人間としての尊厳を失いかけている気もするが、呼びかけ通り、私は彼女の元へと足を向かわせる。今となってはあの場所が、この世界では至って当たり前の「仕様」であることを思うことしか出来ない。




