217.桟橋/伴奏
背中を大いに、押されるが如く……。この事象を端的に表そうと模索するも、適切なる表現は見つからない。正しくこれは、そういった生易しいものではない、という事実のみが思考の中で浮き彫りとなり、半ば落胆にも似た感情に陥る。
果ての魔力に吸い込まれるかのように。私は、橋相応の振動と対峙しながら通行を行う。移動における負荷、そこから齎される振動に対して、少なからず先に先にと急いで進行を重ねようとすれば、かえって望んだ結果が得られないという、薄ら痒さを実感させられる。
自らという存在を形成しているのは私、が認識していたあの状態を示すのかは大いに疑問であるが、今このような場においても思考を続け、自らを自らとして内包し、その中心から外部へ向け発しているとすれば、点と点を繋ぐかのような「移動」後の違和感を少しは緩和することが出来るであろう。
思えば久しく月光、もしくは陽光をこの身に受けた気がしない。これは認識として示される事実なのか、それとも自らが固執している為による錯覚なのか、依然として不明である。月の魔力とは素晴らしきものであるが、こういった不確定的状況の中において、その存在が実感として得ることが出来ないとは……非常に、悩まされる。
来るべき瞬間に備え、取り込まれてしまわぬよう心掛けながら、多数の犠牲を払って得られる「結果」を絶えず求める。この場合においてはどこからを起点とするかによって意味合いが異なるが、現環境下、潜り込んだ空間において他者との接触を果たした以前と定め、今までその縋るべき対象と化した姿勢を続けている。
そうしたある種の習慣に助けられてきた点は否定出来ず、心の強化を図ることが叶うのであればそれを活用する他ない。再来、自らという存在を真に認識し、存在そのものを理解することが、この身に降りかからんとする液胞を払い除ける術となる。
私は極めて、不安定な状態にて、次なる確定を戻た上での進行を続けるが、それも終端に達したことを悟る。それもそのはず、長らく連続させていた運動と、その他不安材料の多方面化によって、境界の存在を間近に捉えたからである。
故に、何を考えるよりも最優先に。他より劣るわけでもなく、並大抵に備わっているであろう感覚器官を駆使し、向けられるだけの意識を向ける。身体全体を受け皿として見立て、認識を拡張させた。




