君が嫌いだ
君が嫌いだ。君のせいで僕は、このつらく苦しい世の中を毎日咳止めを飲みながらも生きていかなくてはならない。
君のせいで、僕の人生は大きく狂ってしまった。
子供が溺れていた。見知らぬ子供だ。近くに親がいる様子もない。それどころか、僕とその子供以外に人の姿が見えなかった。
こんなときこそ冷静に考えるべきだと言い聞かせ、状況を確認する。まず、ここは川だ。川というより用水路か。半円状のコンクリートに囲まれたそこは、一度落ちれば上るのは容易ではない。昨夜の雨で水かさが増した今であっても、子供一人が手を伸ばしたところで届きそうになかった。すぐそこには橋がかかっている。満足な柵もないから危険だと思っていはいたが、やはりあそこから落ちたのだろう。
半分くらいに水を入れたペットボトルを投げればいいと聞いた記憶がある。しかしここは市街地からも住宅地からも少し離れた位置だ、あるのは道路とこの川だけで自販機はおろか建物もない。叫べば誰かが来てくれるかもしれないが、残念ながらそれはできない。できたとしても時間がかかってしまうだろう。カバンを漁ってみるも、教科書や筆箱で何ができるものか。
そうこうしている内にも子供はもがき続けている。そろそろ、焦らなければならなかった。
助ける方法はとっくに思いついていた。ただ、他の方法も探す必要があったのだ。人事を尽くす努力をしなくては、君は許してはくれないだろうから――。
僕はカバンを捨てて飛び込んだ。いつも横を通っていたのだから、普段と比べてどれだけ水が多いかなど分かっていた。足が着かない。流れだって速い。特に運動もせず、体育の授業も真面目に受けてこなかった僕が、荒れた川の中を泳げるはずもなかった。
端から見ると溺れているようにしか思えなかっただろう。無我夢中に手足をばたつかせれば、なんとか水をかける。水をかければ、進むことができる。子供を抱えて端まで行き、持ち上げる。僕の手でも縁には届かないが、僕が抱え上げた子供がさらに手を伸ばせば届くはずだ。
そうして僕は一人の子供を救った。
次は僕自身が助かる番だが……飛び込む前から分かっていた、上がる場所などどこにもない。掴むものもない。川下まで泳いでいくこともできない。助けが来るまで顔を出し続けることもできない。そもそも体力がない。――もう、限界だった。僕はもがくこともやめて流れに身を任せる。
ここで僕が溺れ死ぬことで、今後同じ事故が起きないように市が対策をしてくれるだろう。未来の大勢を救ったのだと考えれば、この死も無駄ではない。段々と、意識が薄れてきた。
――ようやく僕も、救われることができたのだ。
放課後の屋上から見る景色は好きだった。
本来屋上の扉は施錠されているけれど、特別教室棟の方はそうでもなかった。本校舎しか改装されなかったのだろう、建物自体がやや古い。だから屋上への扉にも、そもそも鍵が付いていない。僕はいつもここで夕陽を見てから帰っていた。家よりも、ずっと心地良い。
それに、今日は少しだけ特別だった。初めてフェンスの外側から景色を見る。広がる町並みは濃いオレンジ色に照らされていて、懐かしいような寂しさに襲われる。胸が締め付けられて、絞り出されるように涙がこぼれた。……こんなにも綺麗な景色なのに、その中で生きるのはどうしてこうも苦しいのだろう。
ここは三階の屋上だ、頭から落ちればまず助からない。下を見れば、目を背けたくなるような垂直の壁がある。ずっと、いつ死んでも構わないと思っていたのに――なのに、不思議と最後の一歩を踏み出せなかった。
思えば、それが良くなかった。あの時すぐに身を投げていれば、僕はここまで苦しむことにならなかったのだ。
「綺麗だね」
迷っていたから、君に声をかけられた。かけられてしまった。
「ごめんね。ここに来るのは君の親友だったり、恋人だったりが相応しかったのだとは思う。クラスメイトの一人でしかない私は場違いだ」
僕は首を横に振る。
そんな事は気にしていなかった。恋人もそうだが、親友と呼べる相手もいない。誰が来ようが同じなのだ。むしろ誰にも来てほしくなかった。
「何をする気かは見れば分かるよ。別に私は君を止めに来たわけじゃない。ただ少し、話を聞いてほしい」
よく聞くやり方だ。適当な世間話でもして未練を作らせるつもりだろう。自殺志願者なんて大体が最後まで思い悩んでいるのだから、少しでも救いが見えれば揺れてしまう。せっかくの決意を無為にした上で、再び救いのない生活に戻らせる――自分本位で、残酷な行為だ。
だが、そんな風に斜に構えていられたのもこのときまでだった。
「私は君が好きだ」
意味が分からなかった。好きになられる理由も、今突然それを言い出すのも。
もしかすると嘘かもしれない。思いとどまって一度でもフェンスの内側に戻ってしまえば、再びフェンスを越える勇気がいつ来ることか。それを知っていて、適当な事を言っているだけなのかもしれない。
「意味が分からない、という顔をしているね。でも、素直な気持ちだ。君にとって私はただのクラスメイトの一人――として認識されていたかも怪しいが、私にとっての君はそうじゃなかったんだよ」
実際、君を君として見たのはこの時が初めてだった。呼ぶことのない名前と顔を一致させるのは得意ではない。
「確かに君にはあまり魅力がない。暗いし、いつも一人でいるし、話せないし、顔も特別良くないし…………でも、優しいだろう」
そんな事はない。いや、暗いのも他人と関わろうとしないのも話せないのも正しいのだが、優しくはない。少しの優しさも持たない人間が、世の中には多すぎるだけだ。
「この前――この前というには昔すぎるかもしれないが、迷子の子供の親を探してあげていただろう。誰かに任せればいいものを、わざわざ筆談で」
そういえばそんな事もあった。あの親子は通学路の公園でよく見かけていたから、その辺りに住んでいるだろうことは分かっていた。それに僕とは違って、仲の良い親子だという事も分かっていた。幸せになれる人は、幸せでいるべきだ。
「放っておけなかったんだろう? 途中で他人に任せるような、責任を押し付けるようなことはしたくなかったんだろう? ――そういうところが、好きなんだ」
ここにきて、ようやく彼女は柔らかい表情を見せてくれた。
「一応言っておくが、ストーカーしていたわけではないぞ。その子の家族と付き合いがあって、話を聞いたんだ。そもそもその場にいたなら私も手伝っていた。私だって、子供はみな笑顔でいるべきだと思っているからな」
気がつくと、街を染める光はより一層色濃くなっていた。この夕陽ももうすぐ完全に沈む。そうすれば見回りの教師も来てしまう。騒々しいのは勘弁だった。早く終わらせてしまわなければならない。
「とにかく、君は君が思っている以上に優しいんだ」
だが、目の前には君がいた。フェンス一枚挟んではいるけれど、しっかりと見つめ合っていた。
僕は死にたいと思いこそするものの、誰かを傷付けたいとは思っていない。他人の事をどうでもいいと思っているわけでもない。できるなら誰の心にも残らずひっそりと消えてしまいたいのだ。
だから――。
「さて、ここからが本題なんだが……」
そう君は改まり、一つ息を呑んでから口を開く。
「君が死ぬのなら、私も一緒に死なせてくれ」
――だから、そんな風に言われたくはなかった。
そう言われてしまっては死ぬに死ねなくなる。いっそ止めてくれた方が楽であった。自殺を止めるような人間に、自殺をする人間の気持ちなど分からないから……。
僕の動揺など気にもせず、君は話を続ける。
「だが難しいことに、私はこの世界を美しいと思っている。君含め不器用な人達が一生懸命に生きているこの世界が、私は好きだ」
それなら死ぬ必要はない――そう思ったが、紙とペンがなければ伝えることもできない。手話もできないことはないが、相手が知らなければジェスチャー以下の価値しかない。
「だから教えてほしいんだ、君の見る世界を。君と一緒に過ごして、君の感じた絶望を私も知りたい。同じ気持ちで、私も死にたいんだ。――それまでの間、死ぬのを待っていてほしい」
僕は悩んだ。結局のところ、僕だって単なる自殺志願者なのだ。自殺を決意し決行しようとしている今この瞬間にも悩み続けている。最後まで、救いを求めている。
「嫌なら嫌で、私は諦める。だがやはり、できるならば君と一緒に過ごしたいんだ。……さっきも言った通り、子供はみな笑っているべきだからな。君だって、まだ笑っているべき子供なんだよ。それに――」
そして君は、微笑んだ。
「――君の決意は、少し延期したくらいで揺らぐ程度のものなのかい?」
僕はフェンスに手をかけ、その内側へと身を戻した。
君が嫌いだ。君のせいで、今日終わるはずだった僕の人生が終わらなかったから。また苦しいだけの毎日が始まってしまう。一日でも早く君に世の中の醜さを――生きる虚しさを知ってもらわなければならない。
良い事なんて何もない、つらいだけの日々だけれど、それを美しいと言う君と一緒にいれば、もしかしたら僕も同じように思える日が来るのかもしれない。だから僕は、嫌いな君と一緒にいることを選んだ。
そして僕は、その約束を破った君がもっと嫌いになった。
僕が死ぬための道は、無慈悲にもたった一台のトラックによって奪われてしまった。君がいなくなったら、僕はどうやって死ねばいい。君がこの世界を好きなまま消えてしまったら、どうやって死ぬ理由を見つければいい。
もし約束を破って僕が一人で自殺すれば、君はきっと僕を笑うだろう。先に約束を破って行ってしまったのは君だというのに、ずるい。それでもやっぱり、大嫌いな君に笑われるのは、なんだか癪だ。
――誰かを助けるために死ぬのなら、君も許してはくれるだろう。
目を開くと、迎えに来た君がいる――――なんてことはなく、真っ白な天井があるだけだった。
どうやら僕はまだ、このつらく苦しい世の中を生きていかなくてはならないようだ。君が美しいと言ったこの世界を、僕は生きていく。