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          ◆


 少し前にチャイムが鳴っていた。


 真実はペットボトルを二つ持って、下校していく生徒達とは逆方向に歩いて行く。階段を上って鞄をとるために教室に入ると、背中に声が降り掛かった。


「マミ!」


 幼い頃からずっと聞いてきた声は、真実の心臓を跳ねさせた。


 近いうちに向き合い、言葉を交わさなければ。そう思っていた相手が、こちらの準備を待たずして現れる。それはいつもの真実なら予想できることだったはずだが、今の真実にとってあまりに予想外であまりに衝撃的なものだった。


「よかった……もう、探し回ったんだよ?」


「……」


 廊下から教室に入ってきた愛歌の肩には鞄がかけられていた。いつも通り、真実と共に帰るつもりだったのだろう。真実は今鞄を回収しに来たことを後悔する。もう少し待てば愛歌は先に帰っていて、会うことは無かったかもしれないのだから。


 喋らなきゃ。準備がとかそういうのはどうでもいい。今、伝えなきゃ。


 自分で自分を焦らせ、急かせば急かすほど口がうまく開けなくなる。どうしよう。そんな思いで埋め尽くされ始めた思考は、突然の抱擁に固まった。


 愛歌が、鞄を投げ捨てて真実を抱きしめた。感じる体温が暖かくて優しくて、ぎこちなく動いていた真実の口元がほっとしたように結ばれる。


「大丈夫だよ、マミ。何も言わなくても、分かるから。わたしには、伝わってるから」


「あい――」


「ごめんね、マミ。わたし……ね。これからマミを傷つけること、言うかもしれない。それでも……わたしのこと、嫌いにならないでね」


 愛歌は真実の声が聞こえなかったのか、自分の話すことにしか意識が向いていなかったかで無意識に真実の声を遮った。それが真実に『まだ喋ってはいけない』と思わせた。


 愛歌の名を呼ぼうとして口を閉ざした真実は、いつものように小さな頷きだけを返す。


「マミが喋りたくなくなったのって、お父さんとお母さんを失ったショックのせいなんだよね。……仕方ないことだけど、でも……わたしはすっごくいやなんだ」


「……」


 言われなくたって、そんなことは真実も分かっていた。分かっていて、認めないでいたのだ。愛歌がいつでも笑っていたから、自分を甘やかし続けてしまった。今も、彼女に甘えている。


 愛歌は少しだけ悩むように黙ったが、続けた。


「だって、さ。いつもみたいに話しかけても、マミはいつもみたいに返してくれない。いつもみたいに、笑ってくれない。でもわたしまで黙ったら駄目だって、わたしまで暗い顔したら駄目だって、ずっと笑って、馬鹿みたいな話を延々としてきた」


 いつだって笑って、いつだって明るい声だった彼女は今、泣き出しそうに震えていた。普段より高い声が真実の心に突き刺さる。これ以上は続けて欲しくない。けれど、聞かなければならない。


 もう、甘えることをやめなければならない。


「……わたしだって、泣きたくなった時も、もうマミに話しかけなくていいかなって思ったときもあったよ。でも、出来なかった」


「……」


「朝、マミに会うたびに、そう思ったことすら忘れさせられるの。マミを見つけると、わたしはいつも通り声をかけるの。マミが何も言ってくれなくても、いつか、そのうち何か言ってくれるかなって……っ、マミに笑ってもらうためにもわたし、笑ってなきゃなって……っ」


「……!」


 堪えきれなくなったように彼女の目から溢れ出す雫。震えた唇から漏れる呼吸。体の震えが、こちらまで泣きたくなるくらい伝わってくる。悲痛な声と涙が真実の胸の奥の方まで貫く。


 愛歌から落とされる痛みは、真実がずっと彼女に与え続けた痛みなのかもしれない。そんなことを考えてから、真実は小さく頭を左右に振った。愛歌の痛みはきっと、こんなものではなかったと思ったからだ。


 震え始めた唇を噛んで、真実は愛歌の言葉に耳を傾けた。


「なのに、わたしじゃ駄目なの。わたしじゃ、マミを笑顔にさせられない……またマミに喋って欲しくても……わたしじゃ……っ…………マミをもっと追い詰めて苦しめてるだけになってて……! っ、めんね……ごめんね、マミ……!」


「……っ」


 違う。愛歌は何も悪くない。愛歌が真実に謝る必要は無い。胸がはっきりと音を立てて痛んだ。その比喩に近い痛みは現実の痛みに変えられる。


 突然愛歌に突き飛ばされて、危うく転ぶところだった。驚いたように見張った目で愛歌を見て、真実はすぐに目を逸らしたくなった。顔をぐちゃぐちゃにして、大粒の涙を流して、まっすぐに真実を見つめる彼女。その目が、どこまでも真実に優しいその目が、優しさが、刃物のように感ぜられた。


「もうっ……やめてよ……! 自分を責めるのもうじうじするのも、もうやめてよ……! なんでいつまでも喋ってくれないの……!? いつまでも両親の死を引きずって、それじゃあ……マミは前に進めないじゃない……! マミはずっと、そこから一歩も先に進めないじゃん!」


 どうして。どうして彼女は、こんなに優しいのだろう。私は彼女を傷付けてばかりなのに、どうして、彼女は私のことをこんなに考えてくれているのだろう。


 どうして。そんな言葉ばかりが真実の頭の中を駆け巡る。だんだんと涙が出そうになる。堪えるしかなかった。自分は今泣いてはいけないと、言い聞かせる。


「……わたし……知ってるよ。マミがすっごく弱いことも、自分で何もかも抱え込んじゃうところがあることも、知ってる。幼馴染だもん。わたしにとって一番の友達だもん。マミがわたしのこと嫌いでも、わたしはマミのこと大好きだから。……でも、違うんだよ」


 真実を見据える赤らんだ目は、視線は、どこまでも真っ直ぐだった。喋ることをやめ、避け続けた彼女の目は、昔から何も変わっていない。


「わたしが好きなのは……わたしの馬鹿話に突っ込んでくれるマミだよ! わたしのつまらない話で笑ってくれるマミだよ……! わたしの気持ちを無理やり押し付けるみたいで言いたくなかったけど……わたしには! 今のマミは……マミじゃないみたいにみえる……!」


「……」


「嫌だよ……! わたしの言葉全部無視するマミなんて……笑ってくれないマミなんて! それともわたしがおかしいの!? みんな変わっていく中、なにも変わらないわたしがおかしいの……!?」


 答えてよ。教えてよ、ねぇ、私はおかしいの。震える唇が、赤くなった目が、真実に問いかける。真実は何も言えないまま、黙っていることしか出来なかった。


「…………おかしくても、いいよ……。何言ってんだろうこいつって思っても、いいよ。それでもわたしは……あの頃みたいに戻りたいよ……。毎日はしゃいで、騒いで、声を上げて笑ってたあの頃みたいに……もどり、たいよ……!」


「……」


「喋ってよ! 何か言ってよ!! マミ……っ!」


 両肩を掴まれる。懇願するように、愛歌の顔が下を向く。口を開いても、真実はうまく言葉を紡げなかった。喘ぐような呼吸はきっと愛歌の耳に届いている。この息に、声を乗せればいいだけだというのに。


 そうするのに、どれだけの時間がかかったことだろうか。


「……っ、ごめん、ね……あいか……」


「!」


 ようやく、真実が声を発した。愛歌は真実が喋ってくれるなど予想していなかったのか、信じられないものを見たというように瞠目していた。


「……あたし、病気でもなんでもないから、喋ろうと思えばいつだって喋れた。なのに……アイカがそんなに苦しんでるなんて知らなくて……ただ、喋るのが怖いからって、逃げてばかりで、ごめんね」


「……マミ……」


「ねえ、アイカ……あたしが、もしあたしがさ、アイカにひどい嘘を吐いて苦しめたら……嫌いになるよね……。でもあたし、いつ嘘を吐いてしまうか、分からないから……怖くて」


 今も、怖かった。何故喋らなかったのか、その理由まで嘘で固めてしまうのではないかと、びくびくしながら喋った。自分が何を言ったのか、すぐに記憶から抜け落ちてしまうほど心は落ち着かなかった。


 だから、今自分が本当のことを述べられたか、不安になる。しかしそんな不安さえも、愛歌の優しい笑顔が溶かしてくれた。


「大丈夫。わたし、嘘を吐かれたくらいで嫌いになんてならないよ。なにも喋ってくれないよりも、そっちの方がわたしは傷つかない」


「ご、ごめん……」


 いいよ、と言うように首が左右に振られる。愛歌は目元を拭うと、両手を組んで上げ、伸びをした。


「はあ……久しぶりに泣いた気がする」


「久しぶりなの? アイカ、泣き虫だったのに」


「うるさい。マミだって泣き虫のくせに」


「……い、今はもらい泣きだよ!」


「っふふ」


 涙で潤んだ視界の中で、愛歌の微笑は眩しかった。朝露に反射した陽光のような、暖かい眩しさだ。冷え切った心の奥の方を暖められていくようで、心地がいい。


 真実はその微笑のわけを、彼女の口から知りたかった。


「なに……?」


「少しだけ、懐かしい感じがしただけ」


「……そ、っか」


 懐かしい感じ。それだけで、愛歌の思い浮かべているであろう情景は伝わってきた。真実も顔を綻ばせると、ふと愛歌の人差し指に意識が奪われる。その指が向いているのは、真実の両手だ。


「マミ、なんで二つも飲み物買ってるの? わたしに?」


「ち、ちがっ、これは!」


「なんで顔赤くなってくの?」


「な、なんででしょう……」


 どんどん顔が赤くなっていく真実を見て、愛歌が悪戯っ子のように笑った。


「……彼氏いたっけ」


「かっ、かれし!? ちが、あの人は今日会ったばかりで!」


「えっ、まさか恋ですか」


「こ、恋!? だから、会ったばかりの人に恋するわけ、な、ない!」


「へえー……なになに、どんな人? かっこいいの?」


「えっと……ツカサ、って人。右腕に包帯してた」


 少ない情報だったが、右腕に包帯、というだけで大きく絞られる。そこに下の名前まで付けてもらえたのだから、愛歌でも誰だか分かった。


「……エノキド君?」


「名字は知らないけど……。あたしの背中、押してくれた。あたしが歩き出すのを、助けてくれた」


「……なるほど、そこから恋に落ちたんだ」


「だから違うって! もう、アイカってば……」


「でも気になってるんでしょ?」


 お姉さんのような優しい言い方をされて、真実は俯いた。気になっている、というのは本当のことだ。俯いたまま、小さく頷く。


「……少し、あたしに似てるんじゃないかって思って」


「え?」


 呟きは小さすぎて愛歌には届かなかったようだ。真実はそれで構わないと思った。このことは、きっと当人だけが知っていればいい。だから顔を上げ、左右に首を振る。


「……なんでもない」


「にしても、ちゃんと話せるまでもう少し時間がかかると思ったけど、なんか拍子抜けしちゃった。こんな簡単なことでマミとまた話せるようになるなんて思ってなかったから」


「ほんと、ごめん」


「もう、謝らないでよ。わたしだってマミの気持ち考えずに色々言い過ぎたかもしれないんだから」


「……うん」


 言いすぎなんかじゃないよ。思っていること、沢山言葉にしてくれて嬉しかった。あんなにまっすぐ気持ちを伝えられる愛歌を、すごいなって思った。


 それは伝えるべきことではないような気がして、真実は胸の内に留めた。愛歌と目が合うと、彼女の手は先ほどと同じようにペットボトルを指差す。


「それ、エノキド君に渡しに行くんでしょ? ほら、行こう。ついて行ってあげる」


「別にこなくても良いのに」


「あっ、二人きりがいい?そっか、そうだよね、恋しちゃったんだもんね」


「もう、違うってば……!」


「顔真っ赤でそんなこと言われても」


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