5
真実が去ってから司はひたすら空を仰いでいた。まだ何も変わらない青空に、少しだけ嫌気が差す。
チャイムの音をぼんやり聞きながら、今は何時間目だろうかと考えた。三時間目だったか、四時間目か。
実際は六時間目の終わりの方だというのに、まだ空腹はやってこない。司は鞄の中に入っている弁当をどうしようかと悩む。
そうしているうちに、屋上に誰かが踏み込んだ。
真実だと思ったからか、司は微笑して振り返り――すぐさま目だけを冷え切らせた。
「……テメェ、こんなとこで何してんだよ」
「……僕がどこで何をしていようが勝手じゃないのかな? というか、珍しいね。シュウは置いてきたんだ?」
食べようと思って来たのか、彼の手には購買で買ったのであろう包装されたパンが握られていた。
嘲笑うような司の声に舌打ちを漏らすと、そのパンが乱暴に床へ叩きつけられる。
「…………ほんっとに気に食わねえ」
食べ物を粗末にするなよ。
言おうとした言葉を飲み込んだのは、早足で詰め寄った充に腕を掴み上げられたからだ。司は突然のことに、瞳をわずかに見張っていた。
巻かれている三角巾が、その下の制服が、深い皺を作る。それを見て、充にどれほどの力で腕を掴まれているのかなんとなく分かったが、司は無表情のままだ。
互いの息遣いが聞こえる距離で、司は充の奥歯がぎりと鳴ったのを聞いていた。
「なんなんだよテメェ……痛くねえのかよ」
「……何も感じない。痛くもかゆくもないって、こういう時に言うのかな」
無感情で無機質で、透き通った声。それは充の眉をさらに吊り上がらせた。司の腕をつかむ彼の手が震えている。震えるほどの力を、加えている。
「嘘だ……!」
「……なにが?」
いつものような嘲笑はそこになかった。微笑すらなかった。
充の大嫌いな、どこか余裕ぶった笑みはそこになかった。ただ冷たい貌が、充ではなくて掴まれている自分の腕を見つめ続けていた。だから、充は一瞬気圧された。
「っテメェの骨折も、腕がまだ治ってねえのも、感覚を失ったとか言うのも全部嘘だろ。強がってんじゃねえよ。痛いって、やめてくれって言ってみせろよ!!」
血走ったような目ってこういう目のことをいうのかな。この状況で司が考えたのはそんなどうでも良いことだ。
荒い呼吸、留まらない嫌悪、消されない憤怒。それらが求める言葉を、急かす回答を、司は口に出来ない。
嘘を吐いて痛がればいいという考えは、今の司に考えられるものではなかった。ぼんやりとした頭は、嘘を吐く司令を出してくれない。
「………ごめん。キミがどれほど強く僕の手を握ってるのか分からない」
「また演技か? いつだってそうだ! テメェはいつも顔を繕って、気持ち悪い笑いを浮かべて、シュウを苦しめて! 楽しいかよ? テメェよりも実力がない俺らを嘲笑って、楽しいかよ!?」
「……楽しいって言ったら、キミは救われるのかい?」
司は、自分がいつもの榎戸司でいられない理由に感づいていた。――ああ、きっと、もうすぐ終わるからだ。
嘲笑うことに、突き放すことに、榎戸司をつくることに、疲れたからだ。
偽りの笑いを浮かべることなど、もう司にとってどうでもいいことだった。もうすぐ、終わりになるのだから。
「……は?」
口をぽかんと開けたままの彼へ、司は淡々と続けた。
「ここで僕が痛がって、手を離してくれと言ったら、キミは救われる?」
「なんだよ、それ……ざけんな……。テメェがいなくなればいいんだよ!! 消えちまえばいいんだ! 俺が試合をするのが怖くなったの……誰のせいだと思ってやがる! テメェが逃げたから俺はこうなったんだぞ!! テメェのせいで……大勢の前で無様に恥を晒して……そんな俺を嘲笑ってんだろ!!」
「……僕は逃げたわけじゃない」
怒号に静かな怒声を重ねる。思い出すあの出来事のせいで心が乱れかけ、司は充に気付かれないように深呼吸をして落ち着こうとする。充の容赦ない声が、司が落ち着くまで待ってくれることなど当然ない。
「嘘だ!! 骨折も何もかも嘘だ! テメェは怖くなって嘘吐いて逃げたんだろ! それで俺に全部押し付けて、陰で笑ってたんだろ!!」
違う。違う違う違う。
すぐに口を開けば否定の言葉ばかりを並べてしまいそうだった。開こうとした唇を噛み締めて言葉を飲み込む。噛んだ唇が切れて、血の味が口内に広がった。
「……キミは笑われるようなことをしたの?」
「はあ!?」
「勝ち負けがすべてじゃない。キミの試合を見ていたわけじゃないからなんとも言えないけど、全力を尽くして戦えたなら、僕はそれを称えたい。馬鹿にするなんて、そんなこと出来ない」
真っ直ぐで偽りなどないその言葉に、充は明らかに動揺した。司の腕がようやく離された直後、充の手は司の胸倉を掴んだ。
「……マジでうぜぇ。テメェの言葉とか、信じられるわけねえだろ。俺はな、テメェが大嫌いなんだよ!! ユウトが剣道やめちまったのだって、テメェのせいじゃねえか! テメェがありもしない噂を流して、ユウトを退部に追い込んで……そんな奴を信じてたまるかってんだ!」
「……違う。僕じゃない。ユウトのことは、僕は誰にも言ってない」
「いい加減にしろよ……。なにがユウトに階段から落とされて骨折した、だよ。そうやって一年経っても包帯巻いてんの、俺らへの当て付けだろ? ユウトを悪者扱いして、シュウや俺を馬鹿にして……なんなんだよお前。とっとと死んじまえよ」
突き飛ばされて、危うく転びそうになる。立ち去る充の苛立ちが、屋上の扉に注がれていた。大きく鳴り響き未だ反響している扉の音に、司はようやく無表情を崩した。
口元が綻ぶ。目が泣き出しそうに歪んでいたことに、司自身はきっと気付いていない。
「……言われなくたって、僕ははじめからそのつもりでここに来たんだ。けど、まだ飛び降りないよ。綺麗な夕陽を見てからが良いんだ。あの日と同じ、夕焼け空を」
…………
肌に触れるのは、冷たい床。今自分がどこで何をしているのか解するのに時間がかかった。ただ、倒れているのだということだけははっきりと理解する。
――……あれ……何で僕……倒れてるんだっけ。立たないと…………駄目だ、立ち上がれないや。力が、入らない……。
独り言をぶつぶつと漏らした、つもりだった。けれどどうやら声を発することさえ出来ていないみたいだった。
立たなければ。自分で自分を急かすように、僕はその言葉を頭の中で何度も何度も繰り返した。
「――ツカサ」
降ってきたのは、声。何かを堪えたような、少しだけ震えている声。
誰の声だっけ……くそ、意識が、ぼんやりする……。
僕は痛む腕を動かして、それと同等かそれ以上に悲鳴を上げている頭に触れる。
「――ざまあみろ。これでもう、お前はおしまいだ」
声は、何を言っているのだろう。
…………おしまい……?
おわらないよ……僕は、死なないよ……。死ねないんだ……だって、あとすこしで――……なにか、あるんだ。
なんだっけ……なにか、しなきゃいけないことが……。
苦しげな呼吸と共に吐き出したつもりの言葉。僅かに開いた唇から漏れるのはただひたすらに息だけだった。
「――なあ、天才のお前には分からないよな。足掻いて足掻いて上を目指そうとするやつの気持ち。いい気味だぜ。今度はお前が足掻く側だ。苦しむ方だ」
愉しそうに笑う声が、嬉しそうに歪む目が、頭上に居続ける。
そんな声に言い返す余裕さえ、僕にはなかった。いや、違う。自分でも驚くほどに、取り乱していなかった。
……少し、落ち着いてきた。僕は混乱していたのか。そうだね、混乱するよね。
――ねえユウト、なんでキミは、こんなこと……。
……駄目だ、なんでだろう、声が出ない。
ようやく、僕は自分が言葉を発せていないことに気が付いた。僕の声は、僕にしか聞こえていない。
震えるばかりで……嗚咽と息が漏れるばかりで、うまく、喋れない。
視界がすごくぼやけてるんだ。ユウトの顔が、見えないんだ。キミは、どんな顔をしているのかな。
なんだろう、熱いものが……流れてく。これは……なんだっけ。
頬に触れて、熱を持って伝うそれの名称すら今の僕には分からなかった。熱い。痛い。苦しい。どこが熱いのか、どこが痛いのか、苦しいのは何なのか、だんだんと分からなくなっていく。
「――じゃあなツカサ。毎日のように俺を苛立たせてくれてありがとよ」
やけに響いて聞こえる声。綺麗な余韻を残して消えていく足音。僕は、震える手を床について立ち上がろうとした。
その手は立ち上がることを許してくれないみたいだった。ただ無様に、再び床に転がっただけだった。
手を握りしめる。握りしめることが出来たかどうかさえ、分からない。
「……そっか、キミは……僕が嫌いで嫌いで仕方なかったんだね」
声は出ただろうか。この声は彼に届いているだろうか。もう靴の音は聞こえない。それほど遠くに、彼はもう行ってしまったのかもしれない。
喉がひくついて、乾いた笑いが漏れる。
「っはは……あはは……馬鹿、みたいだ。友達だと思ってたのは……僕だけだったんだ……」
軋んで痛み続けるのがどこなのか、分かりそうでわからない。呼吸をするたび喉が焼かれているかのように苦しい。
誰か。誰か助けてくれ。動けないんだ。動かないんだ。なあ、誰か。
救いを求める視線は宙を彷徨う。窓側に目をやって、僕は目を細めた。
……眩しい…………。……夕焼け、か……。
「綺麗、だな…………」
意識は、そこで途切れた。