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「落ち着いた?」
柔らかな風が吹く屋上。真実は小さく鼻をすすってから首を縦に振った。
「……うん。ごめんなさい」
「いや、謝る必要はないと思うんだけど……」
「あたしね、死って、怖いの」
「……大切な人でも失った?」
口に出してしまってから、司は後悔した。せっかく泣き止んだというのに、嫌な事を思い出させようとしてどうする。自分を罰するように、司はぎゅっと手を握りしめる。
「お母さんとお父さん。あたしが馬鹿だったから」
真実の声は思ったよりも冷静で、ただ淡々と告げた。笑っているのは、自虐だろう。それか強がりだ。
「…そっか」
それ以上は踏み込もうとせず、簡単な相槌だけを返すと、真実が司の顔をじっと見た。
「あたし、マミって名前なの。真実って書いて、マミ。あなたは?」
「ツカサ。普通に、司るでツカサだよ」
「……ツカサ。あたしの馬鹿な話、聞いてもらってもいい?」
聞く話はだいたい予想ができているから真剣な顔を浮かべるべきなのだろうが、司は自分が何故か微笑していることに内心動揺した。
きっと聞く内容のことよりも、出会ってまもない相手に何かを打ち明ける彼女を可笑しく思ったのだ。先程まで一人で語り続けていた自分を思い出すと、笑みはさらに深くなる。
「楽になれると思うなら、話してみてよ。僕だって、溜め込んでたものを吐き出しちゃったようなものだし」
本当に、おかしな話だ。僕も彼女も、なぜこんな簡単に口を動かし過去語りをするのだろう。普通は親友や家族など信頼できる相手に話すだろうに。
そこまで考えて、司は思考を止めた。『親友』『家族』。そんな言葉を頭の中に自分で浮かばせておいて、浮かんだそれらを振り払いたくなる。
「じゃあ、聞いてほしいな。聞くだけで、いいから」
「……わかった」
意識を自分の頭の中から真実の言葉だけに集中させて、今は下らない考えを全て忘れることにした。
「小学生のときにね、お母さんとお父さんに、ケーキを作ったの。二人共、偶然誕生日が一緒だったから」
「へえ……すごいね」
小学生でケーキを作れるものなのか、と感心してつい口元が綻ぶ。真実も薄い笑いを浮かべていた。
「うん。でも二人はいつも仕事で忙しくて……あんまりあたしに構ってくれなくて……その日もきっと、帰りが遅いんだろうなって思ったの。それで、早く帰ってきて欲しかったから、嘘を吐いた」
「嘘?」
「そう。本が燃えてて、どうしたらいいかわからない。このまま火が広がったら怖い。だから早く帰ってきて、助けてって。そんな風に嘘を吐いたの」
「……ちょっとした悪戯どころじゃない嘘だね」
仕事で忙しい両親がそんな嘘で帰るなど、職場にも両親にとっても迷惑だろう。もし消防車を呼ばれていたら、迷惑はさらに広がる。はじめは大事になって、けれど嘘だと分かった途端きっと非難をされるのは両親だ。
「……子供だったから。ひどい嘘だって分からなかった。どうしても早く帰ってきて欲しかったんだと思う。あまり、覚えてないんだけど」
「……それで?」
その先は、もう司の脳内で想像が出来ている。それでも彼女の口から全てを、彼女が吐き出したいことを最後まで聞かなければならないような気がした。
「……二人が帰ってくることは無かったの。あたしの嘘を信じて、あたしを心配して車で帰ってきてるときに、交通事故にあって死んじゃった」
「……だからキミのせい、ってわけか」
言いつつも、司はその結論に納得がいっていなかった。だからこそその端正な顔は不服そうに歪んでいる。
そんなことなど知らずに、真実の声のトーンが自嘲するように高くなる。震えているせいで、泣き出す寸前のようにも思えた。
「……おかしいでしょ? 真実って名前なのに、あたしの口から出るのは嘘ばかり。だから……あんなことになったの。お母さんもお父さんも……あたしを信じてくれたのに……。あたし、最低な娘だったんだよ」
「喋れないわけじゃなくて、喋りたくなくなった、ってことかな」
「そう。……喋らなければあたしは嘘を吐くことはないと思った。何も言わなければいい。ずっと、黙り続ければいい。こんな嘘を吐く口なんて、声なんて、なくなればいいって」
だんだんと彼女の顔が俯いていく。司は頭の中を整理してから、ふうと息を吐き出した。それから小さく笑う。
「なのに、キミは僕に喋ってくれた。どうしてかな?」
「どうしてって……あなたが! 飛び降りようと、するから……。死んじゃうって思ったら……怖くて……」
「あー……なんか騙したみたいになって悪いんだけど、まだ飛び降りる気はなかったよ」
掴みかかるような勢いで詰め寄られ、その真実を手で宥めながら苦笑する。真実はしばし固まっていた。
「……えっ?」
「それにしても誰も信じないって言葉を実行するのは難しいね。気付くと信じてしまっているんだ」
「……」
突然話が変わったからか、真実の形のいい眉が顰められた。いきなり何を言っているのだろう。瞳がそう語る。
司はその視線に、真剣な視線を返した。真っ直ぐで、けれどどこか諦めたような、疲れたような瞳に、真実は唾を飲む。
「人間ってさ、そんなものだと思うよ」
「そんなものって…?」
「無意識のうちに誰かを信じてさ、誰かに信じられてさ。気付かないうちに裏切ってしまって、裏切られて。傷ついて傷つけられて。そんな生き物だよ、人間って。だって仕方ないじゃないか、心ってものを持ってしまっているんだから」
「なにが、言いたいの?」
分かってるくせに。
そう言ってやろうと開いた口を閉じて、司は再び開口する。
「両親のことを自分のせいだって責め続ける必要はないんじゃないかな」
「……」
なにも、返されない。空の高いところにある静寂が降ってきて、すぐさま二人を包み込む。
その空気に耐えきれなくなったのは司の方だった。
「キミは、友達とかいないの?」
「なんでいきなりそんなこと……」
「いるんだね、顔を見ればわかる」
「えっ」
真実が言葉を続けようとしたのを敢えて遮るように、司の声の大きさが少しだけ大きくなった。真実を見ていない、遠くを見ている目が、苛立ちの色を孕んでいるようにも見える。
「じゃあさ、キミは両親のことに負い目を感じてさ、喋ることをやめて、それで本当にだれも傷つけていないと言えるのかい?」
「……」
「よく死者に報いるためにとか、死んだ人をこれ以上悲しませないようにとか言う人いるけど、死んだ人はなにも思わないんだから故人について考えるのは二の次でいいと思うんだよね、僕は。大事なのは今の関係じゃないの? 今、そこにあるものじゃないの? キミがどうしたいか、じゃないのかな?」
「でも、あたしに――」
「喋る資格なんてないとか、ふざけたことは言わせないよ」
刃のようだった。研ぎ澄まされていて、鋭くて、神秘的に光る刃。それに貫かれたような感覚に、真実は胸元に手をやって握りしめた。
「……なんで……」
「そう言いたそうな顔してた」
困ったように、彼は笑った。
司は少し、後悔したのだ。自分の苛立ちに任せて自分の戯言を正論のように彼女に聞かせていることに。それでも始めたことを途中でやめるわけにはいかない。
せめてこの敵を見るような目を、変えなければ。どうすれば優しい瞳を出来るのだったろう。思い出せない。それくらい、司は優しくしたいような相手が長い間いない。
友人や親友を持っているのに、彼らから目を逸らし続ける真実に苛立つのは、ただの嫉妬だ。情けない。
司はため息混じりに吐き出す。
「喋ればいいのに。人間なんだから、嘘を吐いてしまうことは誰だってあるよ。それを信じる人と信じない人がいるのも当たり前のこと。キミのご両親の死はさ、ただ偶然が重なってしまっただけのことだと僕は思うよ」
「……でも」
「――はじめからキミが嘘を吐かなければこんなことにはならなかった? 言い切れないよね、だって実際に殺したのはキミの嘘じゃない」
「……」
これ以上真実に自虐的で自罰的な言葉を吐かせるつもりは司にはなかった。口にしてしまえば、心に生まれたその思い込みが強くなってしまうのではないかと思った。
だから司は、彼女の表情と声と口元から目を逸らさないようにした。
これ以上は、言わせない。こちらの言葉を、受け入れてもらいたい。だから司は、喋ることをまだやめない。
「キミが嘘を吐かなくても、事故は起きていたかもしれない。両親がキミの嘘を信じなくても、それは同じことだ。死なんてものの半分はさ、偶然訪れるものなんだよ。必然じゃなくて偶然を、自分のせいだと責めるのはおかしい」
「……けど、怖いよ。あたし、また嘘を吐いて……誰かを不幸にするんじゃないかって」
「当たり前だよ。嘘なんて誰かを不幸にするためにあるんだから」
「そんなことない。優しい嘘だって、あるよ」
そう言っていた人が、他にもいたなとぼんやり考えた。クラスメートだったか、ドラマの中の登場人物だったか、小説だったろうか。
優しい嘘を認めている者達を、司は嗤ってやった。
「そうかな? 嘘は嘘だ。それが真実になりえない限り、誰かを騙すもの。その誰かが真実を知ったときの苦しみを倍にするもの。でも、人間って欠陥だらけの生き物だからさ、決めたことなんてすぐに曲げてしまうよ。嘘を吐かないと決めても、どこかで嘘を吐く。だからといって、喋らなければいいという結論に至るのは間違ってる」
「……どうして? 嘘を吐いて、誰かに迷惑をかけてしまうよりも、初めから何も喋らなければ誰にも迷惑がかからないし、傷つかないって、あたしは思う」
「別にいいじゃないか、迷惑をかけたって。それともキミは、迷惑をかけず、喧嘩もしない、そんなような、距離を置いて壁を挟んだような友人関係で満足?」
「……あなたに、言われたくない」
止めるな。やめるな。べらべらと言葉を並べて僕の言っていることが正しいと彼女に思わせろ。彼女が前を向き始めるまで、喋り続けろ。
そう思い続けていた思考が、ぴたりと止まってしまった。あなたに言われたくない。真実の言葉を唇の裏で反芻する。
引きつった笑みしか浮かべられなくなって、乾いた笑いでなんとか誤魔化そうとする。
「……はは。まあ、僕のことは置いておいて」
「じゃああなたは、誰かを突き放し続けてて、それで本当にいいの?」
「置いといてって言ってるじゃないか。今僕はキミの話をしてるんだ」
強めの口調で言うと、表情はそのままに、口を閉ざす真実。不満げに口はへの字に曲げられていたが、司はそんなことを気にしない。
「で、僕は何を言おうとしたんだっけ」
「知らない」
「なんてね、覚えているよ」
「……変な人」
声は冷たかったが、可愛らしい顔は花のように綻んだ。変人扱いに納得がいかないものの、司は話を続ける。
「とりあえず、さ。キミに友達がいるんだとしたら、その子に対して喋らないって、キミはその時点でその子を傷つけているんだよ?」
「……」
「無視されるってさ、どんな気分だと思う? それとも、一緒にいても互いに喋らないのかい? もしかして、もう喋らないと伝えてあったり」
「伝えてない。……あたしが、喋りたくなくなった時から、喋ってない。なのに……アイカは、いつも、いつも、あたしに話しかけてくるの」
嫌にならないのかな。自然の音にかき消されるほど小さな声は、司の耳に届かなかった。届いたとしても、その答えを司は持ち合わせていない。
「ふうん……。いつまでもびくびく怯えてないでさ、喋ってみなよ」
「それが出来たらどんなに楽だと思ってるの!?」
楽観的にも思える言い方につい声を荒らげてしまう。長々と話を聞いてくれたのに、この人は結局他人事だから無関心なんだ。そう思ったら、無性に悲しくなってきた。
泣きそうで、耐えなければと唇を噛む真実に、司が笑う。
彼の笑みは作り笑いのようだと、真実はずっと思っていた。けれどその作り笑いは、どうしてか心地が良かった。
「出来てるじゃないか」
「はっ……?」
「今キミは僕に喋ってるよね」
「だからそれはっ……」
先程も言ったのにまた同じ言葉を言わなければならないのか。そんな思いが沸くが、その必要が無いことくらい真実にはもうわかっていた。
司の人柄も、司が言いたいことももう、恐らくとっくに気が付いていた。
「理由はどうであれ今のキミは普通の子だ。普通に喋って、表情も豊かで、ごく普通の女の子」
「……」
「もしキミが喋ったのが喋らないと決めた日以来だったなら、やったね。一歩前進だ」
まるで自分のことのように目を細める司。不思議と溢れそうになった涙を拭って、震える唇を真実は動かす。
「……なんで、あなたが嬉しそうなの」
「別に嬉しくないよ? 嬉しそうな顔をした覚えもない」
「……」
無自覚だったのだろうか。もしかすると心から他人の進歩を嬉しく思っているのかもしれない。そんな自意識過剰に近い推測を立てて、真実はほんの少し嬉しくなる。
「一歩だけ前に進めたんだから、もう一歩、また一歩、進んで行きなよ」
「………」
この柔らかく優しい声も、無意識なのだろうか。耳を通って脳へ溶けていくような言葉に、震える手を握りしめた。
何年も、ずっと一人で抱え込んだ。自分だけの罪の意識、自分だけの後悔と罪悪感。それをようやく吐き出すと、止まったままの時計の針を動かそうとしてくれている人がいる。止めてしまった時を、自分では再び動かす勇気のなかった針を、彼は動かそうとしてくれている。
あとは、針が抗わなければいいだけ。
「せっかく綺麗な声をしてるのに、喋らないのは勿体無いと思うしね」
勇気をつけようと深呼吸した直後、司にそう言われて心臓が跳ね上がった。動揺が隠せないまま、聞き返す。
「き、綺麗……?」
「冗談だよ」
「……余計な一言だったと思うよ、それ」
「あ、そうか」
言われなければ気付かなかったのか、申し訳なさそうに彼の眉が下がる。口元は笑ったままだ。
立ち上がると座ったままの彼に背を向けて、真実は歩き出した。
「もう教室に戻るの?」
その声に残念がっている様子はない。彼にとって真実がここにいるかどうかは、大きな問題ではないのだ。言うなれば、一枚の葉っぱがここに落ちているかどうか程度の問題。
勝手にそう思って勝手に悔しがって、真実は司に見えないように自嘲する。心を落ち着かせてから、扉を開いた。
「……違う。のど渇いたから、飲み物買いに行ってくる。あなたにも、なにか買ってきてあげる」
「それは嬉しいな、ありがとう」
扉が閉じたのを見届けると、司はすっと立つ。フェンスに寄りかかって、空を見上げた。広がる青空、自己主張の激しい太陽。
目を細め、ため息を落とす。それと同時に、表情までも落とした。
「……前に進んで行く、か。他人事だと好き勝手言えるけどさ、それを自分に置き換えてみると、とても難しいことだよね。僕は……進むことなんて諦めているんだから」