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(話しかけないで欲しい……関わってほしくない……。だから突き放しているのに……なんで笑って話しかけてくるんだろう)
風が、司の髪を悪戯に揺らして頬をくすぐる。屋上を囲うフェンスに寄りかかって、彼はぼんやりと空を眺めていた。
(僕はもう誰かを信じるつもりなんて無いのに。本当に……放っておいて欲しいのに)
頭に浮かぶのは、突き放しても突き放しても平然と寄ってくる柊の顔。いつだって真剣に、司と向き合う彼の声。
柊のことを考えて、司の口元がふっと緩んだ。自虐的な笑みを浮かべて、日焼けなど全くしていない白い手でフェンスをぐっと握りしめる。
(僕は、愚かだな。信じないって決めたのに、何度も何度も話しかけてくるあいつを見てると……信じて期待してしまいそうになる。……嫌なんだよ、キミの言葉に嘘も偽りも謀りも、黒い感情が何も含まれていないから……それを捻り潰さないと、信じたくなるじゃないか…)
「友達なんて、もう、欲しくないのに……」
震えた声が、風に攫われる。『友達』という自分で発した言葉に反応して、かつての友の声が頭を掠めた。
司より少し低い、そして明るい声。
『――なあツカサ、俺らほんといいコンビだよな! 相性ぴったり仲良しコンビ! 俺、お前と一緒に剣道してる時が一番楽しいよ!』
「……僕も、楽しかったのにな」
頭が痛くなりそうなほど響く彼の声に、司はぽつりと呟いた。空を眺める目が見ている景色は、きっと空ではない。ここではない、どこか。
『――お前すごいよな、大会も行けてさ、次期部長まで任されて……憧れる』
「すごくなんかない……憧れていたのは、僕のほうだったのに」
『――なあ、ツカサ』
記憶の中の彼の声が、低く、恨めしげに闇をつくる。暗く、呪うように。
「ユウト、どうしてキミは僕を」
先の言葉は、続けられなかった。続ける勇気が、今の司にはなかった。
ああ。司は思う。自分はまだ、あの過去を笑い飛ばせるほど心に余裕ができていないのだ、と。まだ、引きずっているのだ、と。
『――お前なんていなきゃよかったんだよ』
司の目が驚いたように開かれる。背中に降りかかった扉の音が、彼の肩を小さく震わせた。
振り返ると、黒曜石のような綺麗な黒髪が映る。人形のような顔立ちをした彼女の方も、司と同じ表情をしていた。桜色の唇が僅かに開いているが、声は聞こえない。
「……」
「……キミも、授業をサボろうと思って屋上に来たの?」
「……っ」
出来るだけ上手く笑って見せたつもりだった。けれどそれが彼女の目に微笑みとして映ったか不安になるほど、今の司は感傷に浸ったままだった。
そんな司に笑いかけられて、少女の顔が歪む。瞳からこぼれた涙を見間違いかと思うほど、その決壊は唐突だった。
「え、ちょっ――……大丈夫?」
こく、と、少女の首が前に傾く。頷いて、泣き顔を見せないように俯く。
「いや、大丈夫じゃないよね。ああもう……とりあえず座ろう?」
泣き止む様子のない彼女に座るよう促すと、彼女は自分の足元を見ながら歩いてフェンスに手をつく。司の隣、よりも少し離れて、彼女は床に座った。
「……教室でなにか嫌なことでもあった?」
「……」
肯定も否定も返されない。ただ静かに涙を拭う沈黙だけが返されて、司は少し気まずくなった。
「まあ、泣きたいときもあるよね、分かる分かる」
「……」
「……こういう時……どういえばいいか分からないから。不快にさせたらごめん」
暗い空気を取り去ろうとして明るく優しい声を出していた司だったが、少女が何の反応も示さないため苦笑する。慰めることすら出来ない自分を罰するように唇を噛むと、視界できれいな黒髪が揺れた。
そんなことない。そう言うように、少女が首を左右に振っていた。
「まあ、とりあえず泣き止んでよ。ゆっくりでいいから」
首肯だけが返ってきて、司はしばし黙った。少女に問いかけたいことが出来たが、それを聞いていいかどうか悩む。
沈黙が天上から降ってきて二人を覆った。意を決して、司がようやく口を開く。
「……キミさ、話せないの?」
否定して欲しかったのだが、少女はこくんと頷いた。「…へえ」とだけ返すと、気まずさが増す。
気を紛らわすように立ち上がって少し歩き出すと、袖を引かれた。振り返ると、同じように立ち上がった少女がこちらを見ていた。
「何?」
三角巾をしていない方の腕をとって、その手のひらを指でなぞり始める少女。はじめ、なにをしているのか気付かなかった。
喋れないから文字を書いているのだと気付いて、司は書かれる一文字一文字を繋げる。
『こつせつしてるの?』
骨折しているのか。そう問うていることを理解すると、つい自虐的に笑った。
「さあ、なんなんだろうね」
否定とも肯定とも取れない発言に、少女が不思議そうな目をして司を覗き込む。
何の関係もない彼女をじっと見て、関係がないからこそ吐き出してもいいかもしれないと考えた。彼女に吐き出しても、きっと彼女が他の人間に広めることは無いだろう。
喋ることが出来ないのだから、わざわざ司が溜め込み吐き出した話を噂として広めることはないという確信に近い思いが、司の堰を切った。
「僕は、さ。剣道部だったんだ。実力はこの高校で一番だとか大げさに言われたり、部長になる予定もあったんだけど……やめちゃった」
『どうして?』
「……ユウトっていう、僕にとって親友みたいなやつがいたんだ。でも……大会の前日に、ユウトは僕を階段から突き落とした」
手の平に触れる少女の指先が、強ばった。彼女の顔を見ている余裕など今の司にはなかったから、その指先からしか彼女の心情は伺えない。
吐き出しているのに、脳裏に浮かぶ光景は胸を締め付ける。今でも鮮明に思い出せる記憶が、司の声を震わせる。虚勢を張って微笑しても、その震えは隠しきれない。
「笑っちゃうよね。こっちは親友だって、信じてたのにさ。向こうはきっと、僕のことなんて目ざわりとしか思ってなかったんだよ。それで骨折して、大会は当然出ることができなくて……部活も、やめなきゃならなくなった」
字は、何も書かれない。ただ、手の平の上をさ迷っていた。何も聞かれずとも、何も問われずとも、司は続ける。一度流れ出した思いは、止まらない。
「やめたくなかったんだけどさ……動かないんだよ、医者は治ったって言ってるのに。もう……竹刀を振るえないんだ。骨折してから一年経っても、僕の手は感覚すら失ったまま」
自分はうまく笑えているだろうか。自分はうまく、淡々とした声を発せられているだろうか。自分はうまく繕えているだろうか。
そんなことで埋め尽くされる思考。榎戸司という人間は冷静で冷然としてなければいけない――そんな、いつの間にか貼られていたレッテルを司は剥がせない。
こんな名も知らぬ少女の前でさえ、司は偽り続けた榎戸司でなければいけない。
なにをされても何を言われても毒を吐き嘲笑し、傷付くことなく涼しい顔をする。そんな榎戸司は、ここで過去を吐き出すと同時に感情を取り乱してはいけなかった。
「そんな僕にさ、みんな言うんだ。本当はもう治ってるんじゃないか、とか、初めから骨折なんて嘘で、プレッシャーに負けただけだろ、とかね。色んな人が、僕を白い目で見るようになった」
そうだ、嗤え。世界を馬鹿にするように、憐れむように。全てを、わらえ。
心とは反対に、司はただひたすら自分を嘲笑う。自分を自分で罰する。どこか引きつった笑みは、記憶の中の自分を哂う。
少女の指がようやく動いた。数文字書かれて、その先が察せられると司は最後まで待たず首を横に振る。
「――違うよ。別に僕は、いじめられているわけでもそれから逃げる為にここに来ているわけでもない。……罪悪感を抱く時間を……減らしたいから」
繕われた偽りが、小さく破けた。
司の弱々しい声に、少女が心配するような目を寄越す。宝石のようなそれに吸い込まれて、司は息を呑んだ。
純粋で素直で、綺麗な瞳。偽りとは無縁に見える、けれどなにかに怯えた瞳。それを見つめて、司は自分が本当に馬鹿馬鹿しく思えてきた。
「もういいや」ぽつりと落とすと、表情から、体から、すっと力を抜く。
「僕に関わろうとする奴らから逃げてるって言うのが正しいかな。もう友達なんて作りたくないし、信じたくないから、自分から離れて行ってくれるように口から毒を吐いてるんだけど……だんだん嫌になってくるんだよね。毒づいて、傷ついた人の顔を見て……もう、やめたくなる。完全に無視してしまえばいいのに、それも出来ないんだ」
どうせ今だけの関係。今話すだけの、きっとこの先会うことすらないであろう少女。
彼女に対して心の底からの弱音を吐き出すと、少しだけ気分が良かった。
弱々しく、けれどどこか美しい笑みが司の顔に広がる。
「この世界は残酷だよね。誰もがどこかで苦しんでいる。強い人間はきっと、その苦しみを乗り越えて生きていくんだろうけど……弱い人間はどうすると思う?」
分からない。彼女の首が左右に振られる。司の手が彼女の手を優しく振り払った。
自然な動作で空を仰ぐ。その手は、フェンスにかけられる。ぐっと力を込めると、上履きを履いた足がフェンスに乗っかった。
「――僕なら潔く、生きることをやめるさ」
器用に、フェンスの上に立ってみせる。泡沫のような笑顔が相まって、嘘のような光景だった。手を伸ばしたら司が落ちて行って消えてしまいそうな、鏡花水月と表すに相応しい光景。
「……め、だよ……」
ソプラノの声が風に乗って耳をくすぐった。司がそれに動揺を示す前に、ぐっと引かれた体は抗えず屋上へ倒れ込みそうになる。
なんとかこらえて地面に足をつくが、ぐらりと揺れた少女に押されて背をフェンスに打ち付けた。
「キミ、声……」
「死んだら……駄目……っ!」
潤んだ瞳からはすぐに雫がこぼれ落ちる。司にしがみついて小さく震える少女をぼうっと見下ろす。ただ、彼女の声が鈴の音のようで綺麗だったなと、ぼんやり考えた。
泣き止まない少女を落ち着かせようと左手を彼女の背へ伸ばしかけ、触れさえせずにすっと元の位置へ戻した。
震える体を抱き締めてやれる両手は、司にはなかった。