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「パパ、はやくママとかえってきて! ほんとうにもえてるの…! おねがい、いそいで!」
悲痛な声を上げながら、震える手で受話器を握り締める幼い少女。彼女は叫ぶように言うと、大きな音を立てて受話器を置いた。
胸に手を当て早鐘を落ち着かせながら、ふうと息を吐き出す。不安げな顔にうっすらと笑みを浮かべ、リビングの方へ歩き出す。
日ごろから掃除や整頓がされているような、綺麗なリビング。若草色のソファに飛び乗って、少女はうっとりとしたような目で、テーブルに置かれているケーキを眺めた。
『パパ ママ おたんじょうびおめでとう』
少し不恰好なケーキの上のチョコレートには、ホワイトチョコレートのペンでそう書かれていた。
「これなら、かえってきてくれるよね……」
ソファの上で体育座りをして、少女は自分の膝に顔をうずめる。疲れたのか、その目は眠たげだ。
「せっかく二人のために頑張ってケーキつくったんだもん、はやく見てもらいたいなあ……よろこんでくれるかなあ…?」
彼女以外誰もいない室内に、ぽつりぽつりと独り言が落とされる。返される言葉はなくとも、落とされる独り言は止まない。
「……まだかなぁ……もう少しかかるのかな……。はやく……ほめてもらいたいなぁ…」
かくっ、と、少女の首が傾く。それにつられるように、体がソファに横たわった。
少女は夢と現の中、室内に響く時計の針の音だけをぼんやりと聞いていた。
……………
靴を下駄箱に入れて、上履きに履き替える。スムーズな手つきでその行為をしながら、和泉愛歌は少し茶色がかった長い髪を邪魔そうに払った。
「それでね、ミホってば寝ぼけてて先生にハゲって言っちゃったの。そこからクラスのみんな大爆笑! 先生すっごく怒っちゃって、授業どころじゃなかったんだよー」
語る声はその時のことを思い出してか、笑いをこらえているように思われる。当然、一人で騒いでいるわけではなく話し相手が彼女にもいるのだが、相槌すら打たれない。
愛歌は一人、続けた。
「で、先生ってば、自分の頭指さしてかっこよく言ったの。髪ってのは神様で、先生は神様がいなくても幸せに生きていける人間なんだ、って! その時の先生、頭に光が差してかっこよく見えたなあ」
返されるのは沈黙だけ。普通の人なら暗い顔を浮かべるか、何も言わない話し相手を非難するだろう。
しかし全く意に介した様子はなく、愛歌の表情は楽しげだ。太陽のような笑顔のまま、共に階段を上がる少女に声をかける。
肩より少し長い髪。黒曜石のように綺麗な黒をしたそれを揺らす少女――花城真実の顔は、無表情だった。
「ねぇ、そういえば宿題やってきた?」
「……」
「わたしやってくるの忘れちゃってさ……怒られるかなあ」
声は発せられないが、愛歌の問いかけに真実は首で応えた。頷くだけで、唇は全く動かない。視線はたまに愛歌へ投げかけられる。
喋らないけれど、彼女は愛歌を無視しているわけではなかった。
「でもハヅキがね、怒られない方法を教えてくれたんだ! せっかくだし、実践してみようと思うの」
階段を上り、三階の廊下へ足を踏み入れる。真実が横目で愛歌を見ると、愛歌の目が大袈裟に見張られた。どこか嬉しそうでもある。
「おっ! もしかしてマミもこの方法知りたい? ふっふっふー。よし、このアイカさまが今ここでやってやろうじゃないか!」
廊下の中心で立ち止まって、愛歌はばっと挙手をした。左手は腰あたりの位置で虚空に浮かんでいる。空気椅子ならぬ空気机のつもりなのだろう。
彼女は今、身体と声だけで自分が机から立ち教師に向かって口を開いていることを表そうとしていた。そんな彼女を一瞥してから、真実はそのまま教室へ向かう。
「先生! 宿題忘れました! なぜかって…? 先生も昨日のあの事件は知っているでしょう……わたしはそれを解決に導くため、魔人クサイナーと戦っていたからなのです! そう、わたしの正体は……ごほん。はじけるクサヤの香り……魔女っ子クサーヤー! いーぇい!」
キリッ、と決めポーズをした直後、愛歌の意識は架空の教室から廊下へと戻ってきた。同学年の生徒達からすごい目線を浴びながらも、きょろきょろと動く瞳が探すのはもちろん真実の姿だ。
あれ、と呟いて前方に視線を戻し、真実が教室に入って行くのをしかと捉える。今更恥ずかしくなって、愛歌は駆け出した。
「ちょっとマミ!! 置いてかないでよぉおおおお!!」
◆
目の前を駆けて行った和泉愛歌を視線で追って、加上柊はつい会話から意識が逸れる。「だからさぁ」そう続ける友人の声に、なにが『だから』なのか思い出すまでしばし時間がかかった。
「あんなやつもうほっとけって! なんでシュウがいつまでもあいつに優しくしてやんのか、俺には理解出来ねえ」
そうだ。同じ剣道部で友人である高峰充が、相も変わらず『彼』の愚痴を吐いていたのだった。放っておけという言葉を聞くのは何度目だろうか。それを聞く度、柊は少しだけ唇を噛み締める癖がついてきているような気がした。
「別に俺が好きでやってることなんだから、ミツルはほっといてくれよ。お前があいつのこと嫌う理由も分かるけど……あいつだって辛いんだ」
放っておけ。その言葉を、柊にとって癪に障るその言葉を、無意識のうちに返す。けれど充は話の前半には興味を示さなかったようだ。つまらなそうだった彼の顔が、不愉快だと言いたげに歪む。
「辛いって、お前、あいつの手のこと信じてんのかよ?」
「あいつに嘘を吐く理由はないだろ?」
「あるね。だってあいつは――」
『あいつ』『あいつ』。充は嫌悪感から、柊は何の意識もなく、『彼』の名を一度も呼んでいなかった。にもかかわらず、その当事者の登場は二人の会話をぴたりと止めた。
悪口を言っていた訳では無いのに罪悪感にかられて、柊は唇を結んだ。教室に向かって歩く彼は、充のことも柊のことも一切気にしていない。
目をやることも声をかけることもなく、彼は二人の前を通り過ぎて教室に入る。はずだった。
「っ……!」
彼――榎戸司は、右半身を庇うように左肩から床へ着いた。持っていた鞄は彼の傍に転がる。
突然のことに動揺して、柊は心配するように司をじっと見た。三角巾を巻かれた司の右腕は、どうやらなんともないようだ。
「あーわりぃー気付かなかったー」
「ツカサ、大丈夫か!? …ミツル、お前何してるんだ!」
司に駆け寄って、柊は充を睨め上げる。すっと下ろされる充の右足が、司の足を引っ掛けたことを語っていた。
咎める声に小さな舌打ちを漏らす充。彼の嫌悪に塗れた目は真っ直ぐ司を貫く。
「またそうやって甘やかすのかよ。どうせ手が動かないなんて嘘なんだ。ほっときゃあ自分で立つだろ? なあ、ツカサくん」
鼻で笑うと、立つために体の向きを変えながら僅かに肩を震わせている司を見下ろす。嘲笑うような視線で司を突き刺す充に、再び柊の怒号が飛んだ。
「だから、ツカサに嘘を吐く理由はないって言ってるだろ!! ……ツカサ、立てるか? 手、貸したほうが」
「――やめてよ」
差し伸べた手は、拒絶された。音が響くほどの勢いで柊の手を払い、司は一人でゆっくり立ち上がる。
「相変わらず脳みそお花畑だね。僕はキミみたいなやつ大嫌いだって何度も言ってるじゃないか。関わらないでよ」
司の端正な顔立ちには軽蔑の色が塗られていた。吐き捨てるような言葉に、充が眉を吊り上げる。彼が狼だったなら唸り声を上げていただろう。
「テメェ……」
「嫌いでもいい。俺はお前のこと、友達だって思ってるからな。友達に手を差し伸べないやつはいない」
掴みかかりそうな勢いの充の前に、柊の腕が伸びた。片手で制される充だが、彼はきっと我慢に限界が来たら柊の手さえ退かして駆け出す。それくらい、彼は苛立っていた。
どこか殺気立った空気の中、深いため息が落とされる。
「本当に好きだね綺麗事。吐き気がするほど気持ち悪くてそれを聞いてる僕の耳が腐り落ちそうだよ。ああ、それともそれが目的? 知っているかい? 垢と嘘と偽善に塗れた言葉なんて、他人を腐らせる毒でしかないんだ」
淡々と、けれど明らかな苛立ちを含んで、間に言葉を挟む隙すら与えないまま司は言い切った。
朝のホームルーム前の廊下だからと言って、人通りが少ないわけでは決してない。むしろ登校してくる生徒が多い中、この三人の光景は見世物のようになっていた。暴力沙汰になれば確実に野次馬が教師を呼びに行くだろう。
そんな野次馬の姿など、三人の目には入っていない。柊は司から視線を外すことなく、嫌な顔一つ浮かべず、開口した。
「ツカサ、俺は綺麗事を言ってるつもりなんて」
「――というかさ、キミの声を聞いているだけで不愉快なんだよね。他の人には人間の声に聞こえても、僕には潰れた蛙がわめいているようにしか聞えないんだ。ごめんね」
心のこもっていない言葉が通常よりも早口で紡がれる。早口言葉という程ではないが、優しく人に聞かせるような言葉とはかけ離れたものだ。それは言われた側でない充が舌を打つほど心無い言葉だった。
「あー、もう我慢できねえ……。テメェ調子乗ってんじゃねえよ」
一歩前に出ようとした充を、柊が押しとどめようとした。それは叶わず、充の手が司の胸ぐらを掴む。
司の口元はうっすらと弧を描いている。余裕だと言ってみせるその笑みが、充の目を更に憤らせていた。司は動じることなくただ挑発を返す。
「あー、もう鬱陶しいな。金魚のフン風情が触らないでくれるかな。いや、違うか。蛙の足にひっついた海草かコケかな?」
「誰がワカメだって…!?」
「残念ながらそんな高級食材に例えてやった覚えはない」
え? という顔を、一瞬会話を聞いていた誰もが浮かべた。空気が固まったような感覚から、すぐに充が動き出す。その拳はぐっと固められた。
「ハッ……ここをテメェの墓場にしてやる!」
「ミツル! ツカサも、もうやめてくれよ!」
「なんなのキミら。少年漫画とかヒーローものの見すぎなんじゃないの? 反吐が出るを通り越して吐血しそうだよ」
本当にうんざりしたような、迷惑そうな目が腕時計に落とされる。司は時間を見て、長い息を吐いた。
「ああ大好きだよ…ヒーローもの!!」
「聞いてないし僕の脳みそに無駄知識を植付けないでくれ海草。不快指数の上昇が止まらないから早く立ち去ってよ。爆発させる気?」
「もとはと言えばテメェのせいだろ! 優しい優しいシュウがテメェに手を差し伸べてやってんのに、テメェが――」
司の目の奥の色が、変わった。呆れや拒絶、軽蔑の色ではない。名状し難い、どこか深い闇のような色をしていた。きっとその色に、正式名称はないのだろう。
「なにそれ。善意の押し付けほどむかつくものってないよね。助けてとか一言も言ってないし………キミらは泣いた赤鬼でも演じているのかい? キミが僕を転ばせてそっちの蛙が僕を助け、正義のヒーローのレッテルを貼ることが出来るように仕組んでいる……。
僕はさ、一番の悪は赤鬼だと思うんだよね。いくら後で助けるからって、村人達に一度恐怖を植え付けるんだから。それで青鬼まで苦しめてさ、あいつは何がしたいんだろう。自分さえ良ければいい……そんな奴、嫌いだ」
静かな狂気を孕んだような声に、研ぎ澄まされた凶器のような瞳に、柊も充も唾を飲んだ。石化させられたかのごとく、固まった手足が動かない。
司が鞄を拾って歩き出したのは教室の方ではなかった。柊たちの横を平然と通り過ぎる。
彼の姿が視界から完全に消えた時、柊はようやくはっとした。
「おいツカサ! 待てよ!!」
走り出したい気持ちに怯えていた体が追いつかず、柊は転びそうになりながらも司を追いかけた。充は追うことも柊を引き止めることもせず、ぎりと奥歯を噛み締めた。
憎々しげに目を吊り上げて、ぶつぶつと喋りながら教室に戻る。呟く内容は声が小さすぎて、誰にも聞こえていなかった。いや、声は大きかったのかもしれない。けれど、野次馬は誰も残された一人の方など気にしていなかった。
「あいつがいなければ良かったんだ。はじめから…あいつがいなければ、俺らの高校であんな大会に出ることは無かったのに。ほんと、なんなんだよあいつ。骨折して、竹刀を振るえなくなって……なんで代わりに俺が出なきゃいけなくなったんだよ…。あいつがいなければ……俺が恥をかくことだって無かったのに…!」
*一部修正しました。