侵入スネーク ~人間サイド~
「どうしたの、田町さん」
初夏の暖かな風の吹き抜ける窓辺で、少女―――田町野乃花は座っていた。
背後から突然声をかけられて、思わず背筋がピンと張る。まだ半分くらいぼんやりした状態で振り返ると、同輩の少女、碧流砂都月が心配そうにこちらをのぞき込んでいる。彼女は同じ大学に所属し、学部もコースも同じで、いくらか気心の知れた仲であった。
「びっくりした、何、突然」
「いや、田町さん、いつになくぼうっとしてたものだから、つい」
「そうかしら」
自覚がなかったが、どうやらぼんやりしていたらしい。この時期は気温的にも過ごしやすいから、ついつい気が抜けがちだ。
「転校生のことを考えていたの」
「転校生?そういえば新しく三人も来たって聞いたけど…何か引っかかるの?」
「いや、珍しいなって思っただけよ」
大学に転入生。本来なら珍しくもない話だが、この学び舎はそれとはちょっと訳が違うのであった。
三鎖大学校というご立派な名前をいただくこの大学は、いわゆる普通の大学ではない。
学業ももちろんのこと、特殊な技術を学ぶ場所であった。
表立っては風当たりのいい風を装っているが、その実情はひどく人間のエゴ、恐怖に支配された虚ろで暗い空間。中枢部の者たちが外部の人間を招き入れることにやたら酷く怯えているため、編入など一度も聞いたことがなかったのだ。
それが急に、三人も来るとなると、いったいどんなつてがあったのか、果たして裏金でもまわっていたのか、とにかく悪い想像しか出来ない。
入学したが運の尽き。死ぬまで囚われる。
そんな言葉をどこかで聞いた気もする。今はまだよく分からないが、とりあえず学内の空気が異常であることだけはよく分かった。
「そのうち二人はこっちの特待生、一人はあの心理学科だって言うし、怪しいわ」
「そうだね…野乃花ちゃん、話しかけてみたらどう」
「…そうね」
野乃花はため息交じりにうなづいた。
大学の中は、ドラマや漫画の世界のような私立のお嬢様高校のようにきらびやかで、大学にしては珍しい制服姿があちこちに見受けられた。一風変わった出で立ちの制服もまた、この学校の異常さを物語っている。休憩スペースを出てすぐの廊下の隅には、恐ろしい蛇の彫刻がこちらを睨むようにして置いてあって、この学校が存在する意義を静かに語りかけてくるのであった。
あの転校生は今どこにいるだろう。今日一日の授業は終わったし、寮で引っ越し荷物の片付けでもしているころだろうか。
寮は大学のすぐ近くにある。体にたまった一日の疲れを無理やり忘れるように、野乃花は早足で寮のある方向へ向かっていた。自身も、棟こそ違うが寮の人間である。
「声だけかけて、話はまた今度ゆっくりすればいいよね」
本当はきっちり事情を掴みたいところだが、引っ越し後で忙しいだろう編入生らにはいささか失礼である。そもそもまだ会ったことがないし、いきなり長話をするのはどこか気が引ける。
寮の前まで来ると、お馴染みの仰々しい門が待ち構えていた。
警備システムに関して言えば完璧で、蛇一匹たりとも侵入を許さない、安全な場所だ。そもそもここが女子大だから、より警備には力が入る。
とはいえ野乃花はここの寮生であって、学生証をかざせばすぐに入館が許可された。
女子寮からはどことなくいい香りがする。警備システムだけでなく、設備もかなり金がかかっているだろうことは、建物を見れば簡単に予想のつくことだった。
寮室の扉の横にはネームプレートが張ってあるから、編入生の部屋はすぐに見つかる。
だんだん暗くなり始めた空から吹く生暖かい風に身震いする。
…なんだかとても気持ち悪い気がした。何とも表現しがたいが、扉の向こうが冷たい。本当にここに誰か住んでいるのだろうか。扉を開けた瞬間、暗闇に引きずり込まれたりしないだろうか。悪いものがいやしないだろうか。いつもは絶対に感じることのない悪寒が、直感に何かを訴えている気がした。
「…いや、でもそんな変なものがここに入り込めるはずがない。ここは閉ざされているんだから」
自分に強く言い聞かせる。インターホンを押せば済むことだ。あとは流れに任せればいい。
ピンポーン
場の雰囲気にそぐわずやたら明るい音が響いた。逃げる準備は出来ている。カバンが落ちないように手で掴んで、階段の手すりにもう片方の手を置いた。
「…はい?」
そっと開いた扉から顔を覗かせたのは、何ともない、普通の人間の女の子だった。
チェーンがかかっているためよくは見えないが、夜の闇のような深い黒の髪をサイドだけ長くしている。まっすぐで切れるような視線を感じた。精巧に作られた人形のように綺麗な顔立ちをしている。
なんだ、心配することなかったじゃないか。普通の女の子だ。
吸い込んでいた空気を一気に吐き出すと、たたずまいをきちんと正して向き直る。
「あの、実践学部の二年の田町っていうんだけど」
名乗ると、しばらくその少女は考え込んでいるようだったが、やがてドアのチェーンを外してくれた。
「田町さん…ですか。急にどうしました」
「いや、珍しく編入生が来たって聞いたから、気になって声をかけようと思ったんだけど。邪魔じゃなかったかしら」
「いえ、片付けも終わりましたし、丁度退屈していたところです。私というか、他の子が、ですけれど」
丁寧な物腰で、彼女はそっと扉を開き、部屋の方を指した。
可愛らしいデザインの電球の光が、余すことなく部屋全体を照らしている。一人部屋ではなく、確か一室しかない三人部屋だった。広い空間に、蛇のクッションが置いてあって、そこで二人の少女が座ったり寝転んだりしてくつろいでいるのが見えた。
黒髪の女の子が呼びかけると、すぐに飛んできたのは、茶髪の髪を二つに結った、可愛らしい女の子。子供のように純粋な瞳で、興味津々といった様子で野乃花を見つめ、この人誰?と聞く。
「実践学部の同学年の、田町さんというそうです。心配して声をかけてくださったそうですよ。せっかくですし、同じ学部の縁もある君からも挨拶をしたらいかがです」
この黒髪の子、ルームメイトにすらも敬語を使うのか。変わった子だ。
茶髪の女の子が、同じ学部と聞いて目を輝かせた。
「私も実践学部なの!えっと、東花が心理で、くりりんが実践で」
「あ、ちょっと待って、私まだ名前とか把握してないわ」
初対面だから、誰が誰なのか分からない。軽く事情を話すと、黒髪の女の子はなるほどと頷いて、部屋に入るよう促してきた。もう扉を開ける前の不快感はない。普通の女の子たちだと分かった野乃花は、じゃあちょっとだけ、とお邪魔することにした。
「初めましてになるのかな。改めて、私の名前は蛇之目東花です。心理学科所属になります。学科は違いますが、これも何かのご縁ですし、以後お見知り置きを」
黒髪の子、蛇之目東花は相変わらずクールに自己紹介をした。
心理学科。わけあって、この三鎖大学校における、唯一異色を放つ学科である。
「私は、知っての通り、この学校のアイドル!蛇園りんごでぇす!!」
知らない。
そして一番最後にゆっくり口を開いたのは、これまた美しい、金髪に近い薄い茶色の髪を腰までウェーブさせたおしとやかな少女だった。
「私は三蛇栗子。さっきりんごちゃんが言ってたくりりんっていうのは私のことよ。同じく実践学部。よろしくね」
三人とも自己紹介が終わったところで、東花がすっと頭を下げてきた。
「こちらから挨拶に伺うべきところを、申し訳ありませんでした、わざわざ出向いていただいてしまって」
そのあまりにもかしこまった態度に、野乃花は自分が悪いことをした気分になってしまった。負けじと頭を下げ、
「いや、こちらこそ、日を改めるべきだったわね、こんな時間に来てしまって申し訳ないわ」
「いいんですよ、さっきも言った通り、時間を持て余すばかりで何の楽しみもありませんでしたから」
東花がちらりとりんごに目を向ける。
「りんごは悪いことしてないもんっ」
したようだ。
すっと視線を戻した東花が、何か思いついたように口元を緩めた。
「りんごと言えば、そうだ田町さん。桃の缶詰があるんですが、四つありますので一ついかがです、今回のお詫びも含めて」
「え、悪いわよ」
と言いながら桃好きの野乃花の口元は嘘をつけない。
「遠慮なさらず。お嫌いでなければ是非」
断り切れず、帰ってから食べようと、カバンに缶詰を詰め込んだ。
他の三人はその場で残りの缶詰を開け、腹の減った獣のように口の中に流し込んでしまっている。ジュースでも飲むみたいに、ほとんど噛まずに飲み干してしまったようだ。
(みんな大食いなのね…)
至福の表情で床に転がりだすりんごを尻目に、栗子が後片付けをしにキッチンまで歩いて行った。
「すいません、お茶の一つも出せればよかったんですけれど」
相変わらず申し訳なさそうに東花がこちらを見つめてきた。
「いいのよ、引っ越し後で色々忙しいでしょう。長居するつもりはないし、気にしないで」
野乃花は改めて部屋を見渡した。
三人部屋というだけあって相当広い。寝室は奥の扉からつながっているに違いない。
りんごが抱いている蛇のクッションがもう一つ、棚の上に置いてある。
誰の趣味なのか分からないが、とりあえず愛らしいデザインの蛇グッズがあちらこちらで部屋を飾っているのが見えた。
このご時世に蛇グッズを収集するのはかなり珍しい気がしたが、まあそんな変わり者なら探せばどこにでもいる。
ただ一つ不思議なことがあると言えば、調理器具やお皿が一切見当たらないということだ。寮ではきちんと料理が出されるが、少なくともポットやコップ、ケーキ皿、スプーンやフォークくらい置いてあってもおかしくない。
(まあまだ引っ越してばかりだし、これから揃えていくのかも)
生活感に微妙に欠けた部屋を見回していると、不意に後ろから声をかけられた。
「田町さんは」
はっとして振り返ると、床に手をついてこちらを見つめる東花の姿があった。
さっきまで前に座ってたのに。
…何の気配もなかったのに。
自分がこうやって部屋を見回しているうちに移動するなんて、普通気づかれるのに。
忍びよる影のように現れた東花に、一瞬息が詰まる。
というか距離が近い。お互いの息を感じるくらいの距離に東花の顔がある。
試すようにじりじりと近づいてくる東花から後ずさりして逃げつつ、やっとのことで野乃花は言葉を紡いだ。
「私が…何」
動きを止めることなく、東花は音もなく四つん這いでするするとこちらへやってきた。壁際まで追い詰めたところで、
「実践学部の…特待生でしたっけ?」
「え?…そう、だけど、それが何よ」
「…蛇は嫌いですか?」
真顔で、平坦な声で東花が聞いてきたのは、よく意図の分からない質問だった。
「嫌いも何も…ここがどういうところか分かっているでしょ」
気圧されないように強めの語調で返す。
「そうですね。蛇を消すために、そのためだけに生きている。そういう生き方を強制する場所、といったところでしょうか」
その言葉にごくりと唾を飲む。
まさに…その通りだ。
野乃花の表情の変化を楽しむように東花の目の光がギラリと揺れる。
「ではもう少し簡単に聞きましょう」
耳元まで東花の顔が迫る。
野乃花は背筋が寒くなり、目を閉じて息を止めた。
「野乃花、君は…蛇が怖いか?」
……。
…怖い。
間近で東花の息を感じるうちに、ゆっくり、でも確実に、頭の中がぐるぐる回り始めた。目を細めてこちらをのぞき込む東花の姿がかろうじて見えていたのが、だんだん歪んでいき、視界が真っ暗に閉ざされていく。
(これは…夢?)
部屋の中にいたはずなのに、体にはわずかな夜風の冷たさを感じた。
意識が朦朧としてくる。
野乃花の中で、だんだん現実と夢の境界が絶たれていった。
…草の揺れる音。
霧のじっとりとした感触。
月明かりがわずかに照らす森の中で、
野乃花は美しい黒い蛇を見たような気がした。