追憶~続~
父に金銭の工面を頼み込んだ次の朝、学校に登校するとすでに小揺木さんが自分の席に腰を下ろしていた。
俺が教室に入る靴音で気づいた小揺木さんは「おはよう」と手をぶんぶん振ってきた。
俺はそれを完全に無視し、彼女の隣にある自分の席についた。
「昨日は私の家でから揚げパーティーやったんだ。十五個も食べちゃったよ。いやね、やっぱから揚げおいしいね」
今日も変わらず一方的な世間話が展開される。
俺も変わらず無視を続け、視線すらも彼女に向けぬよう必死に感情を押し殺した。
声色が少しむっとしたのがわかる。
彼女は早めに喋り始め、面白い話を長々と続ける。それが一時間目の休み時間、二時間目、三時間目。四時間目と連続する。
今日も昨日と同じく一日中彼女が世間話をして俺が無視する関係が維持される。
そういう状態が続き、今日も終わると思っていた。
しかし、五時間目終了後、休み時間にそれは起こった。
なおも楽しそうに家庭で起こった出来事を話していたが突然止んだのだ。
と思ったが彼女の声は消え入りそうになっただけでまだ続いていた。
そして確かに止んだ。
教室中も彼女の声が聞こえなくなったことに珍しく思ったのか静寂に染まる。
次の瞬間、俺の左の頬に衝撃が走る。
右手で頬杖をしていたため、横からの圧力でバランスを崩し床に倒れる。
始めは何をされたのかわからなかったが、鋭い痛みは左頬への平手であることがわかって、突然の痛みと驚きに小揺木さんへと目線を動かす。
今日初めて見た彼女は怒りながら涙を流していた。
初めての彼女の怒りと涙を目にして、咄嗟に俺は落ち着かせようと立ち上がる。
「三島君、無視しないでよ」
彼女に触れようとしたが、彼女の言葉で今も彼女を無視し続けなければならず、彼女に関わることも許されていないことを思い出す。
俺は伸ばしかけた手を止め、引っ込めると父と彼女どちらの思いを優先させるべきか悩み、その場に立ち尽くしたままになる。
小揺木さんは体を震わせ大粒の涙を流し、さらに何か言おうとしていた。その間、彼女は円滑に喋れなくなり、呻いたりしていた。
彼女はやっと落ち着き、鼻をすすると口を開く。
それと同時に俺は教室を飛び出し、校内を当てもなく歩き始めた。
どうせ何を言われても返答できない。文句を言われようとも俺は弁明もできない。出来ることは無視を続けることだけだ。なのに……あんな場所にいたらこちらの気が狂う。
話したい。話すことであの温かさ、安心が手に入るのなら俺はもうすべて投げ出していいんじゃないかと思う。
自分が安全な生き方をするために両親の財産に頼ること。
その交換条件に恋した人を無視し続け、彼女のおかげで手にした友達を全てないがしろにし、大切な親友でさえも殴るに至った。
俺は最低の人間だ。
己のために何もかも犠牲にし、不快を振りまく。
母が、俺が全てを駄目にしたと言っていたが、あの発言は正しい。
そうさ、俺は全てを駄目にし続ける。周りの連中も俺のめまぐるしい変化には疲れただろう。俺はきっと一生涯、人の優しさとは縁遠い人生を送り自身と他者の尊厳を踏みにじりながらこの生命を延長させ続ける。
そうさせるのが俺だからだ。
俺の弱さが、俺自身が全てを駄目にして、全てを傷つけ、全てを泣かせる。
母の泣き顔、小揺木さんの涙と怒り、父の憤怒、佐々木の悲しみ。過去がめまぐるしくフラッシュバックし頭痛に襲われる。呼吸が難しい。呼吸とは自発的に行うのにものすごいエネルギーがいるようだ。しかし、俺の傷つけた者たちはもっと苦しいんだろうな。
チャイムが鳴り俺は教室へと戻った。
席に着くと隣は空席になっていた。
また傷つけた。俺は壊すことしか出来ないのか。
ぼんやりした気分と後悔の中、授業は淡々とこなされていくが俺は何も聞いていなかった。こんなくだらないことで授業に集中できない。ましてや放棄するなんて地球上に俺一人なんじゃないか。
ふとそんなことを思っていると教室には朱色の光線が窓を通り抜け満たし、周囲に人の姿はなかった。
徐々に沈む陽。時間は放課後。
隣を傍観し続けたが空席は保たれたままだった。
授業中に誰かが言った小声で小揺木さんが早退したことは知っていた。それでも俺は彼女が戻って来るんじゃないかと淡い期待を持っていた。
もし戻ってくれば、彼女が去ったことによる罪悪感が少しでも緩和する。俺はそれだけのために今もここに残っている。
なんて馬鹿らしいんだ。帰ろうか。
でもいい。やっと彼女も見限ってくれた。これで何も気にすることのない平穏な日常が帰ってくる。
机の横にかけた鞄を手に立ち上がる。と同時に教室の扉が開く音が俺の耳に届く。
期待し、出入り口に目を向けたが、そこには佐々木が陣取っていた。
「どうしたよ、もの思いにふけって。夕暮れの教室で一人黄昏ちゅうかい?大層なご身分だな」
「お前も人のこと言えるのか。サッカー部引退して暇なんだろ。予備校にでも行って勉強してきたらどうだ」
佐々木は扉を支えにすることを止め、こちらに向かって数歩踏み出した。
俺はそれと反対に教室を出ようとする。
「話したいことがあってよ。昨日、お前にしちまった話なんだけどさ…実は嘘ってことでよろしく」
昨日の続きらしい。俺は立ち止まる。
「……嘘か。あれ作り話ってことか…お前才能あるよ」
そう言いながらも佐々木の表情は暗く、ぎこちない。今の発言が嘘であることは容易に推測できた。
これはまた相談タイムだろうな。
俺は近くにあった机に腰掛ける。
しばらく沈黙が両者の隙間を埋めていたが無言に耐えかねたのか佐々木はため息をつく。
「やっぱばれてるよな……ああそうだよ、昨日言ったことは本当だ。でももういいんだ。俺にサッカー選手にならないかって誘いが来たんだ。親父にはサッカーは趣味の範囲までにしとけって言われたけどこの際だ。つぶしはきかない職業だけどこれで妹は救えると思う。急に百万とか無理言って悪かったな。忘れてくれ」
「へえ、佐々木すごいな。ほっといても才能がある奴には神様って微笑むもんなんだな。せっかく百万の話を父さんにつけてやったのに。あの緊張感は何のためにあったんだ」
佐々木は目を丸くし俺に詰め寄る
「お前……マジで親父から百万借りられそうだったの。どこの政治家の息子だよ」
「すごいのは父さんだよ。俺は頼み込んだだけだよ」
そうだ。俺は何も佐々木に与えちゃいない。俺だって父に頼っている。この衣服も、鞄も高校に通う権利だって全て父のものだ。父が一言、俺から奪うと告げれば俺には何も残らない。佐々木に協力することで自分の立場を再確認し、惨めさが今の現状とともに心を締め付ける。
「準備してくれたのに悪いな。でもホントにありがとうな。でも、そんなに友達のために必死になれる強い意志を持ってるのにどうして親父の言うこと聞いて小揺木さんを無視してんだよ」
「ばれたのが原因で父さんに殴られちゃってさ……母さんが泣いたんだ。俺のせいだって。もうこれ以上、家の災いになりたくないって言ったよな。俺が父さんのいうことを聞いていれば誰も悲しまないんだ」
「……そうか。でもよ、小揺木さんとクラスの奴らは悲しんでるぜ。それはいいのかよ」
俺はうつむく。
確かに普段はにこにこしている小揺木さんを怒らせ、泣かせたことは後ろめたかった。
「友人には代用がきく………って面と向かって友達の前でいう言葉じゃないか。ごめん。だけど家族の代わりなんていないだろ。どちらを選択すると問われれば合理的に言えば家族だろ」
すると佐々木は妙に驚き、腕を組むと何か考え始める。そして何か閃いたように顔を上げる。
「そうか、お前の中では小揺木さんは友達か。てっきり付き合ってんのかと思ったわ」
「はぁ!?何だよそれ。誰だ、そんなデマ流した奴は」
気恥しくなり体温が上昇した。それと同じくして汗が背を伝う。
つい勢いよく立ち上がった。机は揺れ、教室に大きな音が広がった。
「いやあ、顔真っ赤にしちゃって。お前らの会話聞いてるともうそのまんまですよ。誰もデマを流さなくたって十分付き合ってるって判断できるぜ。それに小揺木さん、転校して来てからもう十七回も告られてんだぜ。しかも全部ふってんだ。誰かと付き合ってるとしか考えられねえだろ」
初耳の情報に俺は自分の軽率な会話がここまで周囲に筒抜けになっていることに恥ずかしくなる。さらに顔を赤くした。このクラスでは俺の知らない間にとんでもない誤解が横行していたらしい……まあ、小揺木さんのことは好きなんだが。
「違うわ。俺に彼女なんてこの人生一度もいないわ」
「えっ、それホントか。それじゃ、お前……童貞か」
「悪いかぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」
別の意味でも黙り込んだ佐々木は直後大笑いして俺の肩をたたく。
「そうかそうかいたあ、悪かった。とんでもないこと聞いちまったよ。こいつは俺の墓まで持っていく…く…くくっ……はっはっはっははは、でもマジか…ふーーーん」
「ふーーーんって…何だよ」
しかしすぐに真剣な顔に切り替えた佐々木。俺の周りの空気も真剣みを帯び、緊張が高まる。
「ここまで話したわけだが……お前、小揺木さんのこと好きなんだろ」
俺はすぐに否定しようと口を開く。その時、佐々木の目つきが幾分鋭くなる。怒りと憐憫の共存する輝きは嘘を言うことを憚るだけの圧力を与える。
「ああ、この感覚を好きって言うならそうだと思う」
「結構、難しく考えるんだな。つまり、お前は好きな女を泣かせたってことか」
「…一応…そうなるな」
「お前、最低だな。」
そうさ、俺は最低だ。諭されるまでもなく自覚している。今生きているのだって辛い。
「ごめん」
「謝る相手が違うだろ。その言葉、小揺木さんに聞かせてこいよ」
「……」
俺は黙った。沈黙が両者の間を漂う。居心地が悪いのか佐々木が追撃するように呟く。
「それで小揺木さんを好きだと考えても、お前は家族と天秤に掛けるとか言ってるわけ」
「ああ、その通りだ」
心には鬱積したような土砂の如き黒い後悔と劣等感が満たし始める。
「そうか。親父が怖くて、母親に文句言われるのが怖くて、そして自分の保身のために好きな人を泣かせたのか」
「ああ、その通りだ」
先ほどよりも声を荒げ、俺は返答した。
自分がこんなに弱いことを何度も自覚することは罪悪感を募らせ、精神を痛める行為だ。
もうやってしまったこと、過ぎたことを考えて自己嫌悪しているのは胸が締め付けられるような後悔を生むだけの自傷行為。本当に痛かった。
「もう諦めるのか」
「…じゃあ…じゃあどうすればいいんだよ。お前も何も知らない無責任な奴らと同じで立ち向かえって言うのか?俺は平和で俺の守れる範囲の中で誰も傷つかなければいいんだよ。それとも英雄みたいに頑張らなくちゃいけないのか。ほっとけよ」
自覚していた点を相手に指摘され激怒する。その時、佐々木の辛そうな顔が一層罪悪感を啓発させる。今すぐにでも前言を撤回し、謝りたい衝動に駆られる。
「あのなあ、誰の親でもそうだけど、一般的に親の方が早く死ぬんだぜ。親が死んだ後もお前はいいなりを続けて、後悔しながら生きていくのか。お前、すごく辛そうだぞ」
「ああ、もう死んじまいたいよ。それでも今まで育ててくれたんだ。裏切ることだって辛い。今まで一緒だった家族に捨てられるのが怖いんだ。父さんが怖いんだよ。母さんが恐いんだよ」
佐々木は呆れたかのようなそぶりで肩をすくめる。小馬鹿にしたように笑うと教室の出口に体を傾けた。
「ど、どこ行くんだよ。まだ話は途中だろ」
佐々木は振り返り俺を見つめる。気だるそうな眼だ。冷たい感情と憐みの光が窺える。
「お前は俺にただ愚痴を聞いて欲しいってことなのか。変わろうとなんて思ってねえじゃねえか。ただ、自分の意見に賛同してくれる奴に話を聞いてもらいたいだけだったのか。俺はそんなお人好しじゃねえぞ。アドバイスしようと思ったけどやめだ。あばよ、チキン」
俺は佐々木の背を追い教室の外へ出た。
「アドバイスって何だよ。俺の状況がどうにかなる方法があるのか」
佐々木より早いペースで走り、進路を妨害するように回り込む。佐々木は立ち止った。
「何だ。アドバイスだけ聞きたいってか。虫がよすぎねえか。お前みたいな諦めてる奴に話したって無駄なんだよ。邪魔だから退け」
「俺だって、俺だって変わりたい。もし変わる手があるなら教えてくれよ」
佐々木の肩を抱きとめ、逃がさまいと力を込め佐々木の顔色を窺う。
佐々木はそれを振り払うと面倒くさそうにうなじに右手をやり、数度掻いた。
「妹のために親父に頼み事してくれたしな…それに免じて今回はしてやるか、アドバイス」
俺は「どうすればいい」と佐々木に詰め寄る。
佐々木は溜め息をつくと目を見開き、犬歯をむき出しにして怒鳴った。
「お前が今大切だと思うことに集中しろ。全部なんて背負いきれねえ。そんなことできたらみんな幸せなんだよ。逃げてんじゃねえよ。立ち向かえ、戦え。あきらめんな。もがけよ。一時的な安息に満足してるんじゃねえ。親父が恐い、周りの評価が恐い。当り前だ。それを乗り越えねえと何にも変われねえ。守りたいもんがあるんだろ?そのためならどうなったってかまわねえだろ。覚悟決めろ。出来ないのなら死んじまえ、って感じでいいか」
父に酷似した迫力を剥き出しにした佐々木に心底驚いたが語尾にいくにつれて怒気は衰え、いつも通りの表情に戻ったところを見ると本当にアドバイスだったようだ。
「俺はいつもこいつを考えて生きてる。親父なんてぶっ殺しちまってもいいと思ってる。こんなんだからよ、俺は家じゃ厄介もんだ。将来がどうなるかもわからねえ。それでももがきゃ何か見える気がしてよ。ガキの頃から願ってた空想が現実になるんじゃねえかと期待しながら頑張ってるんだ。とにかく突っ走れば後悔しても胸を張れる。後悔までして胸を張れなきゃ生きてる価値すら忘れちまう。どこにいたって俺は強くなりてえだけだ。三島もそういう思いがあるだろ?昔の俺もお前のように言いなりだった。けれど今は違う。確かに俺もまだ親の脛かじって生きてるおこちゃまだが、もう辛くわねえ。俺は自由なんだって気づくことができたんだ。ただ自由には責任が付きまとう。三島がその責任を背負ってでも守りたいって思えるんなら、そのために突っ走ればいい。一歩を踏み出すってのは案外簡単だ。それを可能にするだけのもんをお前が見つけられたってことなんだからな。それに、あの頃一人だと思って泣いてた俺とは違ってお前はもう十分大人だ。それに仲間がいる。そいつらを頼れって!例えば目の前にいる奴とか……まあ、役に立たねえかもしれねえけど。それでも一人より楽になるぜ。俺から言えることはそれだけだ」
佐々木は恥ずかしそうに頬を人差し指で掻くと一瞬頬笑み、固まったままの俺を振り切り歩き出す。
角を曲がり玄関へと向かおうと階段を降りようとした時だった。佐々木は引き返し俺の背中に声をかけた。
「そうそう、誰が何と言おうとお前が出した結論なら間違っちゃいないはずだ。頑張れよ」
俺が身勝手なことを言ってみんな傷つけた。離れて行って当たり前だ。なのにどうしてだ…どうして他の奴らみたいに離れていかないんだ。俺なんてほっとけばいいのに……
俺の頬を温かい雫が滑り、瞳にたまったそれは溢れだした。視界はやけにぼやけ胸を刺すような息苦しさが襲う。胸というよりももっと体の深いところに沁み入った。
「あ、ありがとうな」
なるべく鼻声にならないように感謝の言葉を述べた。佐々木は満足そうに口元をゆるめると安心したように穏やかな表情になり角の向こうに消えた。数回、靴の音が響いた。
その後、沈黙が校内を満たすが続いて別の靴音が響く。
校内に残った生徒は一人もいない。
Θ
もうすぐ日が暮れる。
夕暮れから夜に切り替わる空に自らの吐息を溶かしながら、マフラーはおろか、鞄さえも放り出し人っ子ひとりいない道を俺は走った。
小揺木さんがしていた雑談の中に週に三回予備校に通っているということを聞いたのを思い出した。確か火曜と木曜、そして土曜だったはずだ。それが正しければ彼女は今そこにいるだろう。しかし、あの出来事の後だ。いるという確証はない。
なんとか予備校に辿り着くと空は真っ暗になり、いくつかの星と月が覆う。
ビルのように聳え立つそれは俺も通っている東都予備校だった。
夜の冷え込みで体が震える。しかし、帰るわけにはいかない。
予備校の入口の前にちょうどいい柱があったので、足も疲れてきたことを考慮し寄りかかった。
こうして俺は小揺木さんを待つ。その間、次第に体中に寒さが広がり、うまく動かなくなってきた。悴み始めたようだ。指先は痺れ、裂かれるような痛みと熱さがじわじわと広がる。それでも心の痛みに比べればましだろう。
早く小揺木さんに謝りたい。俺はとんでもないことをしてしまった。
好きだとかなんだとかそんな感情を抱いているのにその人を悲しませ、保身のために諦めようとしたこと。
その悲しみの分まで八つ当たりして、父の言いなりになり彼女を無視してしまった。
取り返しのつかないことだ。きっと彼女はもう俺の顔も見たくないと思っているだろう。
それでもせめて謝らせて欲しい。そして、彼女に許してもらうことでこの後ろめたさを取り払おうと考えていた浅ましい自分の最低な一面も謝りたかった。
小揺木さん、俺はこんなにも最低なのに…よく友達になったね。
寒さ以外の理由でも体が震えだす。
父には申し訳ないが俺は小揺木さんを選ぶ。彼女と話す。
高校生活で初めての禁を犯す。
それで殴られようと、罵られようとももうっきっと恐くはない。
俺は守るべきものを見つけた。振り返らない。もう後悔しない。胸を張ることができる。
俺はいつ失ったのだろう。子どもの頃はもっと未来を夢見て生まれたことを、生きることを幸せだと思っていた。そしてここ最近は何が俺を生かしているのか見当もつかない程に自分の存在と存在理由が何なのか分からず困惑していた。しかし、彼女が許し、新たな生き方を始められたら、俺はまた生きることが幸せだと思えるようになるかもしれない。
何もいらないと思って過ごしてしまった一七年間が変わるかもしれない。
時計を確認すると時刻は二十時五十分。まばらに生徒が帰宅し始めるのを横目で見送ると今日の営業が終わったことは明白だった。
小揺木さんが現れたらなんて声をかけよう。
そろそろ彼女が予備校から出てくると思うと緊張はピークに達し、下腹部を腹痛が襲う。
本番でうまく謝れるはずはない。今のうちに練習でもしておこう。
「えっと、昨日は本当にごめん……こんなんじゃ駄目だ。えーと昨日は具合が悪くて…はは、理由をでっちあげて逃げるのか。俺って最低だな。それじゃ何のために謝るんだよ」
あれこれと思案していると俺の通う高校の制服を纏う少女が予備校玄関のガラス越しに中央階段を下ってくるのが分かった。
眠そうなたれ目、通常時でも微笑んでいるように見える唇。今日は黒いタイツを着用して同じタイミングで出た他校の生徒よりもゆっくりとした動作で歩く少女。
学校指定のかばんを持つ少女は遠目からでもその独特のオーラでわかる。まぎれもなく小揺木天音であった。
ロングの茶髪をなびかせ降り立った廊下をこれまたゆっくりと歩く。
髪は空気を含んでいるかのように少し膨らんでいる。
撫でたらぞ気持ちがよいのだろうと頬が緩む。
そこで彼女に見とれ当初の目的を忘れかけていた俺がいた。
「何を見とれてるんだ。しっかり謝るんだろ」
こんな姿を見られたら謝ることはおろか一生口もきいてもらえないのではないか。
走行しているうちに時は経過し、玄関をくぐる小揺木さん。
何気なく横を向いた彼女と目が合う。
一瞬驚いた顔をして立ち止ったがむっとした表情に切り替えると前を向きそしらぬ態度で歩行を再開する。
「ちょっと、話が…」
俺は話しかけるが振り切られ、彼女は口ごもる俺が存在しないかのように無視していた。
そのあとを追い、俺も歩きだす。
「あの、えっと……ちょっと待ってくれ。話があるんだ。少しだから…」
後ろから声をかけるが返事はない。
彼女の歩幅は先ほどの二倍近く広がり、普段の彼女からは想像もできない速さで歩く。
下校を続けていた周囲の人たちはカップルが喧嘩したと思っているのだろう。笑われ、俺は惨めな気持ちになった。それでも仕方がないのだ。それほど俺は酷いことをした。
学校で彼女が手を出す程に怒るまで無視し続けたのだ。簡単に許してもらおうなどという甘い考えは持っていない。
ただ謝る機会も与えられず無視されるのは少し、いや結構精神的に沈んでしまう。俺は一昨日からこんな辛い仕打ちを彼女に対して働いていたのか。
「すみません、お話があるんですけど…」
彼女はなおも止まらない。
「お、お願いだから聞いてください。少しだけでいいんで」
彼女を追い越し横から窺う。
小揺木さんはこちらを見ようともせずただ黙々と歩き続ける。
そのことが自分を更に惨めにさせ、自己嫌悪がひしひしと心に広がる。
もうなりふり構っている場合じゃない。もう後悔しないと決めたはずだ。このまま彼女を引きとめられなければ、一生口を利く機会などない。だが、駄目なら諦めるしかない。
小揺木さんの数歩先に回り込むと躊躇うことなく地面に座り込んだ。
一瞬、彼女の眉が動いた。
そこから少し躊躇したが、意を決し土下座の体勢に入る。
「一昨日はごめんなさい。無視して本当にすみませんでした」
額を地べたにつけているため彼女がどのような反応を示したか分からなかったが響く足音は克明にそれを伝える。
小揺木さんは俺の横を無関心にすりぬけていった。
言葉では言い表せない黒い痛みが広がる。心の中でかろうじて、もう終ったという言葉が脳内に浮かび、生きた心地など吹き飛んだ。
駄目だったら諦めよう。そう思っていたが、無意識に体は動き小揺木さんの手を掴んで引きとめていた。
我に返りまずいことをしたと今度は別の後悔が心を包む。これを振りほどかれたらもうこの先に望みなどないだろう。なんて袋小路な選択肢を選んでしまったんだ。
手が震え始め、呼吸が止まりそうになる。自分の下した決定が重くのしかかった。
「手、冷たいね」
聞こえるか聞こえないか判断しづらいほどのか細い声で彼女が呟く。そして先ほどのつぶやきとは裏腹に怒りにまみれた表情で振り返る。
「何か御用?私のこと無視してるんじゃなかったの?」
彼女を引きとめることには成功したようだ。謝るのなら今しかないだろう。
「一昨日のことはごめん。許してくれなくていいからどうか謝らせて欲しい。本当にごめんなさい」
冬空の下、小揺木さんを引きとめるために土下座し、周囲の人間に笑われる。俺にはお似合いの展開だった。情けない話だ。彼女はきっと俺の姿を見て気持ち悪いと感じているか、惨めな存在として滑稽に映っているのだろう。恐怖で顔を上げることなど出来ない。
「もう遅いよ。私が心配した時、殴った時、謝る機会ならいくらでもあったよね。無視をやめる機会なら数えきれないくらいあった。なのにどうして今頃謝りに来るの?もと早く謝ってくれれば三島君を殴らなくて済んだし、そんな情けない格好しなくてもよかったんだよ。どうして何もかも手遅れな今頃来るの?ずっと無視してればいいじゃない。卒業までほっとけばよかったじゃない」
「それは…色々あって謝れなかったんだ……って言い訳だね。ごめん、本当にごめん」
「私は初めて人を殴ったわ。すごく痛かった。でも殴られた三島君はもっと痛かったと思う。あんなことしたくなかったのに。私はあの後ずっと後悔してたわ。それでも怒らせたのは三島君だから私が謝りに行くのって変じゃない?その間、私は何度も何度も自分のしたことを思いだして自分が嫌いになったわ。どうして、どうしてこんな気持ちにさせるのどうして痛い思いをしたりさせたりしなくちゃいけなかったの?そして仕方なかったんだってやっと割りきったのにどうして謝りに来たの?」
「ごめん…………………………ごめん」
小揺木さんは俺の手を振り払うと歩き出す。
もう終わった。何を言ったって手遅れのようだ。馬鹿みたいだ。
彼女の言うとおり、今頃のこのこやってきて謝るなんて都合がいいよな。
小揺木さんは数歩行くと突然止まりこちらを振り返る。
「今頃どうして来るのよ。本当は三島君のことなんて嫌いだったのに…許さない気でいたのに…今、私は三島君をすごく許しそうになってる。すごく悔しいわ。でももう無視しないんだって思ったら嬉しくて…嬉しくて許しそうになってるよ。なんでこんなに頭をごちゃごちゃにするの?もうわけわかんないよぉ。ねえ、どうしてなの?」
「ご、ごめん…」
「ごめん以外に何か言えないの?それに色々って何なの?私が毎日面白い話をしているのにそれを無視することぐらい重要な色々って何なのよ」
小揺木さんは泣きじゃくり、半ば叫びのような早口で言葉を紡ぐ。
また小揺木さんを泣かしてしまうなんて……俺は佐々木に一体何を教えてもらったっていうんだ。何も進歩していないじゃないか……俺は本当のことを彼女に話さなければならない。そうしなければ俺は彼女に謝ったって先には進めない。
「話す内容は重たくなるけどいい?家族のことだからあまり話したくないんだけど…それでもいいっていうなら話すよ」
小揺木さんは小さく頷く。
気は進まなかったが包み隠さず家庭の状況、父の教えを解説した。
自分で何を言ってるのか、語る内容がまとまっておらず、何を言っているのか分からなかったり、曖昧だったりする点が多かったけれど全て話した。
しばらくの沈黙。
俺は一生他人になんて知られたくなかった呪いのような生き様を語った。これを話すのは生涯で二人目、佐々木以来だ。もう隠していることなんて何もない。
彼女がどう思って何を求めていたのか分からない。それでも俺は己の弱みを全て曝した。
「それで…全部?」
少し前から吹き始めた微風にさらわれてしまいそうになるくらいの小さい反応がくる。
「これで全部だよ。もう何もない」
彼女はもう返答せず、また数十秒沈黙を守る。
「俺は何をしたらいい。腹が立つならいくらでも殴ってくれてかまわないそれ以外に俺は何もしてあげられない」
小揺木さんは俯いていた顔を勢いよく上げると涙で歪んだ顔を隠すことなく怒りを浮かべ早足でこちらに歩いてくる。
俺の目の前まで間合いを詰めると彼女は右手を振り上げる。
殴られる。俺は来るべき痛みを受け入れようとゆっくりと瞳を閉じた。しかし、痛みは一向に来ない。来る気配も感じられない。
疑問に思い目を開ける。目の前には小揺木さんが振り上げた腕を下ろし、多量の涙を頬に流し見下ろしている姿があった。
「三島君って卑屈だよね。何か理由を言えばみんな納得してくれると思ったの?三島君の事情は分かったし、大変だってこともわかったけどもう諦めてるじゃん。なんに何で謝りに来たの?それってさっき三島君が言ってた保身のため?自分は悪くない。仕方がなかったんだって逃げるための保険?三島君って打算でその都度の人付き合いかんがえてるんだね。それじゃ三島君の嫌うお父さんといっしょじゃん。それで自分は何も抵抗しないことで自分は反省してますってアピールしたいだけだよね。そういうのって心の底から謝るって意味じゃないし満足するのは三島君だけだよ。私は納得したりしないよ。三島君と私は仲良くしたい。でも三島君はお父さんが恐いからってまた無視するんでしょ。やっぱり自分のためだよね。私ともお父さんとも衝突したくないから絶対そうするでしょ。怖いからってどっちつかずで踏み出すのが恐いから中間にいようとしてる。三島君って……最低だよ」
小揺木さんの言っていることは的を射ていた。不意に苦笑してしまう。
「ああ、その通りだよ。俺は誰にも嫌われたくないから父さんを理由に友達も作らなかったし、父さんに見限られるのが恐くて言うことにも従ってきたし、自分は傷つきたくないくせに傷つく場所を選んで自分は強いと思おうともしてた。全てのことから逃げてた。将来の選択もよくわからないけど父さんを理由に逃げればいいと思った。父さんが理由だと口に出さなくても、俺のことを知っている奴らは俺が父を理由にせず、自分のことを自分で背負っているように振る舞えばみんな父さんのせいだと思いこんでくれる。そうやって自分に立場を守って全部人のせいにして、いいなりのぬるま湯で生きていこうとしていた。だけど欲しい物が出来たんだ。一人が寂しいと感じるようになった。でもそれにはすごく勇気がいるんだ。その一歩を踏み出すのも怖かった。その時、父さんがまた俺に現実から目を背けるうまい口実をくれた。俺は恥も知らずまたそのレールに乗った。でももう嫌なんだ。俺のことを本当の友達だと思ってくれる奴がいた。俺とは違う道を選んだ友がいた。佐々木は俺が欲しいと願ったけど、危険を恐れてあきらめた道にいた。あいつを見てたら悔しくて…悲しくて…それでも自分さえも偽ろうと、一生逃げようとしてた。でももう逃げたくないんだよ。どこにいたって自分は自分だと胸を張りたい。もういいなりなんて嫌なんだよ」
何回もこらえようとしたけれど駄目だった。瞳を覆う水滴は溢れる。涙は止まらず、冬空の下地べたに這いつくばって俺は泣いている。
俺はどこまで惨めなんだ。彼女もここまで人間性が欠如した穢れた人間像を垣間見たのならば、もう俺のことなど関わりも持ちたくないと思ったはずだ。
俺は小揺木さんの方へと視線を向ける。しかし、小揺木さんは涙を拭いいつの間にか普段通りの柔和な顔になっていた。
「じゃあさ…つまり、三島君は変わる為に頑張るってことだね」
俺は無気力な顔でただその言葉に頷いた。
「ああ、約束する」
「じゃあどうするの?一歩……踏み出してみる?」
俺も涙を拭う。なんだか心にたまっていた思いが消えたように体が軽くなっていた。
「そうするよ。最低な行為は今日で終わりにする。家で何があっても俺は貫きたいもののためならあきめない。もう仮初めの家族はどうでもいい」
心に乗っていた錘もなぜか消え、今まで味わったことのない清々しい心境を抱く。
「それじゃ、私は…三島君を許さないから」
なぜだ。俺が変わると言ったら、彼女はそれならば許さないと言う。逆ではないのか。
「もう三島君は最低じゃないし、八方美人でもないね。ニュー賢介って奴だね。誕生日おめでとう。でも許さないから。三島君は許したら安堵してまた逃げようとするかもしれないし…三島君がもし、また逃げようとしたら今回のことを言ってきつく怒るからね。だから絶対に許さない」
「許してくれないのか…悲しいな」
だが俺は笑っていた。そう俺は笑っているに違いない。
「明日からまたお話してくれますか。こんな俺でも…」
「…うん。してあげるよ」
「ありがとう」
小揺木さんは満面の笑みを浮かべ俺をまじまじと見つめていたがなぜかその表情は曇る。
「三島君、実は私謝らなくちゃいけないことがあるんだ」
その時、彼女がポケットに手を入れると携帯を取り出し何かを打ち込んでいく。そして打ち終わると小揺木さんは携帯の画面を俺に見せてくる。携帯画面には大きくドッキリと打ちこまれていた。
「実は今まで怒ってたのも全部演技だったんだ。三島君が無視し始めた日の夜に佐々木君が三島君には事情があって無視しているから気にするなってメールが来てね。それが何なのか佐々木君に聞いたらね…もう何って三島君がすごくかっこ悪いなと思って転校してきた時みたいに長期戦でいこうかと思ったけどやめてね。三島君チェンジ計画を強行してみました。パチパチパチパチパチパチ…」
楽しそうな小揺木とは対照的に三島は驚いて目を丸くしていた。
彼女は佐々木に何もかもを聞いて俺の事情を知りながらまだ俺を見捨てなかったってことか…だが、そうだとしたら今までの佐々木とやりとりも全て演技か。
「佐々木とグルになって俺を…」
俺を心配する佐々木が抱えるもの。その決断に俺は突き動かされ、小揺木さんとの確執も俺の変化の重要な役割の一つだった。俺が悩んでいたすべては二人の共同によるものだとしたら、俺は両者の掌の上で踊っていたということなのか。二人の良心が生んだことだとしても俺は騙されたという気持ちのほうがいく分強かった。なら、佐々木の悩みもとってつけた嘘ということなのか。今の心情を端的に表すと不快でたまらなかった。
「佐々木君がどうかしたの…?あのメール以来何もないけど」
小揺木さんは自然な動きで小首をかしげる。
小揺木さんからは焦りや罪悪感といった感情は見受けられない。どうやら、彼女はこの件と並行して起きていた佐々木の話を知らないようだ。
つまり、小揺木さんと佐々木はグルでないと証明された。
「そんなことより殴ったところまだ痛い?演技だからって殴ってごめんね」
小揺木さんは俺の頬に手を伸ばすとさすり始める。
「…本当に演技だったの?」
「そうだけど?じゃなきゃ予備校なんて来ないよ。私だったら一日中家でへこんでるよ」
まだ動揺で動悸が乱れているが安心することができた。小揺木さんの態度はすべて演技であり、俺は嫌われていないということなのか。あれほどまでに痴態をさらした俺に嫌気がさしたのではなく、立ち直らせるためにあそこまで体を張ったということなのか。
「でもさっきのことは本音だよ。昔の私みたいだったから。ついつい感情的になっちゃってね…恥ずかしいよね」
「いや、恥ずかしいとは思わないけど。むしろ、小揺木さんのおかげで俺は頑張れそうだよ。でも、小揺木さんにも俺みたいな過去があるんだね。知らなかったよ」
「まあね、話してないから。両親がいたころなんだけどね」
小揺木さんの目は今を見ているのだが、視線はどこか遠いところを見つめていた。なんだか辛そうに見える。この件についてはあまり言及しないほうがよさそうだ。
「そんなことどうでもいいや。それよりも……そろそろ立ってもらっていいかな。人の目が恥ずかしいんだけど」
彼女が頬を赤くする姿を見て、俺は今おかれた現状を思い出した。足は寒さで感覚を失い、すぐに立つという行為を実行できない。
周りを見渡すと通行人の含み笑いと興味深げな視線が生きた心地を奪い去る。
何とか立ち上がり平静を装うも、土下座の一部始終を見ていた数人の通行人はまだ振り返りにやにやしていた。
俺も顔を赤くした。小揺木さんに申し訳ないことをしてしまった。さぞかし、恥ずかしかっただろう。俺のために彼女まで恥をかいてしまった。
「ごめん、恥ずかしい思いさせて。でもこんな恥ずかしい思いまでしてなんで俺のために」
それは素朴どころではない。俺の中で最も謎であり、不可解な部分として引っかかった。
「どうしてって…どうしてだろうね。初めは三島君が私を無視しているときに悲しそうな顔をしてたからかな。昨日まで楽しそうだった人が悲しい顔してたら、誰だってどうにかしてあげたいと思うよ。それだけじゃない。佐々木君も心配してた。せっかくこの頃仲がいいのにこんなことで終わっちゃうのかなって。そして三島君も辛いのがわかったから…どうにかしたいじゃん。このまま残りの時間を過ごせば私は後悔するし。それが嫌だったから三島君に選択させようと頑張ったんだ。もし三島君が今の状況を受け入れる気だったら卒業するまでずっと干渉するのやめようかと考えてたし…そんなかっこ悪い人嫌いだから。でも今考えなおすとなんか私のためだね…結局、自分が納得したいだけだった。散々三島君のこと責めといて、私も人のこと言えないね。私、最低だ」
「そんなことないよ。俺のこと、佐々木のことを考えてくれたからこそやってくれたことなんだ。小揺木さんが何もしてくれなきゃ俺はずっと逃げてた。俺は弱い。けど小揺木さんがいてくれたから変われそうなんだ。俺だけじゃできないことだった。やっと俺は家族と向き合える。ありがとう」
「ありがとうだなんて…感謝されるほどのことしてないけど…まあ、その気持ちは受け取っておくね」
小揺木さんは感謝されたことが照れくさいのか顔を赤らめる。
ただ感謝しただけなのにそんな態度を取られるとは思わず、俺もなぜか恥ずかしくなり、目線を彼女から逸らし、空を眺める。
気づけば空には満月があらわれ、辺りを白く照らし出していた。彼女もそれを眺める。その時、今はいったい何時なのかと気になり、右手に視線を落とした。
時計は十時十五分をまわり、高校生が出歩くには少々遅い時間になっていた。小揺木さんも時計の存在を思い出し、大分焦っている。
「わあ、もうこんな時間…三島君、話はまた明日にしよ。もう帰らないとおばあちゃんが心配するから」
「そうだね。じゃあ、送ってくよ。俺のせいで遅くなったようなものだから」
すると彼女は手を前に突き出し、手首から上だけを器用に振る。
「いいよ、悪いし。家も近いから。ほら、三島君もお父さんに怒られちゃうよ」
「まだ父さんは帰ってきてないから大丈夫だよ。途中まででもいいから送らせてくれないかな。こんな真っ暗だし、危ないよ」
「でもでも…」
彼女はそれでも悪いという表情だった。だが、俺はその場から一歩も動かず返答を待ち続けた。
「わかったよ、じゃあ途中までね」
小揺木さんはそんな俺の姿を見るとしぶしぶだが了承してくれた。
俺は彼女の横に駆け足で追いつくと、一緒に歩き始める。
俺は歩幅に注意し、暗がりに目を配る。その時、小揺木さんは真剣な顔で俺を見つめていることに気付いた。
「でも三島君と一緒に帰れるなんて嬉しいな。なんだか楽しいね」
にこにこしながらこちらを見て言ったものだから、俺は顔を赤くし、にやけてしまう。なんと返答していいのかもわからないため、黙って前を向いていると突然、小揺木さんは俺の顔を覗き込んできた。
「ねっ、三島君」
急に可愛い顔が飛び込んできたことで驚き、俺の体温はさらに上昇しむせかけてしまう。
口をおさえ、なんとか耐えると小揺木さんもびっくりして大丈夫と声をかけてくる。
「何とか大丈夫だったよ。でも急に顔を近づけないで欲しいな。可愛い顔が近くにくるって経験はあまりないから緊張するからさ…むせるとは思わなかったけど」
その言葉と同時に小揺木さんも顔を赤くし、自分の行動を思い出す。
「ご、ごめんね。なんだか嬉しくて、つい。可愛いって…ありがと」
なおも頬を赤く染める少女とともに無言で闇の中を歩いていく。
何分たったのか。そろそろなにか会話をしないとまずいかな。口を開こうとする。だが、それは叶わなかった。
彼女は「この十字路を右に曲がれば家に着くよ」と言うので結局何も話せなかった。
「そう、それじゃまた明日」
彼女は、うんと頷くと俺に背を向け歩いていく。
しばらくその背中を眺めていたいという衝動に駆られ見つめていると、唐突に彼女が振り返った。
「あの…顔が腫れるといけないからしっかり冷やすんだよ。あと佐々木くんのことばらしたの内緒だからね。あとあと、えっと…明日は無視しないでね。もうさすがに嫌だからね。明日は絶対に喋ろう。絶対だよ…じゃ、じゃあね」
小揺木さんは急に頬を上気させ、潤んだ目でこちらを見つめている。本心を他人に話すのが恥ずかしかったからだろうか。そんな彼女の表情を見ているとなんだかドキドキしてしまう。
「ああ、小揺木さん…かわいいな…」
彼女の瞳を見つめぼんやりしていたため、頭で思っていたことが不意に口から出てしまった。我に返り全身をいやな汗と熱さが襲う。弁明しようとあれこれ考えていたが何も思いつかない。そして、もう遅かった。
「あ、なな。何て?何て何て何て?今何って言ったの」
小揺木さんは顔を真っ赤にし慌てふためいている。俺も失敗からの羞恥と本音がばれたことで赤くなり何も考えられなくなる。
「えっと、あの。いや満月かわいいなと思って。ちょっと時間おいてかわいいだからさ。ほら名前に直接かかってないでしょ。いや、満月かわいいなあ」
「そ、そう。満月なんだ。満月か。へえ、満月。うん私も満月は、かわいいと思うよ」
二人でバタバタとせわしない身振りを披露し、よくわからない会話のキャッチボールをする。その後、妙な沈黙を味わう両者。
疲れて息をあらくして俺はちらっと彼女を盗み見る。
小揺木さんも苦しそうな呼吸を繰り返し、顔を手で覆っている。彼女は指の間から周囲を窺う。
そして盗み見ていた俺と一瞬だけ目が合う。
「わ、わあぁ」
小揺木さんは一層赤くなり俯いてしまった。
もう黙っているわけにはいかないだろう。恥ずかしくて俺も小揺木さんも声を出すことができない。帰るなら帰るで早く事態を収拾しなくてはならない。しかし、不意に出た本音が好機に思えて訂正することが嫌になってしまった。だからと言っておいそれと告白の言葉が出るかというと難しく、結果、沈黙はなおも続く。
こんなこといつまで続けているんだ。
俺は意を決し小揺木さんを見つめる。その間目線はそらさない。
彼女は決断した俺の態度に気づき、ビクッと体を震わせると「えっ……え?」と疑問を漏らす。
「あの、あのさ、小揺木さん。俺は、あの…好きなんだ。その、何というか」
俺が話し始めることで表情をこわばらせた。
「小揺木さんが…小揺木さんが好きなんだ」
彼女は自分の名前が呼ばれて好きだと言われると消え入りそうな悲鳴を上げ唇を震わせた。
「うわぁ、わあぁ。ちょっと…嘘だよね。どうして私のことなんか。どして?」
「その、自分でもどうしてかわからない。気づいたら好きになってたんだ。何か理由付けをするなら小揺木さんに出会って初めて自分の意志で話したい人ができた。そのうち俺から避けていた人達も俺と友達になりたいって言ってきた。とても嬉しかった。それからは毎日が楽しかった。みんな当たり前だろって言ってたけど、俺にとってその当たり前が楽しくて今までの人生でないくらい毎日が充実したんだ。そんな日々をくれたのは小揺木さんだった。気づいたら俺は小揺木さんを目で追ってた。これが恋かなって思ったんだ。それから何日も経って小揺木さんの生きている姿を知りたいと思った。部活動のこと、小揺木さんが教えてくれる家での過ごし方。どれもが俺に足りないもので毎日話しを聞くだけで楽しかった。無意識のうちに小揺木さんがいないと嫌だって思うようになっていたんだ。でもやっぱりどうして好きかなんて、考えてもわからない。好きなんだ。理由なんてない」
「も、もう何も言わないで。好き好きって…恥ずかしいから。恥ずかしくて死んじゃうよ」
「ご、ごめん。なんだか口にしたら止まらなくって」
小揺木さんは赤面したまま困惑し、何か言おうと口をパクパクさせては噤み踏みとどまっていた。だが、やがて落ち着くと静かに話し始めた。依然として顔は赤いが。
「えっと、三島君の行っていることは本当なのかな。私は三島君の思ってるほど立派な人間じゃないよ。本人が一番よくわかってると思うし…」
発言の最中、俺はこみ上げてくる気持ちに逆らえず、力強く小揺木さんに反論した。
「違う。小揺木さんは地獄みたいな生活の中でもう一度生きようと思わせてくれた。幸せなんて一生わからないと思ってた。そんな人生で小揺木さんは幸せが何かを教えてくれた初めての人だったんだ。そして自ら失おうと、投げ出そうとした俺に友達も幸せも捨てなくてもいい選択を与えてくれた。小揺木さんが導いいてくれたから今も俺は生きているんだ。小揺木さんは立派だよ。それも俺の人生の中で一番偉大な人だ。他の人は口先ばかり俺の生活環境を知れば自ずと離れていった。でも小揺木さんは俺がいくら突き放しても、無視してもそばにいてくれた。見捨ててくれればどれほど楽だったか…自己嫌悪の毎日だった。それでも小揺木さんは俺と向き合ってくれたね。佐々木以外で身近に感じられた人は小揺木さんが初めてなんだ。これからもこんな日々が続いて欲しい。死にたいなんてもう思いたくない。そう感じた。今はもう失いたくないものが手に入ったんだ。だから何が言いたいかって言うと、えーと、好きなんだ。愛してる。俺と、付き合ってください」
懇願は気づかぬうちに俺をお辞儀の姿勢にしていた。
頭が重たく、目に映る景色には靄がかかっているように見えた。鼓動が早い。口内が乾く。血は全身をめぐるのに凍てつく感覚が意識を鈍くしていく。五感を麻痺させる空気。それらの錯覚は人生で経験がないほどの緊張を味わっていた証だろう。小揺木さんから何の反応もないことが気がかりでさらに風景が、地面が歪む。
顔を上げ彼女を見つめる。先程までの苦笑い、赤面とは異なり真剣そのものと感じさせる双眸が俺に向いている。頬の赤みはまだ引いていないがもう混乱している様子ではない。
「それって勘違いじゃなくて?」
「違うと思う。本当に好きなんだ」
小揺木さんはその言葉を受け止めると嬉しそうに目を細める。
「そっか嬉しいな。じゃあ、三島くんとは付き合えない」
小揺木さんは微笑んだまま因果関係がちぐはぐなことを言う。なぜそんなことをいうのだろう。咄嗟に聞き返してしまう。
「な、なんで」
「私は三島君の思ってる理想の人じゃないから。私を嫌う人は大勢いるし、三島君の言う小揺木天音は聖人みたいな人だね。私はそんな人間じゃないよ。エゴにもまみれてる。勝手な感情論を語ることもあるし、いじわるだってしちゃうこともある。三島君がその一面を見てないから立派に見えるだけだよ」
「そんなこと言ったって、俺は小揺木さんが好きだよ。きっと何か壁に直面するときがあるかもしれない。何度も考えた。それでも一緒にいてほしい。そう思ったから付き合ってほしいんだ。小揺木さんを愛してる…」
面と向かって凛とした告白を語ると小揺木さんは再びほほの赤みを取り戻し慌てだす。
「そ、そう。じゃあ、三島君は私を守れるの。私は学校の女子に嫌われてるよ。軽いけどいじめられたこともある。そんな女と付き合ったら三島君はお父さんに何かされるだろうし、学年の女子にもバカにされるかもしれないよ。今以上につらいことになると思う」
なんだって。嫌がらせだって。告白の恥ずかしさで麻痺した脳は覚め、彼女の受けたことに怒りがこみ上げる。
「なんでだよそれ。小揺木さんが何でいじめられてるの。俺はちっとも気が付かなかった。佐々木の奴、クラス内の奴と仲がいいなら俺に教えてくれてもいいのに。どうして黙ってんだよ」
「佐々木君は悪くないよ。私がお願いしたんだ。三島君には言わないでって。ただでさえ家のことで苦しい思いしてるのに私のことでも心配かけたくなかったし。友達が悩んでたら助けたいって誰でも思うじゃない。でも、たいてい行動できない。そんな不完全な形でストレスにだけはなりたくないと思うの。友達のストレスになるのなんて嫌だよ。それに嫌われる理由はわからないけどほとんどの女子は私が媚を売ってるって言ってくるよ。聞いたらたくさんの人に話しかけるかららしいよ。それが媚びているように見えるんだって。とりあえず私に本当の友達はあまりいないってことは事実だから。どう思う。嫌になるでしょ。わつぃと深くかかわると嫌な思いをするよ。小揺木天音は駄目な人間だよ」
「いや、駄目なんかじゃない。それに小揺木さんが何を言われようと俺はいつまでも味方でいるよ。もう小揺木さんが何を言ってもこの気持ちは変わらないから。俺を嫌いだというならあきらめる。でも俺のためっていうなら断らないでほしい。こんな情けなくて、自分のことばかり考えてない男でもいいっていうなら付き合ってください。俺は小揺木天音が好きです」
小揺木さんは困った顔を浮かべ、躊躇している様子だった。一層、頬を赤らめ虚空を仰ぐ。説得を繰りきりサイド告白したからだろうか。ビックリしているみたいだった。
小揺木さんを諦めるなんて嫌だ。本能に近い感情が半分以上の告白を絞り出すことを手伝う。
「これからは小揺木さんに何か降りかかったら傷つかないように守りたい。もし俺が気づかなかったら相談してほしい。一生をかけて小揺木さんを守りたい。俺のために唯一頑張ってくれた初めての女性に俺は一生を誓う。それでも駄目かな。重たすぎか」
「だから私はね。自分が――」
告白を断られることを恐れ、心配な顔をする俺の姿に気づくと彼女は話すことをやめた。
「な、何それ。私だって、私だって三島君のこと大好きだよ。一年前からずっと好きだった。好きじゃなきゃあんなにいっぱい喋らないし、こんなに悩んでないよ。クラス変わったら普通はさよならだよ。普通は。でも好きだから毎日毎日三島君のクラスに行ってたんだよ。三島君からこっちの教室来てくれたことなんてないでしょ。行かなくなったら三島君、またどうでもいいやって顔して生活するんだもんね。ほっとけるわけないよ。気づいたら私も好きになってたんだよ。好きだよ。好き。好き好き。三島君が思ってるより私は三島賢介が大好きだーー」
彼女はそう叫んだ後にため息をつくとソッポを向き背をこちらに向ける。
「もう知らない。好きにすれば…わかったよ。付き合おっかでも後悔しても知らないからね。も、もう付き合うのなしって言っても遅いからね」
振り返った小揺木さんは唇をわなわなと震わせ、耳まで真っ赤にして見つめてきた。
「三島君、私でよかったら付き合お」
彼女の発言が一瞬嘘だと思い動けなかったが、吟味すると告白が成功したと判断できた。
声にならない心の叫びがうめき声になって喉を震わす。あまりの嬉しさに拳を握り締め地面に向かい声を荒げる。
「ィエス、イエス…イエスイエスイエスイエスイエスイエスイエスイエスイエスイエスイエスイエスゥ。今日は最高だ。最高の日だよ。なんだこれ、なんなんだよこれ。嬉しすぎる。嬉しすぎるって。よっしゃ、小揺木さんが俺と付き合ってくれる。最高だ。こんな美人が俺と付き合ってくれるんだ。しかも好きだったって。なんだよもう」
俺ははしゃいでいつまでも喜んでいた。そして我に返り小揺木さんを見つめるとプルプル震えていた。口を手で覆い、必死に笑いをこらえているようだった。俺がどうかしたのと話しかけると、ついに抑えきれなくなった笑いを吹き出し大声を上げた。
「三島君、何それ。変態だよ。公道でそんな大騒ぎして変態だよ?」
「そんな、変態って。嬉しいからだよ」
俺は自分の行動を振り返り恥ずかしくなった。だがどうしても喜びは抑えきれない。彼女を見つめ安心と笑いを表に出す。
「小揺木さん、ありがとう。絶対後悔しないように守り抜く」
小揺木さんは自分の言った後悔と意味が違うと指摘しようと考えていたがそれを止め、熱がさめきらない俺にくすぐったそうな微笑みを浮かべ静かに眺める。
「これでよかったんだよね、神様」
返事はしてくれないがきっと神様も祝福してくれているだろうと小揺木は確信していた。
だって三島君があんなに幸せそうだ。
幸せが滲み出し、冬の寒さを忘れさせていた。
これは満月が見守る過去の風景。ここから全てが始まった。今の三島ならそう悟ることができる。
そこには確かに幸せがあった。しかし、時を同じくして家族との不和、自分の存在に対する虚しさ、これから始まる世界の逆風。多くの困難と壁がなおも纏わりついていた。それでも俺と小揺木さんは幸せを信じていた。ここは仮初めにしろ、偽りのない幸福があった。刹那の小さい本当の輝きのようなものだった。
しかし、仮初めは仮初めである。終わりの時は静かなエンジン音とともに近づいていた。
白い箱型の自動車が迷うことなく二人に近づいていた。二人にはエンジン音が聞こえていないのか背後に迫るそれに目を向けることはない。
白塗りの死神は減速することなく、逆に加速していった。
小揺木天音本人も気づかない、重々しく醜悪でドス黒い瘴気が彼女から吹き出す。
常人には可視することのできない避けられぬ死はその瘴気を纏い微笑む。
ガラスのオブジェのように透き通った唇を吊り上げ死は口を開いた。
「サァ、約束ノ時間ダヨ。女」
急に点灯したヘッドライトは彼女の目の前に鉄の殺人器の来訪を知らせる。
車の周りを乱れる大気が風を巻き起こし、小揺木さんの髪を舞い踊らせる。
もう避けられない。
彼女は突然の出来事に対応できず、来るべき白い死を見つめることしかできなかった。
その時、小揺木さんの前に俺は飛び出し両肩をつかむと全力で突き飛ばす。
人一人の体重はかなり重い。彼女のとなりでなおかつ本気で押さなければ車との接触事故は避けられないだろう。これで俺は死ぬかもしれない。それでもかまわなかった。絶対に守ると約束したんだ。
突き飛ばされて我に返った小揺木さんはそのまま目を見開いて俺に目線を移す。
「三島…君」
ゆっくりと時間が流れていた。
小揺木さんの目には、自分をかばって車の前に飛び出した少年と白い乗用車。そして彼女は俺が何か言っていることに気がついた。
すでに少年と自動車はゼロ距離にあるためエンジン音で何を言ったかは耳に届かない。しかし、口の動きだけでわかる。「間に合った」という無音の声。しかし、彼女は俺が何を言ったのか理解したのだろう。小声でゆっくりと俺の発言を復唱し、徐々に顔を歪めていく。
俺は全てとまでは言わないけれど、少しは彼女を守れたかな。これで終わりというのは寂しいが小揺木さんが無事ならそれもそれでいいか。
車のフロントが腰骨にめり込むとき、俺はぼんやりとそんなことを考えていた。
時は正常な活動へとその流れを再開し、世界は元通りの時を刻み始める。
倒れた小揺木の目に映った光景は恋人になったばかりの少年が白い車に吹き飛ばされ、鮮血を巻き散らし空中を滑空する姿。耳に届くのはひどい轟音と肉のつぶれる不快な旋律。金属の軋む音。ガラスやプラスチックの破片が地に散らかる際の美しきオーケストラだった。
ぐちゃという落下音を響かせた血だるまはどこを見つめるでもなく死んだ魚のような目で転がり、二、三度地面をバウンドした後に静止した。
状況を理解するにはまだ数刻必要だった。しかし、小揺木さんの叫びは反射的に辺りに広がった。
目には色褪せた景色が止め処なく流れ込み、俺の感覚は消えていった。
小揺木さんの叫び声が暗闇を切り裂いて届いた。
彼女は生きている。本当によかった。
妙な温かさの中、意識は黒い黒い闇へと落ちて行った。まるで何かに誘われるように。
Θ
彼女と過ごした日々から現在へと思いを切り替えると三島はボロボロになった瓦礫から腰を上げる。
何のために蘇ったんだ。彼女を守るためだ。あの不幸な事故のような間抜けな終わり方が嫌だったからここに戻ってきたんだろ。なのにいったい何をあきらめるというのか。小揺木さんを守れないのに生きている意味があるのか。なら逃げ出す意味などないだろう。戦うしかない。守り抜くんだ。後悔はない。彼女を失うほうが何十何万何億の後悔を生む。
脳裏に浮かべていた諦念を打ち砕き三島は下唇が切れるくらい噛みしめる。
「あきらめられるわけない。俺の幸せを祈ってくれた人に幸せを返したいんだ。こんなとこで終わってる場合じゃない。後悔しないように守り抜くんだろ。守りきれよ、三島賢介」
あの赤髪の男に勝機があるとするならば奴が使用していた異能を行使する他ないだろう。肉弾戦において、パワー、速度、能力どれをとっても劣る三島は一瞬の隙を突くことでしか勝利を勝ち取ることはできない。そう考えていた。ならば自分も発現させることに成功したあの紫をものにするしかない。彼女を助ける際に発動した紫色の波動を。
まず発動した理由を思い出そうと集中する。
思い出せ。彼女を抱えていた時に溢れ出した紫を。思い出せ。思い出すんだ。
火災で崩落した天井が二人を襲った際の記憶を引きずり出し、紫の謎を解決しようと瞳を閉じる。記憶の水底には、未熟な自分への嫌悪と理不尽な世界への怒りが沈殿していた。
きっとこれだ。
意識の世界から心を塗りつぶした紫を引っ張り出す。目を開き、右手に視線を移動させると紫炎らしき揺らめきが手首から上を覆い立ち上っていた。同時に体の調子も確かめるため全身の筋肉を引き絞る。負傷箇所はないようだ。死の具象化にも成功した。
感覚を研ぎ澄ます。晴れない砂煙の中でも確かに感じる。あの男から微弱だが胸をむかつかせる気配のカスが漂っている。吐き気を誘発するそれは冥府で嗅いだ死と同一のもの。
死を纏う赤髪の男に勝つ方法は右手に灯った具現化された死で即死させる他ない。男は自らの実力が上であるという驕りから直接は死を使用しなかったのだろう。つまりこの力は戦いを好むようなそぶりを見せていた男にとって不都合な能力である。言うなれば一瞬で戦闘を終わらせてしまう可能性を孕む兵器であることの証明だった。故に純粋な肉弾戦のみでねじ伏せてきたのだろう。ならばこの力は例外なく奴も殺めることができるはずだ。
半信半疑だ。そして立証する方法は一か八かの一発勝負。もし予想に反し男を仕留められなければ三島も小揺木も死を付与する黒色の波動の餌食になった人々と同じ末路を辿る。
呼吸を止め気配を消すと三島は下半身全体の筋肉に力を込め、限界まで前傾に倒れこむとバネのように引き絞ったエネルギーを解放し飛び上がる。貯蔵した脚力の半分以上のエネルギーを接触した地面を壊さないための筋力制御に使用し、それでも余りある力で数百メートル近い空に身を投げ出した。
砂埃を振り払い静寂と同化しながら満月の照らす夜へ脱出する。闇夜の中を泳ぐが如く地面を見下ろすとそこから遠く離れていない位置に三島の予想通りの光景が飛び込む。警戒を解いた赤髪の男が背を向け歩いていた。
上昇から落下に切り替わる間際、静止の際に紫の気を放つ右腕を突き出し、男めがけて落下する。男に気付かれるのはできれば避けたい。そう考えた時、身体にはふと異質な感覚が宿っていることが理解できた。この状態から加速することができるという不可解な確証が頭にはあった。加速の感覚、と表現すればよいのだろうか。イメージすると面白いほどに落下速度は増していく。
美しい放物線を描き、三島は指にしておよそ二本分の距離まで男に迫った。
これでこの男も終わりだろう。もう避けることはおろか反応もできないはずだ。そう判断した三島は雄叫びを上げその手を伸ばした。
勝利の方程式は完成した。成功してこの男は黒い灰になるはず――――だった。しかし、三島の体には微熱を患ったような寒気が襲う。人を殺すことへの躊躇。男に埋め込まれた恐怖。男に抱いた一瞬のためらいが極小な時の誤差を生む。そんな小数点程度の一瞬の時間のずれ。それだけで十分だった。
男は相変わらず不気味な笑顔を貼り付けたまま振り返る。その際の腰の回転を利用し拳を突き出した。
感づかれた。胸中で呟き、焦りの表情を浮かべる。モーションはこちらの方が速いはずだ。三島は自らの顔面に接近しつつある拳を避けず、指先を精一杯伸ばす。攻撃が早く到達したほうが勝利を得る。歴然とした事実だった。これ以上の手数を与えれば経験上、三島に勝ち目はない。三島の攻撃がここで決まることが勝利への必須条件となっていた。
男は拳を振り抜く間際、体勢を少々ずらす。首の位置もその動きに伴いずれる。
三島の右手は男の頬を掠めただけで、代わりに男の拳は三島の頬にめり込む。
拳の軌道通りの軌跡の延長線に三島は誘われ、左側に面したブロック塀に突っ込む。男は楽しそうに声を上げその後を追う。
「いいねぇ。立ち上がる男の勇ましさ。何度ひねり潰しても惚れ惚れする。ナイスな闇討だったけど残念だったな。そんなに殺気だしてちゃこっちも手を出さずにいられねえよ」
砂塵と火災の有毒ガスに遮られた視界の中で男は辺りを見渡し、三島の姿を探す。
男の右隣の砂煙が不自然な対流を生む。いや、対流ではなく人為的な風の流れで、三島はその激流の中心から現れる。
男は気づいたものの三島が突き出す死の手刀をいなすことに重きを置いたため、体の主軸がぶれ、片足が浮く。三島はそれを見逃さなかった。がら空きになった脇腹めがけ鋭い右足の蹴りをお見舞いする。
男は視線を三島の足に向けるだけで反応できず、見事に攻撃は決まる。胴を中心に広がる衝撃と痛みに肺の空気を吐き出しきり、苦しそうな表情で唾液を撒き散らす。次いでタバコが虚空に投げ出された。
力が抜け俯いた状態からすぐさま三島を睨みつける。めり込んだ足を腕でがっちりと抱え込む。血走らせた目とは対照に唇には薄ら笑いが浮かぶ。
「捉えたぜ。あばよ、三島ぁ」
男は右の拳を振りかぶり、また三島の顔を狙う。三島はそれと同時に捕まえられた足をせわしなく動かす。男は逃げられなまいと右手のモーションを止め三島の足を再度固定しなおす。その間も三島が体現する死に注視している。死は手首から上にしか灯っていないため手首を受け止められる、または折られれば反撃の糸口は永久に失われるだろう。ここは手刀を使用しない方法で攻撃から抜け出すほかない。
「無駄だ。抜け出そうたってそうはいかねえぞ。悪あがきはよせって」
男は両手で足を脇から抜け出せないように固定したことで満足したのか羽交い絞めが緩んだことに対しては無頓着だった。足への力が緩くなったのを見計らい、三島はその体勢から軸足だった左足を地面から離し、空中で体をひねる。両手を地に付け左足を男の側頭部に打ち込む。足が頭部に接触すると同時に男の瞳の焦点もぶれダウンしかけたが、途中ではっとしなんとか意識を保つとその足も掴む。
「あああああああああああぁああぁあぁぁぁぁぁあああぁぁああああああぁぁああぁあ」
鼓膜を劈く絶叫に三島はひるむ。男はそのままの体位の三島を抱え家屋に突進する。コンクリートの壁との激突と同時に痛みで体の力が抜ける。急加速による衝撃の増加で頑丈な三島も無防備になる。どこかへ吹き飛ぶはずだった三島の足を掴み三島を再度捕まえる。三島を掴んだままハンマー投げのように回転し、その際にかかる重力加速度で三島が受け身を取れない状態になるのを見計らって手を放す。
刹那、砂塵の向こう側に消え、数えきれないほどに響く爆音が遠方へ離れていく。攻撃が確実に決まったことの証明だった。
三島を見失なわないよう、男は三島から垂れ流される同様の禍々しさを探索し、探知する。三島が急速に移動していることが分かった。大通りに向かっているようだ。
不鮮明な景色と瓦礫のジオラマを脱出し、道路に飛び出した。三島もその道路に立っており、妙な落ち着きで佇む。警戒だろうか。それとも何か策を巡らせている最中なのか。男は違和感に警戒の色を強め三島と距離を置いて立ち止まる。
崩壊と炎の世界を数十メートルで相対する両名は視線をぶつけ合う。
「おい、どうした。戦いは終わっちゃいない。それとも諦めたか。認めねえ、戦って死ね」
この時、三島の頭は男を倒す方法を模索することでいっぱいになっていた。男は速すぎて目で追うことは難しい。そして何かレーダーのようなものでこちらの動きを探知しているようだ。だからこそいくら逃げてもこちらの正確な位置をつかまれてしまうのだろう。逃走は無意味だ。かといって男にはパワーでもスピードでも能力把握の分野でも数段劣る。対等なのは頑丈さくらいである。今生きていられるのも男が気まぐれで能力を使わないことが要因となっているだけであの黒い靄で攻撃されれば一撃で絶命するはずだ。初撃は外れた。男は今まで以上に警戒するだろう。さらに三島を襲う逆境は集中力の喪失と緊張感から、紫炎の放出ができなくなってしまったことだ。再度、紫炎を練り直す時間が必要だ。男にそれを悟られてはいけない。適当に時間稼ぎをしなくては。
「いや、諦めてないし、諦める気もないよ。それより気がかりなことがある。戦いがどういう結末を迎えることになっても知っておきたい。タナトスってなんだ。それに周囲がこんな惨劇になってるのにどうしてそう平気なんだ。ふざけてるわけじゃないが、もしかして謎の組織みたいな奴か。ならなんでこんなに人を殺す。普通は暗殺とかじゃないのか」
男はだるそうな顔をすると苦笑し、ポケットから煙草を取り出すと一本だけ器用に抜き取り咥える。そして、ズボンの右ポケットからジッポーライターを取出し、手で風よけを作り着火する。煙草から煙が立ち上ると満足そうに笑い、ジッポーをポケットに戻す。
第一条件である時間稼ぎは成功したようだ。この間にも何か勝つ方法を思考する。俺が男より優れている利点は頑丈さのみ…頑丈さ。「頑丈さ」から考えうる戦い方…
三島はハッとする。万が一にも勝機があるとすればもうあれしかない。情けないが。
「質問攻めか。えらい悠長じゃねえか。人のことを異常者みたいな口ぶりでつらつら言ってるがお前も十分平気そうだな。組織ねえ、漫画の読みすぎか。まあ、事実だけどよ。後は…暗殺、タナトスだっけか。いいぜ答えてやるよ。タナトス因子だよ、タナトスってのは。こいつを持ってるとなんでも殺せるんだよ。だから静かに暗殺なんてしなくていい。触れれば死ぬ。触れなくても俺みたいに訓練積めば殺せる。死因は適当にでっち上げられるしな。お前もよく知ってんだろ。タナトス因子保持者、タナトスの末席だもんな」
「なんだよそれ、タナトスの末席だと。聞いたことないぞ。こんな大規模な事件起こしてて明るみにならないってどういうことだ。なんでお前はタナトスなんて持ってるんだ」
「なんで持ってるって。同じだよ、俺もお前も。死んだだろ」
三島は息をのむ。なぜその事実を知っている。男は三島の焦りの表情に目を細め笑う。
「この力はな、冥府に至った死にきれない奴らが胸糞悪いタナトスに命を返してもらう契約でついでにもらっちまう戒めみたいなもんだ。もう俺らは人間じゃないっていうあれだ。まあ、本当のところは目印なんだが。何を願ったか知らねえが馬鹿な奴だぜ。諦めて亡者になってりゃ、苦しんで死ぬこともないだろうし、期待することもなかったのによ。それに大勢の人も死ななかったのにな。お前が抱えてた女、もう家族いなくなっちまったな」
「なんだよそれ、お前らがやったことだろ。急になんだよ。タナトスなんて知らない」
「知らないだと。お前も会ったんだろ、冥府で。あの気持ち悪い空気吐いてる巨人によ」
三島の脳裏に、生命のいない世界で吐き気のする笑みを浮かべ、黒色に濁った死を纏わせる巨人の記憶がかすめる。この男もあの化け物に出会って蘇ったということか。
「思い出したか。俺らは蘇ったんだ。タナトスとの契約でな。目的は知らねえけど。そして願ったもののために生き続けようとしている。それだけだ。タナトスの末席ってのも直系より弱い連中の総称だ。タナトスが使える奴らはみんな力の量に比例してこのどっちかで呼ばれてる。後、お前は人殺しをしてないって言ったがお前も同罪だよ。広範囲タナトス照射をしたのはお前がおかしな真似をしたからだ。距離の把握の関係で撃ったんだよ。お前が先に攻撃しなきゃこうはならなかったんだぜ」
「お、俺も同罪だって。あれは勝手に出た能力で、俺は…」
「ブツブツうるせえ奴だな。まあいい。もう全部話したぜ。冥土の土産にゃ十分だろ」
「まだだ。まだ質問がある。どうして彼女と俺を殺そうとするんだ。理由を聞かせてくれ」
「話すのだりいよ。戦おうぜ。歯を食いしばりな、まだまだ痛めつけてやるからよ」
男との対話で謎が幾分減少した。タナトス因子、タナトスの末席、そして直系。まだわからないことは多いがはっきりしたことがある。男は三島の理解の範疇を超えた何かに属していること、彼女と三島を殺すことだ。
男は前かがみになり、一歩目を踏み出すと体が消え、風を切る音が響く。三島は気配を頼りに正面に右拳を振るった。しかし、手には空を切る感覚しかなく、男は三島の懐にしゃがんだ形で出現し、アッパーを繰り出す。三島は反射的に左手を攻撃の軌道上に滑らせてアッパーを打ち払う。
男はそれを予想していたようで、アッパーを打った右手の下から左手を出し、三島の腹部に掌底を加える。高速で吹き飛ぶ三島。それを上回る速度で男は移動し、三島のとんだ軌道に先回りし、無防備な三島が空中に漂う最中顔面に拳を打ち込み地面にたたきつける。地面には三島を中心に蜘蛛の巣に似た巨大な亀裂が生まれる。
破壊力は大きく三島はバウンドし、白目をむきながら空中をふわりと舞う。重力でバウンドの速度が失速していくと同時に男は一瞬後ろに引く。その数センチの距離から加速して三島に蹴りをヒットさせる。また高速で吹き飛ばされると蹴られた先にある電柱に激突し、なぎ倒す。なおも残る蹴りの威力でその先の塀に埋まり磔になる。数秒して剥がれ、地面にするすると滑り落ちる。破損した塀に寄り掛かり三島はぐったりする。
「もう終わりか。まあ十分だ。タナトスを使ってきた時は冷や冷やしたが、おかげでそれなりに楽しめたしな。正直、雑魚ってのは挑発のための嘘だったんだが。今日初めてタナトス因子を発現した奴が俺と対等に並ぶって時点で驚きだ。訓練すればタナトスの直系にもなれたんじゃねえか。女のために必死になるとこもよかったぜ…悪いがお前の夢、背負わしてもらう」
男は俯いた三島に歩み寄ると前髪を掴み顔を上げさせる。目には生気はない。かろうじて聞こえる呼吸音が三島の体力を物語る。
「楽しかったぜ。俺は辻本太一って言うんだ。あの世で宣伝してくれよ」
三島を左手で固定したまま、右手を振り上げる。右手の指を綺麗にそろえ密着させ、ピンと伸ばす。右手首から上に黒い煙があふれ出し、同様の配色をした炎が噴き出す。腕を引き、炎の大きさが最大になった時、鋭い突きを放つ。辺りに水が地面にぶつかる音が響き赤い液体が飛び散る。辻本は笑みを張り付け三島を見据えた。
炎の燃え滾る世界で暫しの沈黙。明りに晒され、胸に風穴をあけられた黒いシルエットが揺らめく。
辻本の手刀は三島の胸の前で停止していた。辻本は目を丸くし首を下に傾ける。辻本のみぞおちには紫の瘴気を放つ三島の右手が深々と刺さっていた。驚いた表情のまま視線を三島の顔に向ける。三島は先ほどとは打って変わり、命の輝きを瞳に宿している。
辻本は口から大量の鮮血を吐き出し、おびただしい量の血液が二人の間の地面に広がる。
「おい、こりゃどういうことだ」
「単純な罠だよ。死んだふり。俺は頑丈だ。お前の攻撃を受けても骨折ひとつない。死なない自信はあった。あとはいかにタナトス因子を使わせないかだが、お前は最初から能力を使用しない近接戦闘が好みだと行動からよくわかった。だけどそのせいでお前は俺にタナトスで攻撃されることを必要以上に警戒していて、そこが問題だった。だが、どんな大ぶりな攻撃をしても毎回俺の生死を確認しに近づいてくることが分かった。そこで憔悴したふりをすれば、お前が警戒しながら距離を詰めることもあってタナトスを練り直す時間稼ぎにもなる。幸い俺がタナトスを練ることを探知することができないのは初めてタナトスを使用した時の反応の鈍さで察しがついた。ならお前がとどめを刺す前に俺が攻撃を打ち込む。これで俺は勝てると踏んだ…」
男は両膝をつき戦意を喪失する。手からも力が抜けぶらぶらと揺れて垂れ下がる。
「なるほど…俺の負けか」
男は夜空を見上げ呆けたように口を開ける。三島が手を引き抜くと傷口からは血が溢れ出す。三島は反対に立ち上がりどこかへ去ろうとする。男はぜえぜえと苦しそうに呼吸し仰向けに倒れる。
「どうした、とどめ、刺さないのかよ」
三島は立ち止まると振り返る。辻本はぼやける視界の中、三島を見つめると憤怒が湧く。その原因は先ほどの争いから窺い知れないほどに情けない三島の挙動だった。三島は取り返しのつかないことをしてしまった後ろめたさに顔を歪ませ体を震わせていた。
「とどめは刺せない。人殺しなんてする気はない」
辻本は落胆し、これが俺の倒した相手かと失望する。
「何だよ、テメエ気持ちわりいな。俺はそういう中途半端なのが大っ嫌いなんだよ。ここで殺しとかねえと回復した時に確実に仕留めに行くぞ。今度はタナトス主体の戦闘で」
「それは無理でしょ。だってもう戦えるはずはないんだから」
「あん。テメエなんでそんなことが言える。俺はまだ死んじゃいねえぞ」
「いやだってもうお前は死ぬだろ。お前から漂うタナトス因子の気配が徐々に消えてくのがわかるよ。ほっといても助からないんだろ」
男は内心、驚きを隠せなかった。この短時間で三島がタナトス感知を取得した事実は辻本の経験則を頼りにすれば驚嘆に値する。辻本でさえ取得に一年を要した技術である。
「そうかい。大切なもんでもなんでも抱えて俺の前から消え失せやがれ、腰抜けが。目障りなんだよ」
男の怒声に驚いた三島はこの場所から早く立ち去ろうと考えた。しかし、三島には問わなければならないことが残されている。
「何だ。殺す気になったか」
「違う聞きたいんことがある。どうして俺たちを殺そうとしたんだ。お前の口ぶりから俺たち以外にもこの世界にはタナトス因子保持者がいるんだろ。なんで俺たちだけなんだ」
「殺さなきゃならねえ。面倒なことになるんだよ、末期タナトス因子持ちを生かしとくと」
「末期タナトス因子保持者ってなんだ。殺さなきゃならない理由ってなんだよ」
「うるせえな。自分で考えろ。半死人に質問ぶつけまくるんじゃねえ。傷口が痛む」
「頼む、教えてくれ。どうして生きていると面倒なんだ」
「クソガキが。わかったよ。教えてやる代わりに俺を殺せよ。そしたら教えてやる」
三島は黙った。炎の揺らめきの中、躊躇いに染まり汗が吹きだす。
「無理だ。俺は殺せない。殺せるならタナトスを初めて使ったときに殺してるよ」
男はふつふつを湧き上がる苛立ちに心を埋め尽くされ歯ぎしりを立てる。
「お前は守ることの本当の意味を分かっちゃいないんだな。多かれ少なかれ障害になる可能性は全部排除していかねえと絶対に大切なもんをなくしちまう。これから先必ずお前は対峙する敵を殺さなきゃならない場面に遭遇する。俺みたいな甘い奴は俺の組織にゃいねえ。次で確実に死ぬぞ。あの女は守りきれねえだろうな」
「なんで小揺木さんが出てくるんだ。彼女は関係ない。俺に巻き込まれただけじゃないか」
「そんなもん決まってるだろ。人質としても価値もあるだろうし、お前の戦意を削ぐ重要なツールにもなる。それに…まあそのうちわかるさ。殺す気がないなら失せろ。あばよ、クソガキ」
三島はまだ何か言おうとしたが殺す覚悟がない以上、この先の問答は無駄だと判断して口を閉ざす。小揺木をおろした方角へと歩行を再開する。去り際、三島は「ごめんなさい」と漏らし男から離れていった。何にせよ他人の人生を奪ったことを三島は悔いていた。
辻本は三島の言葉に呆れを通り越し鼻で笑ってしまう。
こうして街を呑む劫火を除き、また静寂が訪れた。辻本は霞む視界を正常に戻そうと目をこするが、変化はない。どうやら目の疲れなどではなく死の来訪を告げる現象のようだ。
「こいつはもう死ぬな」
ポケットからジッポーと煙草を取り出し口に運ぶ。その間、手は小刻みに震える。
着火した。煙草の先から白煙が揺らめき、辻本の表情は少し緩む。とポケットの中で携帯が振動する。誰かからの着信のようだ。
煙草を吸う余裕もくれねえのか。どいつもこいつも忙しいねえな。
ポケットから携帯を取り出すため無意識にジッポーを手放す。ジッポーは地面に落下した。画面には見知った番号が表示されていた。通話のボタンを押し、携帯を耳に近づける。
第一声、ハスキーな女性の声で「もしもし」という言葉が耳に入り込む。
「おう、もしもし、桜子か。何のようだ」
「いや、特には。任務の進度が気になってな。報告が遅いこともあって連絡した次第だ」
「遅いってまだ任務開始から三時間しかたってねえぞ。催促早すぎだろ」
「そうか、鹿助の弟子同士なんだ。実力は分かっている。タナトス反応を分析するに末席の中で極めて微弱なカテゴリーに分類される敵にそんなに時間がかかるはずないだろ」
「で、心配になって電話を掛けてきたと。お前そんなに優しかったけ」
「なんだ私はとても優しくてかわいい黒髪美少女だぞ。今頃気づいたのか」
「っんだよそれ。俺にはちんちくりんにしか見えねえけど」
「なんだと。お前戻ってきたら覚悟しとけよ。直系の恐ろしさをもう一度教えてやるから」
「おー、怖っ。じゃあもう戻れねえな、一生」
「ふん、珍しく弱気だな。何か……辻本…お前まさか」
「ああ、気づいてんのか。だよな。報告しなきゃなんねえことがある」
「愛の告白か」
「っ…………っんなわけねえだろおおーーーーーーーーーー」
「じゃあなんだ。負けたとでも」
桜子の的を射た発言に辻本の動揺は収まりのどから声を出すことができない。できれば悟られたくなかったことだ。軽いため息が漏れる。
「なんだよ。気づいてたのか…すまねえ、負けちまった。多分…もう長くねえ」
「辻本のタナトス反応が急激に消失していったのを感知してな。まさかと思ったが。どういうことだ。今度会う約束だろ。もうこちらに殲滅命令は回ってこないって言ったじゃないか…どうして負けた。また肉弾戦が好きだとか言って能力を使わなかったのか。そして隙を突かれたということか」
桜子の鬼気迫る怒気に顔をしかめながらも、辻本は包み隠さず真相を語った。
「う~ん、まあそんなところだ」
「バカ、何を考えて……それで死ぬだって。ふざけるな。私はお前のバカさ加減をいつも腹に据えかねていたんだ。這ってでも勝ってこい。そして帰れ。私は勝ち戦以外の報告は聞かないぞ。早く世界の安定を崩壊させる罪人を殲滅してこい」
相変わらず桜子は変わんねえな。辻本は少し笑い穏やかな顔で明るい夜空を仰ぐ。
「そうかい。じゃあもう少し…頑張ってみるか」
そうは言ったものの辻本はもう立ち上がれなかった。
三島が打ち込んだタナトス因子は凄まじい速度で傷口を壊死させていく。辻本にはその進行を自らのタナトス因子で抑制することしかできない。すべての事象を死滅させ死さえも殺めるタナトス因子だからこそできる芸当。しかし、保有するタナトス因子に結果は左右される。疲弊した辻本のタナトス因子では生命を存続させることは絶望的だった。
「なあ、桜子。頼みがあるんだ。俺の願い覚えてるか」
「覚えているぞ。それがどうした。まだあきらめてないのか。滅ぼしたい国があるんだろ。無理だよ。忘れろ」
「俺が敵を倒したら少しの間だけ休みもらってアメリカ滅ぼしに行こうぜ」
「嫌だと言ったろ。そんな絵空事、実現するはずがない」
「そうかよ。なら一人でやるからいいや」
「一人でだって。無理だよ………わかったよ、嘘だ。手伝ってやる。だから死ぬな。あきらめるな。殲滅はもういい。今から救援に向かう。タナトス因子の抑制に集中しろ」
「ああ、寒い。寒いよ、桜子。何も見えねえ。真っ暗だ。ははっ、俺…死ぬっぽい」
「辻本木をしっかり保て。そうだ、話をしよう。鹿助がもうすぐお前の誕生日だって張り切っているんだ。内緒にしとけと言われたが詳細を教えてやる」
その時、辻本が怯えるような声を上げ、呼吸を荒くする。
「………父ちゃん、母ちゃん、姉ちゃんも。おばあちゃん、じいちゃんまでどうしてここに。あの日…核が落ちた日に俺ら死んだはずだろ。どうしてみんな生きてるんだ」
「おい、辻本何を言っている。私の話を聞け。抑制に集中しろ」
「ごめん、みんな。俺はあの日わけのわかんねえ化け物に力をもらって、一人だけ生き延びちまった。みんなを助ける力がほしいと願ったのに手に入れたのはこんな気持ちの悪い能力で、こんな能力じゃ、蒸発しちまったみんなをどうこうできなかった。だから、みんなの仇を取ろうとした。けど、俺は結局心のどこかであきらめて無駄に長生きしちまった。そのうち死ぬのが怖くなって、逃げて。周りの連中が各国の均衡のために俺をアメリカに渡航させないよう邪魔してたのを理由に俺は逃げてたんだ。ほんとに怖くて、死にそうなほどに自分を追い詰めりゃみんなの復讐しろって耳元で囁く声が聞こえなくなる気がして。でも違った。ずるく生き延びた俺にもみんな笑いかけてくれる。勘違いして家族に俺だけ生き残ったのを恨まれてると思った。でもみんな俺を待っててくれたんだな。もう…もういいよな。福種なんて考えなくても。誰かを殺さなくても」
「おい…辻本、辻――」
辻本は携帯を強く握りしめると『切』と書かれたボタンを気づかぬうちに押してしまっていた。辻本は目を見開き涙を流し始める。
父、母、姉、祖父母の幻影が辻本の周りを取り囲み見下ろしながら微笑んでいる。
「みんな…ただいま」
同じく辻本も微笑むと、辻本の肉体は一瞬で黒い粉塵になり、空中に霧散する。
しばらく漂っていた黒い粒子は天高く舞い上がると空気に溶けていった。
またもこんな感じです。誤字脱字指摘とアドバイスお願いします。