追憶
思い返せば、十六歳の秋、転校してきた小揺木 天音はクラスの人間とすぐに打ち解け、その中心になってきた。
どんな学力の奴とも同じ対応をし、別姓の奴とも分け隔てなく会話し、ほとんど平等といっても過言ではない交友関係を築いていた。
クラスの中でも成績上位者としか話さず、頼まれ事も他人の指摘も効率的ではないという言葉で遠ざけてきた俺とは正反対の女性。
共通するのは学力の高さのみ。それ以外は平行線であった俺が彼女とかかわりを持った理由。
その理由は、彼女の過剰な接近であった。
彼女は転校初日に仲良くしようと詰め寄り、毎日のように無視しているのに話しかけてきた。
冬の寒さが身を突き刺す頃、一切無視し続けているにもかかわらず、机をくっつけてこちらを伺いながら彼女は俺の正面で食事をしていた。
さすがに苛立ち、机をくっつけるなと言及したところ、彼女は「やっと三島君、会話してくれたね。三ヶ月間寂しかったんだよ」とにこにこして語った。
はっきり言って鬱陶しい女というのが最初の印象だった。
親の方針で公立高校に進学させられなければこのような人間に出会わなかっただろう。
周りに連中は早い段階で俺の性格を知り、特定の人間としか関係を持たないことに呆れたり、怒ったりとさまざまな負の感情を露にし、俺と関わることをやめてきた。
俺も正直、俺のような人間は大嫌いだった。多分、俺の最も嫌う性格だろう。
こんな態度はとりたくはないし、クラスメイトとも楽しく会話したかった。
しかし、そんなことをすれば父は怒り、母は家庭の空気を壊す俺を嫌った。
俺が従順であれば全てが丸く納まる。俺が傷つき続ければ全ては平穏である。
そう信じて疑わなかった。
高校二年生になり、小揺木さんとはクラスが変わった。
もちろん、勝手な昼食同席は終わるだろうと思った。
噂では、彼女は新たなクラスでも一年次と同じく強引な友達作りを続けているらしい。
標的が多いのだから俺にかまう時間などないんだろう。
二年の始めから彼女が来ないのを少し寂しいと感じる節があった。
いつもとなりで拡声器のように世間話をされれば静けさを寂しく感じるのも当然だ。
別に俺が寂しいと感じたわけではない。刷り込みの結果である。
もう彼女は来ないだろう。
物思いにふける俺は頭を上げると、強い衝撃が頭を駆け巡る。
痛みを堪え、涙目を開くと、額を押さえて呻る少女がいた。
拡声器こと小揺木 天音の登場であった。
目が会うと彼女は満面の笑みを浮かべてピースしてきた。大丈夫とでも言いたいのか。
その時、内心嬉しいくせにため息をつくという演技をしたことを今でも思い出す。
こうして彼女との関係は続いた。
彼女の一方的な世間話に相槌を打つようになり、そのうち周りの奴らも俺が一年生の時とは異なり、接しやすくなったと感じたのか用事以外でも俺に話しかけてくる輩が現れ始めた。
そいつらは今まで通り無視し続けたが、あきらめの悪さが彼女同様に増した新たなクラスの連中は無視されることで余計に投資が燃え上がり話しかける頻度を増加させた。
あまりのやかましさに父と家庭の問題を彼女やクラスの前でカッとなって叫んでしまった。すると、皆、納得してくれた。
これで少しは静かな休み時間を迎えられる。そう思っていた。
だが、その出来事の数日後に、クラスメイトの何人かは父にばれなければ俺に話しかけても問題ないと言い出し、クラス中が賛成だと叫んだ。
この時、小揺木さんとは世間話を続けていたのが仇となり、父に小揺木産と会話していることは黙っているから友達になれと交換条件を提示してくる輩が現れたことを思い出す。
こうして俺の人生で小揺木三以外の初めての普通の友達が数人できた。
後日、小揺木さんはそのことを知り、ずるいと友達になることを要求してきた。
よく考えなくとも、孤独な高校生活に終止符を打ってくれたのは彼女だった。
俺は前から友達だと思っていたが、彼女は知らない。俺はそれを喜んで承諾した。
彼女はこちらが驚くほどに喜び、その日はずっとにやけていた。
彼女を意識し始めたのはこの頃からだろうか。
馬鹿なことを言ったり、意味のわからなかったり、俺の知らない物マネをしたり、妙なテンションではしゃいだりと彼女との休み時間は笑いが尽きなかった。
時々、これで俺よりも賢いのかと疑問を持つこともあった。
そんなある日、彼女が生徒会の役員を部活動で休みたいという言った日、代わりに生徒会の部活動注意会議に出席した。
配布された資料を今日中に渡したいと思い、彼女の部を尋ねた。
彼女が茶道部であることは前から知っていたが、普段の姿は茶道とは正反対の振る舞いであり、それが気になって一度は訪れたいという願望もあったのでちょうどいいと言えば、ちょうどいい。
部室を慎重に開けると内部はまるで室町のころの書院の一室のような雰囲気を醸し出していて、その世界で一際緩やかで、なおかつきれを失わない姿でお茶を煎じる彼女の姿があった。
服装が着物であるという点も幻想的な世界に趣を加え、物寂しさはあるものの満足感を与える奇妙な感情を抱かせた。
いつもは早朝の小鳥のようにせわしない彼女も今は儚げな静けさを体現している。
美しい。
そんな感想が」口から零れ落ちそうになったが、寸前で我に返り声を出さずに済んだ。
俺の来訪に気づいた小揺木さんは「あっ!三島君だ」と大声を張り上げ手を振ってくる。
それが原因で指導していた顧問の先生に扇子ではたかれる。
「ちょっと待ってて」
そう言ってまたお茶を煎じ始めるとさまざまな工程を流れるように通し、歪んだどんぶりのような漆器に入ったお茶を顧問の女性教師に渡す。
それを受け取ると何回か漆器を回し、女性教師は飲む。
飲み方にも独特の上品さが見て取れる教師の動きは美しく、小揺木さんの身のこなしより数段上手だと素人の俺でもわかった。
それでも小揺木さんの方が何か惹きつけるものがあったと感じたのは俺の主観である。
「結構なお手前で」
顧問の反応に彼女はだらしなくにやけ頭を下げた。
「ありがとうね、山ぐっちゃん」
「まだ終わってないわよ」
顧問は小揺木さんに扇子で剣道の面を打ち込む。
その拍子に彼女は「あ、痛っ!?」っと言って後方に倒れこむ。
あまりに爽快な音が響いたこととおでこをさすり涙を浮かべる彼女の姿が面白くて、つい苦笑してしまった。
その日、小揺木さんは待っててくれたんだし、一緒に帰ろうと提案し帰路をともにした。この時だったと思う。俺の中の不確かな感情が恋に変わったのは。
それからの小揺木さんとの会話はただ面白いという思いから、新鮮な生きがいのように感じ始めた。この生活だけあれば幸せだった。
競争の場であり、自らの器を洗練する場として父に刷り込まれてきた学校は俺の幸せへと変化した。
明日も、明後日も、来週、来月、来年もこんな楽しいときが続く。そう信じていた。
高校二年生の冬まで―――――
来年から本格的な受験が始まると父が述べた。
貴族の館のように剥製がかけられ、高級な絨毯が敷かれ、長いテーブルの上には二つの燭台がおかれている。四十畳はある広間に三島と両親が席に着いて食事をしていた。
ここは三島家のリビングだ。
父に言葉に力強く頷き食事に戻ろうとする。食卓を囲むいつも通りの胸の詰まる光景のはずだった。その時であった。父がいつにない険しい表情をしたのは。
蛇に睨まれた蛙のように俺は動けなくなった。
「賢介、最近お前に届けたいものがあるという女が我が家に来たらしい。そいつが体には気をつけろといっていたそうだ…名前は確か小揺木天音といったか。あの女と仲良しらしいではないか」
それは俺がインフルエンザで休んだ際に、家に進路希望調査が届いた時のことだろう。
血の気が引き、息苦しくなる。
全身の感覚が消え、父の姿が見る見る大きくなっていくように見えた。
「ずいぶん笑う女でな、気になって調べさせたのだが…あの女は偏差値七十四だそうだな……ちょっとは出来るじゃないか」
吐き気に襲われ、唇は乾燥していく。父を直視出来ず俯いた。
手が震えだし、呼吸は切れ切れになる。
「は、はい。彼女は学年で常に一位の成績を維持しているので……」
ガシャンッ
リビングに皿の砕ける音がこだまする。
床に落ちた皿だったものを踏みつけ、さらに細かく破砕し、父は俺に近づいてくる。
母は悲鳴を上げ、頭を抱えると椅子に座ったまま、その場で体を丸める。
父は俺の隣に来るとワイシャツの襟をつかみ立ち上がらせる。
俺の顔は恐怖していたのだろう。
父は「情けない面をしおって!」と怒声を上げ平手打ちをくりだす。
「あの女は両親がいない貧乏な家庭だぞ。祖父母が養育しているそうだ。しかも退職金と年金でだ。お前は私を馬鹿にしているのか」
「すみません、悪気があってやったわけじゃないんです。許してください」
俺は情けない謝罪を口にし、平手で痺れる痛みが伝わる頬を押さえ、殴られないように顔を守る。
それでも容赦ない父の平手は続いた。
「情けない。その手をどけろ!三島家には、お前のような、腰抜けで、親不孝者など、必要、ないのだ。いいか!あの女とは一生涯にわたって口をきくなよ」
怒声とともになおも、俺は平手打ちを受けた。
どれだけの時間がたったのだろう。
「すみませんすみませんすみませんすみませんすみませんすみませんすみません………」
荒い息を整え、ネクタイを緩めた父は俺から離れる。
しばらく血走った目を向けつばを吐きつける。
「不愉快だ、もう寝るぞ」
父は捨て台詞のように罵声を吐き捨て、部屋を後にした。その怒声に反応し、何人かの使用人が父の後に続き、退出していく。
頬を痺れさせる激痛と自らの無力さ、そして父の言いなりの情けない自分の姿。
それらが一層、天井を見つめる俺の心を虚しく彩る。
こんな雁字搦めの生き方をして、レールを外れれば矯正される様は列車のようだ。
だが生憎俺は人間だった。この人生は俺が選択したものに他ならない。
すみませんと連呼して許しを請う姿はさぞ醜かったであろう。
自分の弱さが浮き彫りになる度、どうしようもなく死んでしまいたくなった。
「も…もうたくさんよ。どうしてこんなことに。結婚したときは優しい人だったのに」
母のヒステリーがまた始まった。
父の一方的な暴力が始まれば、母は傍観することしかできない。かつて止めに入った母は、父に教育力のなさを馬鹿にされ、遺伝子にいたるまで劣ると罵倒されたことがあった。
「あの人は変わったわ、あなたが生まれてからよ。家にもすぐ帰ってこなくなった。それにあなたの劣る点はすべて私に似たものだと言ったわ。こんな出来損ないの女と子を儲けるべきではなかったと。どうしてなのよ。ど、どうして……」
母は憎悪に歪んだ顔で俺を睨みつけ髪の毛をかきむしる。
「賢介が駄目にしたのよ。もうこれ以上私を苦しませないで」
ゆっくりと立ち上がり、母に近づくと落ち着かせようと肩に手を置く。
その時、母は俺の手を払い落とし、接触部を丹念にはたいた。
「触らないで、汚らわしい。あなたみたいに汚れた人間が世界を駄目にするの。全てを駄目にするのよ。もういやよ、こんな生活。夫を愛していたからこそ今まで生きてきたのに…この親不孝者。どれだけ苦しめれば気が済むの。悪魔よ。この悪魔め、早くこの家から出ていって頂戴」
何を言っても今日の母は聞かないだろうし、慰めるにしても当事者では煽ってしまうだけだ。
俺はどうして生まれてきたんだろう。
そんなことを考え、ぼんやりしながら扉に向かう。
「生まなければよかった。あの時も、あの時も、あの時も…死んでいればよかったのよ。ああ…死になさいよ。死ね。死ね死ね死ね死ね死ね死ね―――――――――――――――」
俺はさまざまな罵声を背に浴び、部屋を後にした。
それからの記憶は定かではない。気づけば朝を迎えていた。散らかった自室を顧みることなく、制服に着替え学校へと向かった。
もちろん、朝食は食べていない。昨日のこともありとてもではないが家族と顔など合わせられなかった。だから食卓のある広間を避け、半ば逃げるように登校した。
学校は相変わらずいつも通りで、皆嬉しそうに友人と会話をしたり、次の授業の予習をしたり、与えられた仕事をこなすなどしていた。
こいつらにはきっと悩みなんてないんだろうな。幸せな家庭で幸せな人生を送り、幸せに死んでいくんだ。
そんな感慨にふけっていると小揺木さんが登校してきた。鞄を置くと彼女は予想通り早速俺に話しかけてきた。
席が隣であることがあからさまに避けられないことを強調する。
彼女は楽しそうに昨日の料理中の出来事を語り始め、なぜかボクシングなどのジェスチャーを混ぜながら、そのときの状況を克明に演じる。
しかし、彼女も馬鹿ではない。
会話を展開しようとも一向に口を開かない点から俺の異変に気づいた。
小首を傾げ疑問を漏らす。
「どしたの。お腹すいてるの。保健室に行けば、冷蔵庫にプリンがあるよ」
彼女の言葉に俺は反応しない。
昨夜の父の発言が頭を揺さぶる。
いいか。あの女とは一生涯にわたって口をきくなよ。
怪訝そうな小揺木さんは、無視を続ける俺を何度も心配し、面白い話を交えつつ話しかけてくる。その間、始終彼女の心配そうな強張った顔は解けない。
毎回の休み時間を目一杯使い彼女は話しかけてくる。
俺はそれをすべて無視して呆けていた。
小揺木さんに対して本当にすまないと思う。しかし、父の教えは絶対であり、家庭の法は父である。父に生かされている事実は俺の行動を制限する。
授業の間も、彼女は時々笑わそうと必死に何かしていた。しかし、俺はなおも無視を続ける。
小揺木さんが先生にばれて怒られている。
内心、うしろめたい気持ちが襲い、小揺木さんに謝りたくてしょうがなかった。
それでも俺は無視を続けた。
気づけば放課後、小揺木さんに会わないよう逃げるように教室を出る。
そして俺は誰かにぶつかった。
衝突の反射で閉じた目を開けると俺と同じくらいの身長で指定の制服をだらしなく着用し、パーカーを中に着こんだスポーツ刈りの男がいた。
「ごめん」
そう言って俺は去ろうとすると、「待てよ」と男は呼びとめてくる。
「おい三島、お前いくらなんでも冷てえよ。一年前の秋に逆戻りか。小揺木さんマジで落ち込んでたぞ」
彼は佐々木総一。俺の学年では万年二位の成績だったが、小揺木さんの登場で万年三位に転落した男だ。
学校内唯一の俺の親友であり、もちろんこいつの家庭は相当な金持ちである。
「そんなことわかってるさ」
佐々木の横をすり抜けて玄関へと向かう。
「待てよ、三島。わかってねえよ、お前。どうせお前、親父になんか言われたんだろ。」
その声に歩みを止める。
見透かされた焦りと俺の弱さを知っていながら簡単に意見してくる佐々木に怒りを覚え振り返らざるを得なかった。
「だから何だ。お前に関係ないだろ。それとも小揺木さんにでも頼まれたか。」
「違うっつぅの。ただな…おまえがまだ親父のいいなりロボットやってんのかなと思って」
佐々木の顔に挑発するような笑みが浮かぶ。
「何だと…今、なんて言った」
俺が怒ることを予期していたのだろう。さして動揺することもなく佐々木は鼻で笑った。「だからな…まだいいなりロボットやってんのかよ。お前ってそんなつまらないことで小揺木さんを無視してたわけか。そりゃ面白いわ」
俺の顔は怒りに歪み、無意識のうちに手が出てしまった。佐々木の頬に赤い軌跡を刻み、殴られた本人は床に倒れ、一瞬驚いたような視線を俺に向けていた。
俺の心には己の弱さをさらに佐々木にさらしてしまった痛みと後悔が広がる。
「つまらないことだと。お前に一体何がわかるんだよ。幸せ者に何が…どうせ何も悩みなんてないんだろ」
佐々木は怒りを露わにし、切れた唇からつたう血を拭い即座に立ちあがった。
「何だてめえ。お前にも俺の何がわかるってんだ。勝手なことぬかしてべらべらべらべらと。確かに俺もてめえと同じみじめな男だが、お前はまだ変われるだろ。俺はお前と違ってどうにもならない思いを受け入れて生きてかなきゃなんねえんだよ。努力次第で変われるくせにウジウジしてんじゃねえよ。それに小揺木さんが悲しむこととてめえの事情は別のことだろうが。小揺木さんが何したってんだ。関係ねえだろ」
「……俺の家庭状況を知ってるんだろ。お前にも相談したことあるからな。だったらわかるだろ。俺はこれ以上家の災厄の中心にいるのは嫌なんだよ。ほっといてくれ」
「ああ、知ってるよ。それでも言うぜ。小揺木さんに謝ってこいや」
「こ、この…クソが」
またも出そうになる手を必死で抑え三島は足早に玄関に向かう。
言いなりロボットという造語が俺の立場の的を射ていたこともあり、少々怒り過ぎた。
冷静さを取り戻そうと深呼吸する。その後ろから別の足音が続く。
「逃げるのかよ、三島。いいかげん目を背けるのやめて立ち向かえよ」
「逃げて何が悪い。お前はどうせ小さな障害だけしか乗り越えてこなかったんだろ。それで俺に意見してくるんだろ。俺とお前をいっしょにして語るな、不愉快なんだよ。どうせ何もないんだろ。悩みなんて」
佐々木は急に立ち止まり俺を追うことをやめた。
やっと理解したんだろう。これでまた俺は平穏な日々を取り戻すことが出来る。
ああ、早くこの命が終わってしまえばいいのに。
「俺に何も悩みがないだって…そうだったらよかったんだけどな……俺は正直、小揺木さんとお前に仲良くしていて欲しい。仲良くしたくてもできなくなるかもしれないんだぜ」
ぽつりと背後から消え入りそうな声が聞こえてくる。
急に何だ、こいつ。
俺は振り返ると佐々木は泣きそうな顔でうつむいていた。自然と歩みが止まり佐々木に魅入ってしまった。
「一応、今も向き合ってる悩みはあるんだ。俺の悩みを言ったら考え直すか…?」
「何だよ、急に…勝手にしろ」
俺はそう言いつつも、普段明るく振る舞うクラスのリーダー的存在が、見せたこともない暗い空気を纏っていることに少なからず興味が湧き、聞きたいという衝動に駆られた。
躊躇いがちにだが、佐々木はその重く閉ざされた唇を開いた。
「はじめて話すけど、俺にはさ…妹がいてよ。だけど、俺もあんまり会えないんだ。障害を持ってて自力で生きていくことができないんだ。その維持費と世間体が原因で親父がもう妹を楽にさせてやろうとか言ってるんだ。当り前だけど反対するだろ。そしたらよ、親父が月に約百万ぐらい維持費がかかるって言いやがって。それを俺が払えるんだったら対等な口を聞けって怒っててよ」
「百万…どうしてそんなにかかるんだ?」
「知らねえよ。入院代とか、服用してる薬とか、人件費とか含めるとそれぐらいなんだって言うんだ。俺も詳しくはわからない。まあ、そんなことどうだっていいんだ。親父は妹のことを家族のお荷物とか言いやがるんだ。それが悔しくて、ここ最近ずっと喧嘩してるんだ。親父はこのまま生命維持装置を切れば脳死するって言ってる。臓器提供のニュースあったろ。親父がいい機会だから妹の命も他人のために役立てようとかぬかしてよ……俺、親父をぶっ殺してやりてえ。親父やお袋は会社の経営で妹と年に一回会うくらいだけど、俺は一週間に三回は面会に行くんだ。妹は普通の人間と変わらねえ。笑うし、普通には話せないけど言いたいことも伝えられる。妹はまだ生きてるんだ。なのに…なのにどうしてあんなこと言えんだよ」
佐々木は突然地面に手足をつき正座したかと思うと、躊躇うことなく額を廊下に擦りつける。
「頼むよ、少しでいいんだ…金貸してくれ。何年かかっても返すから頼む」
涙声で言葉は聞き取りづらく嗚咽を漏らしていたため、顔は確認できないが佐々木は大泣きしていた。佐々木の顔の下に位置する床には数滴の雫が降り注ぐ。
佐々木はサッカーで国体に行くほどにスポーツができ、女生徒の憧れとして本校では注目の的であった。そんな男が土下座して金の工面を要求してくる。
普段の佐々木とは似ても似つかない姿に、俺はただ呆然と立ち尽くすことしか出来ない。
「佐々木…らしくないって。止めろよ。わかったから…人もいるだろうし…俺が悪かった」
佐々木のとんでもない話を聞き何とも言えない悲しみが襲う。とりあえず落ち着かせようと駆け寄る。
「土下座なんてやめてくれ。父さんに相談してみるから。だから…な?顔上げてくれよ」
「すまねえ、本当にすまねえ」
佐々木を何とか立ち上がらせるととりあえず帰ろうと提案し、ハンカチで涙を拭う佐々木を校門まで見送りことなきを得た。
佐々木のことで頭が真っ白になったが本題に戻れば小揺木さんのことだ。
佐々木には本当に悪いが、小揺木さんとの関係修復は不可能な話だ。父はそんなことを許さないだろうし、俺の精神では反発することさえもかなわないだろう。
結局のところは全て俺の弱さが原因だった。
だからこそ、中学の頃は強くなることをひたすらに望んだ。
その結果、筋肉は発達したとしても精神は成長しないのだ。
それでは何も変わらない。俺は変われない。
家路につき、また悪夢の晩餐が始まった。
昨日、何もなかったかのように広間には静寂がおりる。
母は、俺と父の顔を頻繁にうかがい、俺は俯いて食事をしていた。
父をちらっと見つめると相変わらずつまらなそうな顔をしていた。
さて、どうやって佐々木の件を口にしようか。
昨夜の出来事で父に頼み事などはっきり言って正気の沙汰ではない。
また暴力を振るわれる恐れがある。しかし、親友の涙の頼みだ。無下にはできない。
「父さん……お願いがあるのですが」
ナイフをステーキに埋め込ませ切断していた父の手が止まる。
「どうした、賢介」
父の表情には昨日のような憤怒はうかがえない。
俺は意を決し、目線をそらさず父を見据える。
「一月に百万円…貸してくれませんか」
母は驚いて立ち上がり、慌てふためく。
「あなた、この子は冗談を言っているのよ。昨日あんなことがあったから笑わそうと…ね」
「理由を話せ」
父の手は活動を再開し、重たい声が響く。
「佐々木総一をご存知ですか」
その瞬間、父の眉がピクリと動いた。
「ああ、オリンポス代表取締りの息子か。あの女とは正反対の家柄を持つ男だな」
あの女とは小揺木さんのことだろう。父は昨日の出来事にさらなる釘を刺したいのか、小揺木さんを比較の舞台に上げる。
「はい、そうです」
「それがどうかしたか」
「総一君が月に百万円貸して欲しいと…」
「なぜだ。彼の家は日本有数の資産家の家系だぞ。金ならある」
「それが、何か問題を抱えているらしく、家族の助けを借りることはできないそうです」
「なるほど…佐々木の家庭にも闇があるようだな。面白い」
父の表情に変化はなく、しばらくの間、無言の食卓が展開される。
駄目―――なのだろうか?
あきらめかけたその時、父は唐突に話題を切り替えた。
「あの女とはしっかり縁を切ったか」
母の血色は著しく無に近づき焦りの色を浮かべるとと、俺を睨みつける。
「はい、もう彼女とは一切関わりを持っていません」
父は険しい表情を緩め、微笑む。
「ほう、そうかそうか。わかった。佐々木の小僧に百万か。貸してやってもいいぞ。返却の望みは薄いがまあいい。」
「ほ、本当ですか」
「ああ、本当だとも。明日にでも佐々木の小僧に報告しておけ。いつでも来いとな」
「ありがとうございます」
俺はこんなに簡単に事が運ぶとは予期していなかったので、喜びを隠すことができない。
父から目を離していた。感謝が滲みだし、さらに父にありがとうと口を開こうとする。
父に目線を移す。その時、俺の体に痺れるような緊張が走った。
父の目が血走っていた。理由なんてわからない。
「賢介…ただし、あの女と未来永劫関係を持たないことが交換条件だ。私を失望させるなよ?」
父の鬼の如き形相に、呼吸が乱れ冷や汗がありとあらゆる皮膚から溢れだす。
「も、もちろんです。すれ違うこともないよう…気をつけます」
「わかればいい、わかれば。では私は寝るとしよう。お休み、賢介」
父が部屋から去ると、俺はほっと一息をつき、椅子にもたれかかる。
とりあえず難は逃れた。
母も俺と同様の行動を行い、溜め息を漏らし、椅子にもたれかかる。
「気をつけなさい。あなたの行動は……軽率だわ」
母は備え付けの紙ナプキンで口元を拭うと立ち上がり部屋を出て行った。
その去り際に、もうこれっきり食事中は声を発さないで欲しいと懇願された。
俺はしぶしぶ了承し、自室に引き上げてきてからもう数分経過していた。
自室につくとまず目についたのはめちゃくちゃに荒れた家具の類。
ベッド、クローゼット、机は定位置にあったが、本や文房具、受賞した際にもらった盾やトロフィーは無造作に床に転がっていた。
そういえば、昨夜は部屋中のものに八つ当たりしたことを思い出した。早く片付けよう。しかし、体は先ほどの一件で、気だるくとてもではないが部屋を片付ける気分にはなれなかった。自分の甘え、計画性の無さに最早、恥を感じざるを得ない。
自業自得だ。甘えていないで片付けよう。
その時、右ポケットの中で何かが振動した。携帯だ。
開いてみると小揺木さんから十件近いメールが送信されてきていた。よく確認すると佐々木との問題に巻き込まれている時間帯からメールは届いていたようだ。
俺はそれを見ることなく全件排除をおす。俺の胸に突き刺すような罪悪感が広がった。
しかし、父との約束だ。俺にはどうにもできない。ごめん、小揺木さん。
頭を覆い尽くす罪悪感の源泉は小揺木さんの優しさだ。それを思い出していたが頭から追い出そうと首を強く振る。
もう俺には彼女は関係ないんだ。
気乗りしないが掃除を始め、まず床にぶちまけられていた本を拾い上げる。
意図せず拾い上げた一冊の本。タイトルは友達の作り方。
小学生だった時機に交友関係で悩んでいたために購入したものだ。
そんな俺が今は進んで交友関係を破綻させているなんて…滑稽だ。
溜め息をつくとその本を机の隣に設置されたごみ箱に放り投げる。
本は寸分の狂いもなくごみ箱に吸い込まれていくように落ちた。
誤字脱字の指摘お願いします。読んでくれてありがとうございます