第三の公演~追憶への水先案内人~
三島の眼前に広がる火の海は絶えることなくその範囲を拡大する。
扉を静かに開けベランダに出ると、体はすでに外へとはみ出し、乗り越えた柵に手を沿えていた。三島は自室である二階から飛び降りた。
着地と同時に走る衝撃は皆無であった。
くるべき痛みはどこかへ切り落としてきたかのようにやってこない。
はっとなり自分の犯した罪に気づく。
三島は人生初の無断外出を体験したことになる。
外にいることがばれれば、厳格な父親はきっと尋常ではない怒りを示すだろう。
そんな恐怖が脳裏をかすめ、いやな手汗をかく。しかし、振り返ればもう家は見えない。
三島は小揺木の家の方向、燃える民家に向かって走り出していた。
体は軽く疲れはない。
足は人生で体験したこともないほどに動き、最高速の自転車並みの速度で移動していた。
炎はなおも弱まることなく夜空に灰を巻き上げていた。
間に合わないかもしれない。その焦燥感は更なる加速へとつながる。
そして、はるか前方を走っていた車に距離をつめることを可能にした脚力は、火事を眺めようと家から飛び出した野次馬たちを釘付けにした。三島はさぞ異様な存在として映っただろう。
身体能力が人間の域を超えていることをしばらくして自覚すると、衆目に晒されることに嫌悪感を隠しきれなくなる。
俺は見世物ではない。
しかし、減速するほど時間は残されておらず、そんな選択肢は頭に浮かばない。
暗がりの路地に曲がり、野次馬の視線から逃れると、塀に飛び乗り、さらに家の屋根に飛び移る。
着地で足を引き絞った際に生まれた力を利用し、ばねのような推進力で前進する。
足の接触した屋根は陥没し、かわらの破片が飛び散る。
いくつかの破片が体を打つことも気にせず、走り向ける。
屋根から屋根へと飛び移り移動するたびに、屋根には亀裂が生まれ陥没していく。
その破片が鬱陶しかった。できる限り移動時間を短縮するため、着地点を電柱へと切り換える。
三島は電柱から電柱へと飛び移ることで、長距離を移動することに決めた。
電柱に飛び移り始めて、早くも五本目の電柱に着地する。
その時、電柱は瞬間的に生じる負荷が原因で砕け、三島はバランスを崩し落下した。
人間らしく重力の与える冷たい恐怖が全身の感覚を鋭敏にさせ、呼吸を乱す。
とっさに電線をつかむことに成功したことが幸いし、落下は免れた。
三島の体重で電線は切れ、青い火花が散る。それを手繰り寄せ、切れていない方を中心に美しい弧を描き、地面に着地する。
大量の電撃が体を駆け抜けた感覚はあった。しかし、やはり痛みも生命の危険もない。
走ることに集中していたためどこまで来たかはわからない。
息が切れていないためあまり近づいているようには感じなかった。
着地の衝撃を最小に留める目的でしゃがんだ三島は顔を上げる。
炎はもう目と鼻の先まで距離を縮め、三島の焦りは少しだけ軽減する。
腕時計を確認すると長針は一周と少しの範囲までしか動いていない。
本来は自転車で十五分を要する地点まで、たった一分の疾走で到着したようだ。
このままの速度で彼女の家に向かえば失わずにすむだろうか。
安堵のため息をつく。だが、小揺木が生きているという確証はどこにもない。
三島は安堵するだけの余裕を自分が抱いたことに嫌気が差す。
喜んでいる暇はないだろ。早く小揺木さんのところに行かないと。
彼女の命が今まさに奪われてしまっているという可能性も否めない。
頭を振ることで自分にとって都合のいい妄想を拭い、走り出そうと前を向くと、気づけば前から男が歩いてくる。
炎の光を背に受けていたため、はっきりとは見えなかったが、距離を詰めることで黒いシルエットの正体が鮮明に浮かび上がる。
最初に男であることが、次に着ている服は黒いスーツであることがわかった。
人がいる以上、普通の人を装わなければ。
三島は常人と同じ速度でゆっくりと歩き、男とすれ違う。
男は二十代の半ばで日本人にしては珍しい赤髪と、今では多くのものに敬遠されるタバコを咥えていた。
身長は二メートル近い。そして男の最も印象的な特徴は始終振りまく喧嘩腰な雰囲気だ。
そして、出で立ち以上の何かを醸し出し、抜き身の刃のような危険さを放る。
父からは不良とは交友関係を持つことも話題に上ることも許されておらず、友達の語る不良のイメージと今まさに見る姿からの情報でしか判断できなかった三島にとって、すれ違うことさえもある種の恐れを抱かせていた。だが、それ以上に三島を恐怖へと誘ったのはチンピラのような男が口にした言葉であった。
「けっ!お前かよ。まあいい、まだやらねえ。女は正直つまんなかったんだ。お前には楽しませてもらわなきゃな」
何のことを言っているのかはわからなかった。
ただの独り言だろう。だが、女という言葉がひっかかり、三島は男へと振り返る。
するとすれ違ったはずの男は姿を消し、静寂に包まれる夜のありふれた公道のみが視界に飛び込む。
気がかりな言葉が三島の鼓動を加速させ、最悪の状況を想像させる。
三島は歩きを即座に疾走へと切り換え、目に映るすべてが捉えきることができないほどの速度で再度走り出す。
何人かの野次馬を視線の先に捕らえ、常人の数百倍の跳躍で目撃されることを回避する。
思えば俺はどうしてここまでのリスクを冒してまで彼女のナイトを気取るのだろうか。
多くの人には恋人がいて、誰もがたやすく別れ、付き合う。
俺の恋だってそれと変わらないはずだ。彼女という名の席に座るものには代用がきく。
なのに、家族との関係を台無しにして命をかけてまで頼まれもしない行動をとるのはなぜなのか。自分でもそんなことは咄嗟にはわからなかった。
この時、三島の記憶は過去の世界へと呑み込まれ、始まりの回想に立ち尽くした。