帰還と試練
怪我はないにせよ身体検査もしなければならないと、三島は救急車に乗せられた。
三島を一番最初に跳ねた男は三島の外傷が消えたことに疑問を覚えていたものの、内心で得をしたと喜び、三島も大事にしないのなら謝罪だけでいいということで話は解決した。
小揺木さんも来るとは言ったものの、これ以上夜遅くまで出歩くことは彼女の家族に心配をかけるだろうし迷惑にもなる。
大丈夫だといって小揺木さんにも帰ってもらった。
救急車の中で、三島は事故の経緯や、他の外傷の有無の確認を頻繁にされた。
その間、三島はほとんどの質問を聞き流し、ある記憶を回想していた。
俺の体に何が起きたんだ?
実は、ダンプカーが突っこんできた時、本当は避けようもなく、正面から跳ねられ乗用車やガードレール、コンクリートの塀に挟まれたのだ。それにも関わらず、今も生命は心音とともに続く。三島は原因は何か探るべく、意識を回想の世界へと向ける。
Θ
跳ねられたことはわかった。俺はまた死んだのか。
衝撃で咄嗟に閉じた瞳を開ける。
周りは薄暗く、かろうじてコンクリートの瓦礫と木材の亀裂、そして自分を跳ねたに挟み込まれていることに気付いた。どうやら死んではいないらしい。
安堵のため息をつく。それと同時にある怒りが沸々と胸を込み上げてくる。
「小揺木さんが死んでたらどうするんだよ」
怒りに身を任せダンプのフロントを踵で蹴りつぶす。ダンプの正面は紙で出来ているかのように皺を生み変形する。破片が飛び散り、プラスチックや金属、ガラスが宙を舞い、人一人が通り抜けるのに十分な空間が生まれる。
そこから腕を出し、ゆっくりと脱出していく。なんとか抜け出すことに成功し、地面に足をつけると、なおもおさまらない怒りを抱えて運転席の方へと移動し、運転手の姿を一目見ようと座席を覗き込むためダンプの足場に足をかける。
そこで愕然とした光景を目の当たりにする。
運転手は白目をむき、不規則に痙攣していた。口からは大量の唾液と泡を垂らしていた。
何だろう。持病の発作だろうか。三島は怒りをおさめ、ただ運転手を観察していた。しかし、気になることはこの男の死因だけではない。
人が持つにはあまりに異常な硬度と破壊力は一体何なのか。
どちらにしろ、この不思議な身体の変化が三島の命を、小揺木の命を救った。
普段の非力な腕力では小揺木をダンプカーの衝突範囲から脱出させることは不可能だったであろう。きっと、タナトスが体内に埋め込んだあの輝きがこの強靭な体を生みだしたに違いない。この世に帰還するには、あまりに仰々しい儀式だと思っていたがタナトスが口にした言葉の真意は三島の予想通りであった。
気づけば周りは静かになっていた。どうやら病院に到着したらしい。
医者には適当に相槌を打って早めに診断結果を出してもらおう。
無傷の三島は必要はないと思っていたが今も担架に揺られつつそんなことを考えていた。
病院内に入り、何度か左右に区画を通過するとある病室に運び込まれた。
ベッドに下ろされた後、上体を上げて病室に最初からいた若い医者を虚ろに見つめる。
「大事故って言ってたのに、僕の所に回されたと思ったら…これで被害者か。運転手の方がよっぽどひどいなんてね。珍しい事故だ」
「ドライバーの人はどうなったんですか」
痙攣していた運転手を思い出し、どのような末路をたどったのか。三島の興味を煽る。
「いやあ、ひどいよ。君は関係者だから聞かない方がいいと思うけど…」
「話してくれませんか」
「ううん…そこまで言うなら構わないけど。運転手は死んだよ。心臓発作で死んだっぽいんだけどね。なんて言ったらいいのかな。胸や首のあたりに外傷があってね。自分でつけたものなんだよ。何分も悶え苦しんでいたようなんだ。原因なんて分かりやしないよ」
「そう…ですか」
医者は救急車内でも行われた目のチェックやいくつかの反応テスト、会話の応答テストをして、CTスキャンを三島に勧め、三島はスキャンを受けた。
全ての検査を終え、服を着なおし、時計を手につける頃には深夜の一時を迎えていた。
胃がきりきり痛みちょっとした頭痛と吐き気に襲われる。
その原因は父だった。
事故処理に来た警察が家に連絡した時に、父が一時にここに到着すると言ったらしい。
今、父と顔を合わせるのは心に思い負荷を与える。父との約束を破ったのだ。
そんなことを考えていたちょうどその時、病院の前まで出ていた三島は見慣れた黒いBMWが三島の前にきっちり停車するのを見た。
車から降りるとこちらに向かってくる男が一人。
父だ。
ドアの閉開音と父の表情を見れば、内心怒りに震えていることが容易に分かった。
そして、三島と相対した父は三島を数秒見下ろすと容赦なく拳を振りおろした。
殴られたことで三島は倒れ、父を見上げる形となる。
威力は相当なものであったが、三島には痛みも外傷もない。
地面に居座る理由もないので立ち上がる。
「こんな時間まで外を出歩き、事件に巻き込まれるとは何事だ。たるんでいるぞ。三島家の長男としての自覚を持て。恥さらしが」
三島は目線を斜め下に傾け、すみませんと応答した。
「車に乗れ。家に着くまでにその浮ついた気持ちを正してやろう」
父は踵を返し、運転席に乗り込む。
それに続いて三島も後部座席に足を運んだ。
扉を開け、乗ると同時にバックミラーを確認すると父の険しい表情が映り込んでいた。
父はまさに厳格な父親といった風貌であり、白髪の混じる黒髪をオールバックにして鼻と口の間に清潔感を漂わせる髭をたくわえている。
体も三島の一回りも大きく、身長は百八十センチにも達するほどだ。
父を見て怖いと思う人が大半を占める。三島もその一人だった。
「またあの女と一緒にいたとは…私の忠告は無視したというわけだ。前も言っただろう。もう一度言うぞ。並みの家柄では我が家と関係を持つに値しない。知力が少し他をしのぐという以外に何の魅力もない女になぜ固執するんだ、賢介」
その言葉は三島には二回目だった。
「前も申し上げた通り固執などしてません」
「固執しているじゃないか。ではなぜあの程度のものと今も関係を保つ?共にいるだけでも質が下がるというものだ」
「……はい」
三島はこの考えを貫く父、更には加担する家全体を嫌悪していた。
外面ばかりよく、家では他人を散々蔑み、自分が生きてきただけのほんのわずかな人生でしかものを語れない。
他者の優しさをビジネスのための演劇であると貶め、自分の認める価値以外を無意味であると馬鹿にする。
そして、自らを着飾るために周囲の人までも思い通りの機械であってほしいと願い、その意を酌み取らなければ遠まわしに捻り潰し、全てを偶然の産物であると嘲笑い、災難だったと醜悪な笑いで酒のつまみにする父。
もうこんな人間と一緒に生きることはうんざりであり、その日々は地獄と相違なかった。
もういっそのこと壊してしまいたいという衝動に駆られる。
父が執拗に語る俺の将来。父と同じ弁護士になるという押しつけを放棄したかった。
気に食わなければ殴り、言うことを聞かなければ強制され、その度に俺に与えた屈辱を正しいことだと俺に言い聞かせ、「社会にお前を必要とする者などいるのか?社会はもっと凄惨だ。俺ならお前を裏切らないぞ」と暴力を肯定するしつけの数々。最早、憎悪でしかなかった。
それでも三島は家族を捨てられなかった。
今まで育ててくれた事実、時折見せる優しさ、そして期待していると時には褒める父はどちらの父の人間性が本物なのかという疑問に拍車をかけ、三島をこの家族に縛りつけていた。
今日の朝にも小揺木さんに謝らなければならないというのに父を怒らせてしまった。
ここまでの問題を起こしたのだ。久々の折檻もありえるだろう。そうなれば明日学校に行けるかどうか。しかし、ある希望が訪れる。
「ふん、これ以上言っても無駄だろう。これが最後の忠告だ。あの女と金輪際関わるな」
「……はい」
父は早々に説教をやめた。今日は運がいい。父の機嫌がよかったのだろうか。
三島はすぐさま「明日どのように小揺木さんに謝ろうか、どんな話をしようか、心配をかけないように検査では何もなかったことを伝えなくては」と心中呟く。
まもなく自宅に到着し、父はいくつかの注意と三島家の体裁などを三回にわたり繰り返し語り三島を解放した。こうして二階の自室に帰り、風呂に入るか否かの葛藤をし始める。
今日は疲れた、とりあえず休もう。
ベッドの上に体を倒し、天井を見上げた。白色の天井には汚れ一つなく、心を埋める言いようのない疲労と虚脱感を暗示させる。
色々なことがあった。
車に跳ねられ、死に、そして死後の世界を見て、生き返った。
この一連の流れはきっと夢なのだと思った。事故のショックで気絶した際に見た幻想に違いないとさえ思う。
他の人が体験しても馬鹿らしいと脳内で一蹴する幼稚な妄想。しかし、それが事実であることは二度目の事故で実証された。
生きているし、傷も負っていない。小揺木さんの危険も冥府での宣告通り事実だった。
三島が得た力はまさしく彼女を物理的に守ることを可能にした超常の力だった。
これでたいていの危険から彼女を救える。もう自分で何もかも選択できるんだ。
自分の無力さをこの家庭外で負わなくて済むんだ。
次第に思考は三島を心地よい眠りへと誘う。
重い瞼が二回開閉し、目の前が真っ暗になる。と同時に体にある感覚が通り抜ける。
円形に町を拡散した波動に三島は飛び起き、吐き気に襲われた。
ベッドから転げ落ちてそのまま大口を開け、地面にへたり込む。
この感覚は冥府でも味わい、つい先ほどの事故の時も嗅いだ無臭の危機感。
あらゆる感覚を混乱、麻痺させ胃に負担をかけるこの空気は一体何なんだ。
何が起きている。
そんな焦燥感が三島の心身を揺さぶる。
自然に動いた手が携帯を開き、何か異常な着信はないか確認させる。不明確で、嫌な予感がしたからだ。
画面上には三件のメールが届いており一時六分と表示されたメールが不思議な引力を漂わせ何と表現すべきか迷う圧迫感を与える。
そのメールの送り主は事故後にも一緒にいた小揺木のものであった。
いつもならば喜び勇んでメールを閲覧するが、今回ばかりはなぜか襲う確証のない恐怖が体の動きを鈍らせる。
小揺木さんに何かあったのか。
メールを開く。そこに広がった文章は――――――いつもと大差ない小揺木のメールで、これといった事件を匂わせるような内容ではなかった。
ほっと一息をつき、三島は微笑む。体の緊張も次第に解けていく。
内容は、今日の事故で俺が怪我をしていないかどうかの確認と、しばらく夜は出歩けないというものだった。そして、画面を下に送ると気が動転していたために感謝の言葉をかけられなくてごめんという内容が記されていた。
自分の思い過ごしだったと安堵し、小揺木の感謝に頬が緩む。
メールの画面を次の行に移す。
すると内容が途中なのに文は終わっていた。
一瞬、凍るような錯覚を覚え、目を見開く。
どうして途中で止まっているんだ。途中で間違えて送信してしまったのか。
頭の中には疑問が飛び交い、不意にまた恐怖がぶり返してくる。
表情がひきつる。心配のしすぎであることを証明しようと窓の方向へと足を運んだ。
視界を占める光景のほとんどは夜の穏やかさに包まれ静まりかえった町の姿。
俺の家からちょうど東の方向に小揺木さんの自宅があると聞いた。
東の方角へ目を凝らすと三島の表情は引きつることをやめる。
三島の顔は恐怖に染まった。目線の先から瞳をそらすことができない。
三島の瞳に映り込む紅の輝き。
東は朝のような明るさに彩られ、多くの家屋が、躍る炎の中でシルエットだけを浮かび上がらせる。
手のひらから滑り落ちる携帯電話。
三島は動きだした歯車が急激に回転速度を上げる様を知る由もなかった。
舞台で踊る黒い死はそこにいる全てに向けておぞましい笑みを零し囁いた。
「本当ノ恐怖ハコレカラダ。生キ抜クガイイ、王子様。オ姫様ハ君ノ助ケヲ求メテイルゾ。サァ、三回目ノ公演ヲ始メヨウ」
一層、醜悪さを増すその姿を目視出来る者は現界には存在せず、その声を聞くことさえも出来る者はいない。
冥府の神は嬉しそうに紫色に輝く満月に手を伸ばした。
「コノ物語ハ長イゾ。マダマダ、死ノ喜劇ハ何百モ続ク。コノ舞台ヲ君ハ生キ残レルダロウカ。アァ、神ヨ、ソシテ世界ヨ。彼女ニ祝福アレ…」
ホントわかりません




