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世界よ...彼女に祝福あれ  作者: 語話 紡(かたりわ つむぐ)
3/10

逆巻く運命


 信じたくなどなかったし、信じられるはずもない。目の前の巨人が口にしたことは事実なのか。

 確かに俺には死んだ記憶ある。何より、この無痛はおかしいのだ。

 着用しているブレザーは血で赤く染まり、顔にもべたつく血液が数滴ほどかかっていた。

 感覚はないため、違和感はないにしろ、この傷で立ち、なお且つ平気でいられるはずはない。

 脚は今も歪に骨折し、立つことなど不可能だ。それでも立っているし生きている。

 そんなものは現実ではない。そう、これは体のいい夢だ。夢に違いない。

 人は死ぬ間際に脳から大量の快楽物質が分泌されると何かのテレビ番組で言っていた覚えがある。

 そうだ。これはまだ生きたいと足掻く俺が、俺自身にまだ生きる希望が残されているという喜びを与えるために演出した虚構にすぎないんだ。

「俺は死んだ。死んだんだ。彼女をかばって死んだ」

 この先の人生、どうせ生きたところで、なるように流れ、親の望むように大学へ進学し、適当に生き続け、煩わしい人間関係に束縛され、生きた結果死んだはずだ。

 ならばこの命、好きな人のために終わらせられるなど最高ではないか。

 まるで命をかけ、人民を救済し、死地へと誘われた英雄のようでもある…

 嘘だ。俺は生きたかった。

 この死は正直にいえば許せない別れだった。しかし、遅かれ早かれ人はこの摂理を避けられない。

 そう死ぬのさ、人は。こんな後悔を抱えて死ぬのだ。

 皆が皆そうではないにしろ、後悔や野望を持って死ぬ人間が大半だ。それに比べれば俺の功績は輝かしい勲章に等しい。

 三島はそう言い聞かせ、止めどなく流れる涙を拭い、漏れる嗚咽を必死で抑えた。

 できることならまだ現世での有意義な人生を謳歌し、愛する彼女と他愛もない話をして普通のカップルのようにデートをしたり、ともに人生を作りあげて笑いたかった。

 俺は死んだことは信じられない。しかし、目の前にいるこの黒い化け物は信じないことを否定するかの如く絶対的な死を漂わせ、事実であると俺の心を嬲る。

 眼前に直立するタナトスは何かおぞましい空気を垂れ流し続けている。おそらく死だ。空気を這うように伝播する揮発性の殺戮は現在おかれた状況が虚構でないことを物語る。

 もう戻らない、もう戻らないんだ…なら最後ぐらい俺の決断を誇らせてくれ。続くであろうと妄想した時間を欲し、悔いて泣く最低で女々しい奴のために。

「フハ、フハハッ、ハッハッハッハッハッハッハ」

「何がおかしい?人を嘲笑うのがそんなに楽しいかよ」

 タナトスは三島が咎めて直もその不気味で盛大な笑いをやめない。

 そしてぴたりと止んだ。その直後、眼光に鋭い死が混じる。

 と同時に、俺はかなりの吐き気に襲われ、体が反射的に丸まり、地面に向かって胃の内容物をぶちまけそうになる。

 それでも吐き出さなかったのは三島が死んでいるため、何も出る余地がなかったからだろう。

「小サキ英雄ヨ、オ前ノ前ニイルモノハ、コノ冥府ノ支配者ダ。慎ミ、恐レヨ」

 タナトスの目はやがて穏やかになり、内包した死は先ほどぐらいの胸のむかつきにまでおさまった。

 タナトスの体は空気に溶け、黒い瘴気へと変化する。

 瞬時に移動したタナトスは俺の目に前に白さを通り越した冷たい顔を向ける。

 死んでいるにもかかわらず、次第に苦しくなりまたも吐き気が襲う。

 突然、目の前に現れただけだというのにすさまじい威圧であった。恐怖すら感じる間もなく、そのたった一回の挙動で俺は疲れ果ててしまった。

 まるで感情を刀で突き刺され、何回も左右に動かし抉られたかのような痛み。それだけの死をタナトスは無意識に垂れ流している。

「ドウダ?コノカグワシキ我ガ瘴気ハ…コレコソガコノ地ガ冥府デアル証。オ前ハ死ンダノダ。受ケ止メヨ。辛ク、苦シク、寂シイダロウ?誰モガ、オ前ノコトナド忘レル。生キタ意味ナドナイ。タダ生命ハ等シク無駄ニ廻リ死ス。世トハソウイウモノダ」

 こいつ俺の心の声が聞こえるのか。

「違う。俺は…俺は寂しくなんてない。小揺木さんを守ったんだ。愛する人のために死ねた幸せものなんだよ」

耳元で囁くタナトスに小さな反論するのが限界だった。もう立っていられない。片膝をつきかけたその時、タナトスは三島を嘲笑うことで得ることができる快楽に酔い、今までの比にならない絶望を……神のみが知る真実を口にした。

「女ハ、オ前ニ愛ヲ与エラレサゾウレシカロウ。コレデ一分後ノ死モ後悔ナク迎エラレルトイウモノダ。キット女モ幸セダロウ。オ前ト冥府デ生キラレルノダカラ」

「…何…何を言っているんだ。俺は小揺木さんを助けた。彼女はもう安全だろ…?」

 彼女が一分後に死ぬ?冗談だろ。

 三島は今、絶望と後悔に染まった顔をしているであろう。タナトスはうれしそうに再び笑う。まるで影そのものが震えるような黒い…

黒い嘲笑だった。

 死は俺から命だけでなく存在した意味までも殺めるのか。

「女ハ死ヌノダ」

 思考の追いつかない三島の顔が驚愕に染まる姿に、タナトスは畳み掛けるように再度耳元でささやく。

「ああああぁぁぁあああぁぁぁぁあああぁぁぁぁあ嗚呼あぁぁぁあぁあぁぁああぁぁあ」

 錯乱した。

 体を捩り内側から燃え滾る負の感情に怒りが加わり、一層苦しみに悶えた。そんな三島の間近に顔を近づけ、絶望の香りを胸一杯に堪能するタナトス。

 あまりにも醜悪すぎるその姿が三島の瞳に飛び込んだと同時に、精神の限界を超えた怒りを拳に乗せ、その矛先をタナトスに向ける。

拳はタナトスに触れたが、タナトスが纏う何かに威力を止められた。さらに接触した拳が激痛を伴い崩れる。

 三島は予期しなかった痛みに地面に転がり身をのけぞらせ、連鎖する痛みの螺旋階段を転げ落ちていった。

 タナトスは触れられたことに驚愕して目を見開き、殴られたことで横に向いた視線をどこに向けるわけでもなく固まっていた。

 刹那、黒い雲に覆われていた空から六つの煙の柱が大地へと向かい伸び始める。ものすごい速さで接近する黒い瘴気。どれもがタナトスとは異なる死を振り撒き舞う。

 程なくしてタナトスの目の前の左右へと三人ずつ降り立った六本のどす黒い死が姿を現した。体を覆うボロボロの布きれ。しかし、纏うそれは大きく、ローブと読んでもよいぐらいの体裁は取り繕っている。ローブから覗くのは白くやせ細った筋肉と骨と皮で構成された手足。そして全員が頭蓋骨の面を装備し、表情は伺えない。手には一人につき一本ずつ刀身が二メートル以上にも及ぶさびた大鎌。

 整列したそれらはタナトスの無意識に垂れ流す死を超える力を限界まで練り上げ放出しローブをはためかせる。

 手にした大鎌を振り上げ六体とも三島に歩み寄る。

 一人が三島の襟首を掴み持ち上げると、鎌を残像が残るほどの速度で回転させる。

「冥府の支配者にナンと言う暴言ヲ…コれヨり大罪人、三島賢介の処刑ヲ開始すル。罪状は上記ニ示さレし大罪」

 快楽に浸る笑い声を発し、見据える頭蓋からは赤い眼光が禍々しく溢れ三島を射殺す。

「ガキが、来世でハ礼儀を弁えルことダナ」

 しわがれた声の死神は白目を剥き痙攣する三島の首へ容赦なく回転の遠心力に死を付与した鎌を振り下ろす。

 鎌は三島の首を吹き飛ばした…はずだった。しかし三島はまだ痙攣し死神の手に持ち上げられたままだった。もちろんまだ首はつながっている。

「ヨイノダ、現時点ヲモッテ三島賢介ヲ我トノ契約者トシテ登用スル。コヤツニ手をカケタモノハ等シク殺メラレルモノト考エヨ」

 三島が生存することを可能にした要因。それは、三島の隣に速度の概念を凌駕する形で移動したタナトスが大鎌の鋭利な刀身を人差し指で受け止め風化させた結果であった。

 タナトスの号令が冥府の大気を震わせると同時に六人の死神は全て方膝をつき、タナトスにこうべをたれることで畏敬の念を現す。

 その過程で三島は死神が手を離すことで自由を手にし、痛みから解放されることにより精神の平静を取り戻す。

「下ガレ。我ハオ前達ヲ召還シタ覚エハナイ。他ノ大罪人ノ処刑ヲ急ゲ」

「お任セ下サい、冥府の神ヨ」

 死神達は低頭をさらに強調し、瘴気を体外に放出するとそれぞれが別々の方角へ飛び立っていく。煙の柱はしばらくして彼方へと消えた。

「どうして俺を助けた。殺せばいいだろ。どうせ死んでるんだろ?」

「勘違イダナ。ココハアクマデ選定スル場…コレヨリ最下ニ真ノ死ガ有ル。オ前ハ必ズ冥府デノ死ヲ後悔シタコトダロウ。ソレニ…ココデオ前ヲ失ウニハ惜シイ」

 タナトスはクスクスと笑い、三島が触れた頬をさする。

「オ前ハ面白イ、面白イヨ。我ニ触レタモノハ何千万年ブリダロウ。殺スニハ惜シイニ決マッテイルダロ。通常ノ生命ハ感情ガ先行シヨウトモ、本能ガ我ヘノ怒リヲ抑エルモノナノダガ…オ前ハ触レタ。理性ガ本能ヲ上回ッタノダ。賞賛ニ値スル」

 タナトスは目を細め腕を目一杯広げる。重々しい瘴気が充満し、三島の足元を冷たい感覚が滑りぬける。タナトスの目の前には紫に輝く球体が数個、禍々しい気を放ち出現する。

「一ツダケ願イヲ叶エテヤロウ。何デモ良ィ、何モカモクレテヤル。オ前ノ眼前ニアルコレハ、ソウイウ代物ダ」

 三島は唐突な展開に戸惑うものの、確認しなければならないことがあった。

「彼女は…一分後に死ぬのか?」

 タナトスは小さく笑い、目を細める。表情は運命に翻弄されるものを嘲笑う神にふさわしい偉大で醜悪な破顔であった。

 一分後というキーワードを気にし、時計を見ながら質問をした三島にタナトスは呟く。

「ソウダ、女ハ死ヌ。一分後ダ。シカシ、安心シタマエ。冥府デハ全テガ等シク死ス。時モ例外デハナイ。我ヲ恐レヌモノガ時ヲ恐レルナ」

 タナトスの言うとおり秒針はその細い姿を未来に傾けることを忘れていた。

「そうか…願いは何でもいいんだよな。なら…彼女を殺さないでくれ。それが俺の願いだ」

 その言葉の十数秒、タナトスは黙り込んだと思うと堰を切ったかのように大笑いした。それも今までにない巨大で、心からの嘲笑である。

「我ニハ無理ダ。女ノ死ハ避ケラレヌ。オ前ガ救エバヨカロウ?我ノ能力ハ、オ前ニシカ反映シナイ。」

 タナトスの言葉にみるみる三島が顔を歪めると、対照的にタナトスは笑みを広げる。

「女ハ…救エヌ」

「何でも願いを叶えると言ったじゃないか。」

タナトスの嘲笑に、馬鹿にされた、約束を破られたという感覚が三島の体を震わせる。怒りに声を荒げ、地面に転がる石を拾い上げ即座にタナトスめがけて放り投げた。

 石はタナトスに触れると同時に塵となった。

「一度ナラズ、二度マデモ我ニ牙ヲ向クトハナ。面白イ人間ダナ、オ前ハ。アノ女ヲ救ウコトガ誇リナノダロウ?オ前ガ救エバヨイ」

「俺はもう死んでるんだ。無理に決まってんだろ」

 タナトスは微笑し、空中に生み出した紫色の死を垂れ流す塊をわしづかみにする。 

「ナラバ、オ前ノ死ヲナカッタコトニシヨウカ」

 タナトスはまるで簡単であるかのように生命の逆転が可能であることを仄めかした。

「何を……できるのか!?」

「何デモ叶エルト言ッタダロウ。」

 刹那、三島はタナトスの述べた意味を理解し興奮すると冥府で初めて笑う。

 タナトスはその姿を見つめ、少々落胆したようだが、再び穢れた微笑を披露した。

「スッカリ忘レテイタ。最後ニ質問ダ。オ前ハ女ト世界、ドチラヲ選ブ?」

 唐突に投げかけられた質問に三島は何かの意図を感じたものの、迷うことなく素直な心で彼女を選ぶと宣言した。

 何か歯車が噛み合ったかのような金属音が響き、三島の後方から無風だったはずの世界にゆっくりと懐かしい風がそよぐ。

「フンッ、ソウカ。ナラバ、運命ヲ捻ジ曲ゲルホドニ洗練サレタ力ヲ…運命ヲ相手取ルに相応シイ程ニ莫大ナ力ヲ…」

 風の対流に振り返ってみたものの視界には黒々と続く地平が続くだけであった。背に形容しがたい気配を感じていた三島は気づかない。タナトスが瘴気となって移動したことに。三島が前を向き直ると、三島の視界いっぱいにタナトスの醜悪な笑顔が映りこむ。

「授ケヨウ」

 タナトスは紫に輝く球体を三島の胸部に無理やり埋め込む。

 胸は何の抵抗もなく裂け、血が噴出する。同じく口からも大量の血液を撒き散らした。

突然の攻撃に三島はどうしてこんなことになったのか激痛で思考力が麻痺した中でかろうじて考察していた。

 まさか、俺はこいつの遊びに付き合っていただけなのか。俺の願いという希望を曝け出させ、踏みにじり笑うタナトスの遊びに…

 俺は死ぬのか。そういった考えが脳裏をよぎるが、開いた傷口からの血流は徐々に勢いを衰えさせ、裂傷はみるみる塞がっていく。同じくしてもげた腕も綺麗に再生した。

 三島は自らの身体が完全に再生したことを確認し立ち上がる。

 どうやらこいつは本当に俺の願いを聞いてくれたらしい。

「コレデヨイ、コレデ。立テ、三島賢介ヨ。向カエ。オ前ノ望ム欲望ヘ」

タナトスが指を指す方向、背後に再び三島は振り返る。

 後方には先ほどまでは視認できなかった、屍で構成された高さ数百メートルにも及ぶ巨大な扉が、まるで最初からあったかのような傷み具合で出現していた。

 タナトスは扉に向け、突き出した人差し指で何やら空中に文字を刻む。

「ソノ先ガ現界ダ」

 タナトスの小さな挙動によりゆっくりと扉は開いていく。入り口からはその開放される範囲に従い風圧を上昇させる。そこから吹き出す風の香りはどこか懐かしいものだ。

三島の感じた風の正体はこの扉から漏れていた隙間風だったのだ。

扉が完全に開くと三島は迷うことなく駆け出した。

 嘘くさい話だったが、どうやら本当に死をなかったことにできるらしい。

 背にはまだ刺々しい瘴気の波を感じるが、三島の頭にはタナトスのことなどもうなかった。三島の脳内を満たすものは後悔から生まれた反省の念。

 俺はまだ彼女を守れるのか。なら今度こそ失敗しない。上出来の人生にしてやる。俺はもう…絶対に悲しませない。

 そう胸に誓い、三島は冥府と現界を繋ぐ門をくぐった。

 冥府に残されたのはタナトスと亡者たちのみ。生者は地上へと帰還した。

「ソウダ、戻ルノダ。冥府以上ニ汚レタ世界ヲ創リニ…」


Θ


意識が急降下するような錯覚を覚え、全身の触覚が再生した。

 体には重力や疲労によるけだるさが伸し掛かり、うまく息を吐き出せない。

 思考は数秒停止していたが徐々に回復していく。

 と、突然頬に温かい雫が落ちる。

 それはゆっくりと顎の方へ流れていき冷えていった。

 その感覚に瞼を開けるとそこはまぎれもない事故現場であった 。そして視界を占領するのは愛する彼女の泣き腫らし朱色に染まった顔だった。

 止めどなく溢れる彼女の涙はまた数滴頬に降り注ぐ。

「小揺木さん、俺は大丈夫だから泣かなくていいよ」

 小揺木は死んだと思っていた人間に話しかけられ声を忘れ、泣きじゃくり擦っていた瞳を見開くと自らの目を疑った。

「あれ…三島君……大丈夫なの?」 

「一応…生きてたみたいだ」

 出来る得る限りのひきつったはにかみで返事をすると小揺木は安堵の涙を流し「よかった」という言葉を連呼する。

 小揺木の心配そうな顔が笑顔になり、三島も内心よかったと呟く。

 いつまでも小揺木さんにもたれかかるのは迷惑だろうし恥ずかしと三島は上体を起こそうとする。しかし、体は意に反して動かない。

 体の状態を目線だけを移動させることで確認する。

 その直後、三島は驚いた。

 胸部から腹部にかけて血まみれになり、足は今も奇妙に曲がり、松の如く変形していた。

 だが驚くべき出来事は更に重なった。

 負傷した部位が目に見える速度で再生しているのだ。下半身は何やら骨か何かの砕けるような音を響かせ、脳には異常な熱さが伝わる。

熱が脈打つ度に血肉が蛇のようにせわしなく蠢く。

まるで芋虫のプールに両足を浸しているかのようだ。

どうしてこんな早さで治っていくんだ。それにどうしてみんな気付かない。

小揺木は三島の足を見ていないためそれを垣間見ることはないことには納得がいくものの、野次馬たちもこの異様な光景に気付くことがないように思えた。

三島の鈍い思考力はこの以上をどこかで見た。思い出せと急かす。

そして、先ほどの焼きついた記憶が流れ込み脳裏に浮かびあがる。

自らの死、冥府の神、小揺木の未来、契約の後の帰還。

思い出した。

 まさにその瞬間、三島は完治したことで融通のきくようになった上体を強引に持ち上げて、腕時計を確認する。

 秒針は冥府での出来事から四十秒ほど経過していた。

 頭にはタナトスの語った一分後に迫る、小揺木の死の宣告が反響する。

 あと二十秒の猶予しかない。

 その思考を遮断するように冥府で幾度にも渡り嗅いだ無臭のにおいが吐き気を誘う。

 急に何だ…?このにおいは。

 周囲にはこの異様な臭いに気付いている人々はいないようだった。

「小揺木さん、早く安全なところに逃げて」

「えっ、どうして?それよりも三島君のことだよ。すぐに救急車がくると思うから…」

「いいから早く」

 戸惑う小揺木と必死な三島のやりとりの最中、周りを埋め尽くす野次馬が急にざわつき、数人単位で散り散りに逃げていくのが見えた。

 何が起きたのか…野次馬が走る際に振り返る視線を追うと、三島は眼前に広がる予言された死を見ることとなる。

 明らかにスピード違反であろうと推測されるダンプカーが数十メートル先に迫っていた。

 駄目だ。これに跳ねられたら次は確実に死に至る。

 もちろん、大型車両はよけることをしないだろう。いや、この細い路地でよけることなどできない。

 ハンドルを左右どちらかに倒しただけで周りの塀ブロックを砕き、民家を蹂躙することになる。

 三島は小揺木の肩を掴み、横に突き飛ばした。

 ダンプカーに巻き込まれない距離まで吹き飛ばされた小揺木は困惑した顔で三島を見た。

「ごめんね、小揺木さん」

瞬間、三島の姿は消えた。いや、消えたというのは正しくはない。小揺木が見たもの。それは猛スピードでダンプカーが三島を跳ね飛ばし、そのまま三島をはじめに跳ねた白い乗用車とガードレールを巻き込みながら塀ブロックを貫通し、民家に突き刺さるまでの過程。小揺木の目の前には破壊された物体の破片や砂埃が舞う。

状況を理解した小揺木の顔は血の気が引き、表情は恐怖と悲しみに歪む。

「い、嫌あぁぁぁああ、三島君」

 突き飛ばされた痛みなど感じない。小揺木は自分のために二度も犠牲になった少年の名を叫び、ポケットから携帯電話を取り出す。

 しばらく通話までベルの音が響く。

「早く、早く。お願いだから早くかかってよぉ。三島君が、三島君が死んじゃうよ」

 ブツッという音と同時に119との回線が接続された。

「こちら119番です。火事ですか、救急ですか」

「私のために三島君が死んじゃう。どうすればいいですか」

「救急でいいですか。そちらの場所はどこですか」

「ば、場所…私の家の近くだから…」

 いくら小揺木が助けを求めようとも、場所を特定できなければ事故現場に向かうことは不可能である。

 少し冷静さを取り戻した小揺木は嗚咽の混じる声で説明し始めた。

「えっと、大古方市 東台の…えっと、わかんないです」

 どうしよう。ここが何丁目、何番地かなんて分かんないよ。

 小揺木はどこかに住所表記がないか探そうと立ち上がりかけた。その時、携帯電話を奪われた。

「もしもし、ついさっきそちらにたくさんの電話がいってると思います。その指定された場所がここの住所だと思います。それじゃ、失礼します」

 その言葉の後、即座に回線を切断し、通話を終えると携帯を持ち主の手にそっと戻す。

「どうして、どういうこと?」

 小揺木は目の前の光景に目を丸くしていたが、そんなことはどうだっていいと顔を安心と喜びに染める。

 小揺木の視線の先には砂埃を被るものの、いたって健康な三島がいた。小揺木からすればありえないことだった。三島は確かにダンプに跳ねられた。見間違ったのだろうか。

「もしかして小揺木さんまた泣いたの?早とちりすぎだって」

「そんなこと言ったって仕方ないじゃない。三島君、死んだと思ったよ」

「まあ、危なかったけど…ほら、大丈夫でしょ」

「三島君、すごいね」

「いや、すごくないよ。説明できればいいんだけど」

 三島は少し黙ると、どう説明しようか考え込み、小さく唸る。

「簡単に言うと、ただダンプカーを避けただけなんだよ。だから無傷だし何ともない。さすがに俺も二回は跳ねられたくはないし。事故からの無傷の生還みたいなの期待してたならごめん。カッコ悪いよな」

 何を恥ずかしいこと言ってるんだろう。

はにかむことでごまかす三島に小揺木は頬を伝う涙を拭い満面の笑みを浮かべた。

「そんなことはどうだっていいや。三島君が生きてたし。でも本当に跳ねられたと思ったんだよ」

 三島は時をさかのぼれたことに本当に感謝した。

小揺木さんが泣き止んでよかった。

三島を抱えている間、小揺木はずっと泣いていたようだ。

 俺のためなんかに泣くなんて、小揺木さんは相変わらず優しい人だ。

 三島の心を埋める充足感は無意識のうちに「ありがとう」と感謝の言葉を述べさせる。

「んっ、何?」

 小揺木は三島の発言の意図を知らない。そのため、疑問を口にする。

「いや、なんでもないよ」

「なになに、いったい何?」

 小揺木は気になり、さらに問い詰める。

 三島はどう返答すればいいのか悩み、時間が必要だと手を前に突き出し、詰め寄る小揺木をなだめようとする。

 それと同時にサイレンを響かせ救急車が曲がり角から現れる。

 救急車の周りには避難した野次馬が大勢集まっていた。

 救急車が止まり、中から救急隊員が下りてくる。

彼らの対応もしなくてはならない。三島は急いで小揺木に「ありがとう」の真意を伝えようと考えた。おそらく包み隠さず伝えた方が何かと都合もよいだろう。

「小揺木さんが生きててよかったなあってこと。本当によかった」

 三島がそう述べると小揺木は笑う。恥ずかしそうな笑みだった。

「そう。私も三島君が生きててよかったな。これからよろしくね、賢介」

 突然名前で呼ばれ、三島は顔を赤くする。

 さて、色々な問題は山積みだが一つだけ言えることがある。

 生きていて本当に良かった。


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