冥府来訪
視界には黒としか表せない世界があった。感覚は感じない。しかし、何か漠然とした冷たさが肌以外の形容しがたい受容器官を刺激していた。心とでも言うのか。
「ここは、どこだ」
少年は我に返り、辺りを見渡した。
目の前は闇に包まれていたが、目視することができるという不可解な状態。
なぜこのような場所に自身がいるのかさえ分からない。しかし、それさえも頭から吹き飛ばすくらいの優先事項が心を凍てつかせる。視線をその原因に向ける、と。さほど遠くない場所で"それ"は黒く微笑んでいた。
その瞬間、頭の中につい先ほどまでのすべての記憶がコマを早送りするようになだれ込み、すさまじい吐き気に襲われる。
記憶は錯綜している。しかし、確かなことが一つだけあった。
「お、俺は……死んだ……?」
少年は五分前に起きた出来事を遡り始めた。
Θ
あれ…何が起きたのだろうか。
辺りが人ごみと喧騒に包まれ、少年は痛みと生温かさに包まれていた。
空という大仰な天井には満月が煌々と照り、街はそこから伸びる光に当てられる。そのためか夜の闇に抱かれたこの街のオフィスビル、高層マンション、全ての建物は例外なく青と黄色のベールに染め上げられ、一種不気味に佇んでいた。
全身を鈍い痺れが、悶絶するほどに熱い痛みがのた打ち回り、急速に体温は低下していた。
周りに大勢の人がいることはかろうじて確認できるものの何も聞こえなかった。
たった数秒の間に聴覚細胞は死滅していた。少年の死を避けられぬものと嘲笑うかのように。
視界も徐々に狭まり、意識も遠退いていく。
少年の世界に映り込んでいる大半は少年を抱きしめ抱えて大泣きしている少女。
他には……視界に入りきらないほどに天に伸びる灰色のオフィスビル。そして、だだっ広い交差点。そして、歩道に侵入するフロントが凹の形にへこんだ乗用車。色は白く箱型という以外にこれといった特徴はない。
視線を落とすと自分の脚が見える。両脚ともありえない方向に曲がっていた。そして、腹部に目を移すとグロテスクな光景が広がる。シャツが避け、理科の教科書でしか見たことのない内臓が覗いている。そして、灰色の地面には盛大に鮮血が撒き散らされていた。
なるほど、これは助からないな。
少女の声は聞こえないが、嗚咽は見ているこちらも息苦しくなる形相だった。
本当に俺は駄目だな。どうして俺はこう、守りたいものを悲しませてしまうのか。
俺の死因は平凡すぎて笑いたくなるが、交通事故らしい。運転手は中年の男性で、異常な量の汗をかき、慌てて119に連絡をしていた。しかし、会話の内容は分からない。
俺を抱える少女は、小揺木天音。高校三年生で俺は彼女とは同年代である。
俺はつい先程、車道を大きく逸れた車が彼女に迫っていることを知り、咄嗟に彼女を突き飛ばして、代わりに跳ねられた。
どこかの臭いドラマのワンシーンのような出来事。けれども、そんなドラマでは平凡で陳腐だと視聴者がつまらなそうに呟く事故でさえ、当事者になればとても勇気があること、非常に苦痛なこと、そして誇らしいと自分でも思えることを知った。
体に広がる痛みは完全に消えて、もう感覚という感覚はなかった。それでも脳は生きているため思考は続く。
俺は数分前に小揺木さんに告白した。2年間の恋だった。彼女はそんな長い間、俺が彼女を愛していたとは知らなかっただろうけど。
告白は成功、俺は小揺木さんと付き合うことになった。
そのちょっと先の未来が死というのは、些か残酷すぎるだろう、神様。
だが、よかった。俺はもう死ぬけど、小揺木さんが傷一つなくて。後は少女が泣かない結末だったなら上出来だった。それはやはり望み過ぎ……かな……
Θ
ここからの記憶はもうない。
今いる暗黒にどうやって移動してきたか。そしてここはどこなのか、見当もつかなかった。だけど、自然と笑顔が零れた。
俺は彼女を守って死ねたらしい。
地平線の向こうまで途方もなく伸びる闇。
分かることはきっとこの世界には生命はいないということ。荒廃した大地がどこまでも広がり、枯れ果てた木々が地面にめり込む。黒い太陽からは紫の光が降り注いでいた。
本来、影ができる場所が淡く紫に光り、逆に光の降り注ぐところはおぼろげに何かがあるといったようにしか認識できやい。
ここはいわゆる地獄なのだろうか。
しかし、そんな思考をする余裕すら失う事態に、今俺は見舞われている。
感覚がない世界でただ一つ、心を凍てつかせる原因に、俺は見つめられている。
それは、闇の中でも霞むことなく、黒を食らうように立っていた。身長は少年の二倍以上で、体からは無色透明の何かおぞましい空気を垂れ流していった。馬鹿げているが俺はそれが死だと感じた。
顔は中性的で男性か女性かわからない。しかし、そんなことはどうでもいいと思わせるくらい顔色が青白い。最早、青白いを通り越し、ただのガラスの彫刻にも見える。
それが低い声で笑っていなければ少年も何かのオブジェだと思っていただろうし、今でもそう信じたかった。
「フフフフッフ…中々ノ男デハナィカ。女ヲ守リ冥府ヘト至ルカァ…実ニ面白カッタヨ」
「お前……何なんだよ」
胸を突き刺す不可解なむかつきについつい口調が荒くなる。しかし、少年の体は無様だ。この化物を視認した時から震えが止まらない。
絶えず形を変える裾野の長いローブを着た巨人は俺の情けない姿とそれを作ろうように吠える矛盾に、また小さく笑った。
「スマナィ、自己紹介ガ遅レタネェ」
闇は俯き、低い声で微笑しながら生きとし生ける全てを殺めるのに十分な瘴気を垂れ流す。
「我ハ、亡者タチノ溢レル世ヲ統ベ、死者ガ崇メ仕エル王。現界ニオィテ我ヲ目視スルモノハ皆、一様ニ絶望ノ涙ヲ流シ、恐怖ニ溺レル。ソウ、我コソガ…冥府ノ神ダ」
そして恍惚の笑みを浮かべ、闇は極端に長い両腕を広げ叫んだ。
「ヨゥコソ、冥府ヘ……三島賢介」
これが俺の物語の終わりだとは思えど、始まりだとは思わなかった。ここから俺の長いようで短い1ヶ月。非日常の歯車が静かに回り始めた。