第四公演
三島は病院にいた。
今は三時半近い。小揺木を横たえた場所まで戻ると新たな救急車が駆けつけていた。救急隊はあまりの惨状に言葉を失い救助活動さえもせず呆けている。周囲一帯には無数のサイレンの音がこだまし消防車があたりの炎を鎮火していた。三島らに気付いた救急隊員は二人を救急車に搬送し、ダンプとの交通事故でお世話になった病院に二時半頃にはたどり着いていた。
彼女はすぐに病院で検査を受けると軽い酸欠で気を失っただけであることが判明した。三島は胸をなでおろし、やっと安心を得ることができた。しかし、彼女が目覚めないことに医者も少しばかり心配しているようで三島も何かあの男にされたのではないかという懸念が募っていた。それと並行して第二、第三の心配が休む間もなく襲う。
第二の心配は当然のことながら、タナトスの末席と名乗るあの化け物どもがまた小揺木と三島を襲うかもしれない可能性であった。三島はタナトスとの契約から半日かからぬ間にやってきたあの化け物が、今まさに現れるのではないかと警戒を緩められずにいた。
そして第三の心配。それは無断外出が父に発覚したことだ。救急隊員の身元確認で自宅の電話番号を聞かれ、最初は嘘をついた。当然のことながらそんな嘘はばれ、自宅の正しい番号を教えなければ彼女との同伴は許されないと告げられた。彼女とのつながりを証明するものはなく、彼女の祖父母は死亡していたため、やむを得ず自宅の番号を知らせるに至った。これは後々面倒なことになるだろうと容易に想像できた。
救急隊員が無線で連絡を取り合う。そこから漏れる会話で三島はタナトスの恐怖を実感する報告を耳にした。
辻本という男が現れた時に放ったタナトスで小揺木と三島を除くあの場にいたすべての人が死んでしまったことだ。死因は一酸化炭素中毒ということにらしい。だか、どう考えてもタナトスが原因だとしか思えない。目の前で大勢が死んだ光景が目に焼き付いていた。
「一酸化炭素中毒? 違う。奴だ」
その声に、「どうしました」と反応する救急隊員。三島は顔を背ける。
「何でもないです」
それから。
三島は病院の一階に並べられた椅子に腰かけ父を待っていた。一度にいくつもの障害が押し寄せ、生きている心地がしない。尺度の違いはあるものの、父も三島にとっては無視できない恐怖の対象であった。だが、三島にはもう父を恐れ続ける余裕はない。
彼女は守らなければならない。これからあの化け物を退けるだけの力と時間が必要だ。それに彼女と約束した。
「父のせいにはしない。すべて自分の意志で決めていくんだ」
もう形だけの家族ごっこに付き合う必要はない。俺はきっと今まで家族に嫌われたら世界中が俺を必要としてくれなくなるものだと思っていた。誰かに必要とされなければ生きている意味はないと思っていた。そんなことはないのに。俺の生き方がおかしいとようやく気付くことができた。
両手の指を絡め、床を見つめていると体中に毛虫の這うような違和感が押し寄せる。あまりの死者の数に受け入れきれなかった病院は静寂に包まれ、見舞いに来るべき家族もろとも死んだこともあり、大事件にもかかわらず院内は閑散としていた。その中で明確な対象に向けられた、突き刺さるような視線を感じる。静寂を切り崩すように自動ドアの開く摩擦音と振動音がクリアに三島の耳に反響する。
顔を上げ音の方へ目を向けると、憤怒を剥き出しにした父が足早に三島に近づいていく。目の前につくと手を振り上げ、三島の頬を平手で打つ。三島は吹き飛び椅子にぶつかった。
「お前はどれだけ恥をさらし、どれだけ私を虚仮にすれば気が済むんだ。本当に私の息子か。この出来損ないが」
荒い息をつき、目を血走らせた父が唇をかみしめるのを見ると、形だけでも心配をかけたことに対する謝罪をしなければならないと考えた。
「夜遅くに無断で外出してすみませんでした。友達の家が火事に見舞われていると気が気でなく、考えなしに飛び出してしまいました。今後、一切このようなことは心配はかけません。すみませんでした」
父は三島の言葉を鼻で笑う。
「私が貴様を心配するだと。そんなことはどうだっていい。私は三島家の品位を貶めるお前の行動が気にくわんのだ。このような時間に出歩くことは三島家にあってはならない。さらに他人にそのことが発覚し、私に連絡が来るなどもはや救いようのない馬鹿だ。その辺に跋扈する社会のゴミのようではないか。あの女のようなゴミだぞ、この劣等種め」
三島の目には鋭い怒りが宿り、眉が吊り上る。
「なぜ彼女を……父さんはなぜ友達をバカにするのですか。なぜ、収入や家柄を重視するような発言をするんですか」
父は「なめるな」と大声を上げると今度は拳で三島の頬を打つ。
「そんなことはどうだっていいんだ。友達とは誰だ。まさかあの下種ではなかろうな。お前はもう縁を切ったと言ったはずだな。男に二言はあるまい。佐々木か。佐々木の小僧なのだろう。答えろ」
「いいえ、小揺木天音です」
「ふざけるなーーーーーー」
三島は左腕の裏拳打ちをくらいよろける。間髪入れず腹に衝撃が来る。父に蹴られ三島は椅子にもたれかかるように倒れた。さらに三島の胸ぐらをつかみ引き寄せると父は顔を近づける。
「お前はどういう脳をしているんだ。私に勝てない劣った遺伝子を持っていることに憎しみを抱き私の人生を台無しにしているのか。それとも私の言った言葉の意味が理解できなかったのか。ならばもう一度言うぞ。あの女は貧困にあえぐ家柄だ。我らとは住む世界が違うのだよ。決して交わることなどあってはならない。一生私のような強者にこき使われて生きていくだけの機械のようなものなんだよ。そんな人間と同じ環境、思想を享受しお前は自らを高みへと洗練していくことができると思っているのか。奴らは我々支配者に群がる家畜、ゴキブリなのだよ。お前はゴキブリとともに生活ができるというのか」
「彼女は人だ。父さんの方こそ、そんな考えに縛られた家畜同然だ。社会に使われていることに変わりなんてないじゃないか」
「なめるなと言っただろうが」
胸ぐらをつかむ手に力をこめ、三島を床に放り投げる。床を滑った三島は立とうと上体を持ち上げようとする。だか、父は三島の腹に手加減なしのけりを放つことで立つことを阻止する。
三島は数十センチ後ろを滑り蹲ると、父は容赦なく何度も何度も三島の腹を蹴り、顔面を踏みつける。
「お前は親に逆らうのか。今まで誰が育ててやった。お前の着ているその服も、お前が学校に通えるのも、お前が生きていられるのも誰のおかげだ。お前は私の人生を彩るピースの一つとして生きる以外に存在することなど許されない。そんな脆弱な人間が私に意見をするとはな。現実を見せてやろう」
何度も何度も蹴りつけていた父の足が不意に止まる。蹲った三島の目の前に見覚えのある四角いものが降ってきた。ぼやけた視界で良くわからなかったが自分の携帯電話であると理解できた。
「開いてみろ」
呼吸を荒くし怒っていた父が気味の悪い笑みを浮かべ、三島を見下ろした。
三島は携帯を手に取り画面を覗くとその目を見開かずにはいられなかった。震える手が携帯画面をぶれさせるが、三島にはしっかりと画面の下方に表示された異変に底知れない恐怖を抱く。
着信一三四件。
三島は父を見上げ、貼り付けている不気味な笑みの真意を想像し、ある絶望を推測する。
着信履歴を押すとその全てが佐々木、佐々木、佐々木の文字で埋め尽くされていた。
「携帯電話を忘れて行っていたぞ。大事な友達からの着信か。彼は待ちわびていたのではないか。お前の連絡を」
「これは……何で佐々木が」
「さあな。金の工面でも頼みに来たのではないか」
「なんでそんな……佐々木はサッ」
「サッカー選手になるとでも?」
「……何で……何でそれを」
「貴様だろう? 佐々木の小僧が金を貸してくれと泣きついていることを教えたのは。それが必要なくなったとなれば疑問がわくだろう。どのようにしたのか。調べたらすぐに分かったよ。まさか親の許可もなく契約しようとは面白いことを考えるやつじゃないか。想像力の乏しいやつなのだな、佐々木の子息は」
「じゃあ、もしかして父さんが」
「佐々木の小僧がサッカー選手などという絵空事を吐いていると聞いてな。彼の父親に教えてやったんだ。そしたらどうだ。彼の父親も知らないときた。親子揃って金だけの無能かと疑ったよ。一方的に電話を切ったりと失礼な奴だった。以降は知らん。しかし、その様子だと……言うまでもないか。きっと百万でもあてにして連絡してきたのだろうな。哀れだ。その程度の局面にも対処できん無能だとは思わなかった。獲物のある方に節操なくふらふらと。まるでハイエナだな」
「父さん、何でそんなことを。何で……どうして」
「百万なら貸さんぞ」
頭上から零れ落ち、三島に響く悪意は佐々木に対する罪悪感を増幅させる。
「私が……私が約束に背いたからこんなことをするんですか」
「何の話だ。私は何も知らないぞ。ただ後学に一つ教えてやろう。ごみは公共の場においておくと腐臭を放つ。腐臭は周囲に苦しみを振りまく。ごみはただ存在することも許されない。そして三島家である以上、ただのものでもいけない。宝石でなければ。私を彩る宝石でなければ。もう間に合わない。これを教訓に次からは馬鹿なことをしないことだ」
三島は放心したまま立ち上がると父を見据える。目を凝らすまでもなく父は醜い顔を歪め悪意に満ちた喜びの眼差しを向けている。三島は呼吸を乱し、佐々木に申し訳ないという思いで一杯になる。
そこに何事かと年配のナースが一人、声をかけてくる。
「息子さんに何を。どうなさったのかは存じませんが院内ではお静かにお願いします」
「消えろ」
父は振り返りナースを睨む。ナースは父の異常な様子に驚き顔を強張らせるがその態度に反論する。
「消えろとは何事ですか。病院内では」
「消えろというのがわからないのか。馬鹿なのか、お前は」
父が怒鳴るとナースは声を裏返させ「お静かに」と叫びどこかに走り去っていった。父に恐怖したのか、今の病院内は相当に混乱した状況になっているので父にかまっている暇がないか。分からないが、三島は身勝手な父の言動と考えに怒りの感情を抑えず、その目に反発の色を宿らせた。
「何で関係ない人にまでそんなひどいことを。俺が何でも言うことを聞けばいいということですか。俺には俺なりの生き方をしてはならないと。そう言いたいのですか」
「ああ、そうだ」
父は向き直り、三島を睨む。
「父さんにとって俺は操り人形であり、装飾品でしかないということですか」
「わかってるじゃないか」
父の飄々とした態度に怒りを剥き出しにし、拳を強く握りしめる。
「……俺は、俺は今まで父さんに愛があると思って生きてきた。俺のために辛くあたるのだと思ってきた。けれど俺は父さんのステータスを引き上げる道具の一つでしかなかったんだな。昔からわかってたけどさ。わかってたけど、目を背けてきた。そんな非情な人間、この世界にはいないんだと思ってた。だけどいたよ。俺の目の前にそんな人間が」
「もしや、私を馬鹿にしているのか。お前は親にはむかうつもりか」
「なんだよ。悪いのか。ここではむかわないのは感情のない人間だけだ。ロボットのような…そう、いいなりのロボットみたいなやつだけだ」
その時、腹部に鈍痛が走り呼吸が止まる。三島の腹には父の肘が埋まっていた。さらに父は三島の胸に足裏を押し付けると力を加え、後方に吹き飛ばす。三島は背面から受け身もとることなく地面に倒れこんだ。
「はむかうのか。まだ現実を見つめることなく自らの身勝手を通せると思っているのか。父親とは難儀なものだ。出来損ないであろうとも手放すことが許されないとは」
父は三島に馬乗りになると無表情のまま顔面を交互に殴っていく。
「本当に、馬鹿な、奴らだ。我が家庭には、本当に、馬鹿しかいない。遺伝子が、劣化している、からか。それを、強制するのが、父の仕事か。疲れるな。どうだ、反省したか」
十発以上の拳を受けたが三島は謝るつもりなど毛頭なかった。
「父さんが言う人生を生きるなんてまっぴらだ。俺は彼女の、小揺木さんのためにこれから生きていくんだ。それを否定する父さんの話は聞けない。俺は自由なん」
言葉の途中で父は殴打を再開する。
「何か、言ったか。よく、聞き取れ、なかったぞ。もう一度、言ってくれ。今度は、聞き逃さん。さあ、答えろ」
三島は辻本に受けた攻撃を思うと全く痛いとは感じない。父の拳では傷一つつくことはなかった。それでも何か突き刺さるものがある。それが三島をここに縛り続けていた。
父は殴ることを止め、三島の返答を待つ。
「俺は父さんの言う人生はもう一切、金輪際歩まない。俺は、自由だ」
父と子、二人はもう疲れ切っていた。父は息子から離れると見下ろし怒りを露わにした。
「わかった。もうお前はいらん。好きにしろ。別にお前に固執する必要はないのだ。当てはある」
「何が好きにしていいだ。今まで散々俺を、母さんを馬鹿にしてきて、好き勝手に人生を操作して。謝れよ。あんたの悪意がみんなを苦しめたんだぞ。今までそれで幸せな人生を送れてきたんだろ。謝れよ」
勢いよく立ち上がり父の胸ぐらをつかむ。父は冷めた目で三島を一瞥すると関心がないように振る舞い、目線をずらす。
「謝るだと。何にだ。馬鹿には付き合いきれん。さあ、その手を離せ」
「離さない。母さんに言った暴言、小揺木さんを馬鹿にしたこと、佐々木にした仕打ち、全部謝るんだ。そして佐々木に百万を貸すんだ。佐々木の選択を邪魔したのは父さんだろ」
「親にここまでたてつくか。やはりあの女の遺伝子は劣っている。そうでなければこのような欠陥品は生まれるはずがない。曲がりなりにも私の遺伝子が入っているというのにな。世間体は悪いが三島家の跡取りに関わる重要な問題だ。失敗は早めに正さなくてはならない。離婚して、新たな妻を娶らなくてはな。もっといい遺伝子を持つ女を」
「親父、お前」
もう我慢の限界だ。これほどまでに否定されて我慢できるはずがない。
三島は拳を強く握りしめる。爪が刺さり、拳の中から血が滴る。
辻本を殺した時の記憶がネガフィルムの如く、何コマも何コマも再生されては流れていく。殺すことを妨げるように記憶がトラウマとなる記憶を選別し、回顧させているようだ。
それでも三島は怒りを鎮めることができず腕を引き、血の溢れ出る拳を振りかぶった。
その瞬間、病院全体の壁を越え、院内を通り抜ける死の風が二人を突き抜けた。
仄かに点いていた明かりが一斉に消え、電気の供給が停止する。
三島は辺りを見渡した。
何が起こった。
その数秒後、再び院内に明かりが灯る。自家発電の類いだろう。はっとなり、父へと関心を戻す。三島は大口を開け驚愕する。
父の目からは生気が失せ、瞳孔が開き始めていた。父は脱力し、その場に崩れ落ちる。
三島は胸ぐらをつかみ続けていたため、父は倒れることができず、マリオネットのように体を揺らす。三島は猛烈な吐き気に襲われ、残った手で口を抑えた。そして、父の異様な姿にパニックを起こし、顔面蒼白になる。
「父さん、父さんどうしたの。なあ、どうしたんだよ」
必死な三島は胸ぐらを掴んだまま父を揺らし、反応を見る。父は人形のようにされるがままに揺れ、骨がなくなってしまったのではないか錯覚するほどにぐにゃぐにゃと奇妙な関節の動きを晒した。
三島の感覚器官と第六感が、奴らだと騒ぎたて、汗を大急ぎで量産するよう身体に指令を出す。先ほどの生ぬるい風は、奴らがタナトスと呼んでいた攻撃だろう。
もう仲間が俺を殺しに来たのか。
父をゆっくりと下ろすと、迷うことなくナースステーションに向かう。
父は最低の人間である。しかし、死んで欲しいと思っているわけではなかった。振り上げた拳も、決意も、所詮は怒りに任せた単純な思考のもとに生まれた誤った選択だった。
「すみません、父さんが…父が倒れて」
深夜の院内に一つだけ光がついている部屋に到着する。そこで三島は自らの目を疑った。ナースステーションにいた年配の女性は白目を剥き、痙攣していた。もうひとりの女性も同様の症状に付随して、泡を吹きながら、床をのたうち回っていた。
息苦しくなり、自発的に呼吸する。酸素は肺に入ってこない。落ち着こうと実行した行為がかえって恐怖を煽る。
震えていたナースは事切れ、三島はその死を見つめることで重大な事実を思い出す。
小揺木さんが危ない。
彼女がどうなってしまったのか皆目見当もつかない。ただ死んでいないことを祈り、三島は彼女のいる病室を目指し走り出した。彼女のいる三階をめがけて階段を駆け上る。その間際、彼女に接近しているとある感覚がしきりに鼓動を加速させていく。彼女がいる部屋と思しき方面から、精神を突き刺すような痛みが溢れ出し、冷気のように床を滑っている。何か嫌な予感がするなどと悠長なことは考えない。ただただ危険だと体が震える。血液の代わりに焦燥感が体内を流れる。
一際強い衝撃を垂れ流す病室に着く。入口の壁には小揺木天音の名が書かれたカードが挟まっている。取手に手をかけ横にスライドさせた。病室は開け放たれる。
心地よい風が髪を揺らした。病室内にはベッドの上で静かに眠る小揺木がいた。窓が開き、そよぐ風は白いレースのカーテンを揺らす。三島は心臓が止まったように錯覚した。
病室には見知らぬ来客がいた。
黒髪を綺麗に切りそろえた日本人形のような女性。女性は小揺木のベッドの脇に座り、窓の外から煌煌と照る月に見入っていた。
女性は黒いスーツを着ていた。スーツに関する知識はないにせよ、それに近い外見を数時間前に見ている三島は確信した。
「タナトスの末席」
女性は振り向くと満月を背に受けていたこともあり、煌びやかな黒髪がより一層美しく揺れた。
「いいや、俺はタナトスの直系。空切桜子だ」
三島は瞬時に右手に死を灯すと病室に入ろうと足を上げた。と同時に女性は大声を上げた。
「入るな。この女を殺すぞ」
強気な声に言われるがまま、足を引込める。三島は桜子を睨んだ。
「小揺木さんに手を出せば、お前の言うことを聞く必要はなくなる。手を出したら殺すぞ」
「物騒なことを言うじゃないか。安心しろ、殺す気はないんだ。まあ、お前の行動しだいなんだがな。スカウトに来ただけだ。とりあえず、その右手のタナトスを鎮火してくれ」
三島が踏みとどまると、桜子は焦りを消し微笑む。ただ眼光に宿る警戒は緩まない。
「スカウト…何だよ、スカウトって。お前らは俺も、小揺木さんも殺したいんだろ」
「いいや、それならとっくに殺してる。院内の連中のように。それにこの女も今すぐ殺せるが、殺してないだろ。これがお前たちに危害を加えないという立派な証明だ。さて、話を戻そう。仲間にならないか。疑問に思うだろうが私は嘘をついていない。同胞になれ、三島」
病室に強い風が流れ込み、部屋中のものを揺らす。
三島は桜子が何を言っているのか分からなかった。殺すために刺客を差し向けたと思えば、仲間にしたいと申し出るなど、論調に一貫性が見られない。嘘にしか聞こえなかった。
「どうして今頃なんだ。ならなぜ、あの男を差し向けた。その言葉は信用できない」
桜子は視線を落とすと歯ぎしりを立て、彼女の首に右手をかけた。三島はその動きに対し、やめろと叫び、秒室内に飛び込んだ。飛びかかろうと地を強く蹴り、桜子めがけて跳躍する。だが、無意味だった。桜子は右手をかざすと黒い波動を指先から放つ。それが三島の体を突き抜けると失速し、跳躍のエネルギーがゼロになったように落ちる。結局、少しも進むことができず地面に無様に転がっただけだった。
「お前、何をした」
果たして何をされたのか。三島の不思議そうな顔で桜子を見上げた。桜子は頬を吊り上げる。
「俺はタナトス因子でお前が飛んだ時のエネルギー、跳躍力を殺めただけだ。まあ、そんなことはどうだっていい。動くなと言っただろ。お前の反応を見たかっただけだ。人質が用をなさなければ私の身が危険なんでな。ちょっとした冗談だ。しかし、相当この女にまいってるんだな」
「うるさい。ふざけるな。それに跳躍力を殺めるだと」
「なんだ、知らないのか。そうさ、タナトス因子は生物を殺めるだけでなく、空気抵抗、重力、自然界のあらゆる法則を殺めることもできる。訓練さえすればな。お前だって自分が物理法則を無視し、なぜ力がふるえるのか疑問だったろう。タナトス因子とは単純に人命を殺めるだけの能力ではない。複雑怪奇なものだ。しかし、お前は苦もなく使用しているようだな。天才というやつか。面白い。きっと、お前は無意識のうちに使っているんだろ。タナトスを。その腕力を。スピードを。頑丈さを。教えてやろう。常識を逸脱した腕力と速力は空気抵抗、重力、あらゆる衝撃を殺めた結果だ。お前が戦闘した場合、服が破れていないのもタナトス因子が関係している。実際にお前が受けるダメージはほとんどタナトス因子が自動的にそぎ落としているはずだ。便利だろ」
辻本との戦闘で、衣服が破損しなかったことを不審に思っていたが、そういうからくりがあったと桜子が言及する。
「タナトス因子の説明をしている場合ではなかったな。本題に戻ろう。仲間になれ」
「誰が大量に無関係な人を殺害する化け物の仲間になるんだ。今頃来た理由を説明しろ」
桜子は小さくため息をつくと山の向こう側に消えようとする満月を見つめ、目を細めた。
「私にはかけがえのない仲間がいた。その仲間が死んでしまったんだ。タナトスの末席に穴が空いてしまった。その穴を埋めたいんだ。ここまで言えば分かるだろ」
「俺が倒した奴の穴埋めをしろ、ってことか」
桜子はベッドを離れると窓に腰掛け、食い入るように満月を仰ぐ。
「その通りだ。近接戦闘にたけているものが必要だ。辻本を倒したお前なら十分だろう」
桜子は振り返ると、小揺木の頭に手を置く。
「断ればこの女は死ぬ。だが仲間になるというならこの女を生かす術を提案しよう」
この申し出を受けるべきか。桜子の話から辻本が仲間であったことが窺える。
仲間。
三島は桜子の仲間を殺した。にもかかわらず割り切れるというのか。仲間を葬ったやつに仲間になれと言えるはずがない。無言で殺すことはあっても、仲間になることを懇願するだろうか。
「俺は仲間を殺したんだぞ。裏切るかもしれない。それをスカウトだって。ありえないな」
「そういう考え方もあるな。だが俺は組織にある緊急時の規則に則ってるだけだ。私情を挟むことなどできない。それにお前が裏切ったところで俺の組織の損壊規模はたかが知れている。欠員の補填を最優先しているだけだ。別に裏があるわけじゃない」
「本当に騙しているわけじゃないと。分かった。仲間になれば彼女を助けるんだな。なら、仲間になってやる。その代わりに質問させろ。どうして俺だけでなく彼女も狙う。俺はタナトス因子を持っているから殺されるんだろ。それは納得がいく。じゃあ、彼女はなんだ。なんで狙われる。冥府の化物、タナトスも言っていた。彼女は何千、何万と死ぬと。彼女には何がある。それも話せ」
桜子は三島の質問を無視して全身から黒い瘴気を放つ。桜子を中心に発生した膨大な力は突風を巻き起こし室内をかき乱していく。広域へと飛散した死は手に向かい収束し、次第に禍々しさが濃くなっていく。小揺木の頭に置かれた手に死は集まり、流入し始める。
暴風を防ぐために反射的に顔を覆った三島は反応が遅れた。
「仲間になると言っただろう。彼女に何をする気だ」
「殺しはしない。質問にも答えよう。しかし、その前に処置をしなくてはならない」
三島は自分でも驚くほどに円滑にタナトスの解放を行い、死を伸ばして桜子を薙ぎ払う。桜子は三島以上に驚愕し、小揺木に触れていた手を咄嗟に離して手に纏う死で相殺する。
三島が放ったタナトスは病室を横半分に切断した。壁面に一閃の軌跡が生じ、ガラスは砕け、室内に散乱する。桜子は眉間に皺をよせ、手を下ろす。 次の瞬間には桜子の姿が消え、三島の目の前に現れる。その時、すでに三島の腹部に桜子の拳がたたき込まれていた。三島の体が殴られたベクトルに従い、吹き飛ぼうとしていた。その小数点並みの瞬刻に、桜子は更に三発、突きを繰り出す。突きはそれぞれみぞおち、喉、額に当たり、三島が吹き飛ぶ。
病室の壁を突き破り、何枚もの廊下、病室を粉砕し、三島は病院の中庭に放り出された。
三島は地上六階の空中を、地に背を向け漂っていると、見えるはずの空は黒に覆われていた。代わりに桜子の顔があり、三島の顔面に拳が降り下ろされる。方向は変化し、地面に急降下。音速で中庭に着弾し、真下にあった噴水に激突して破壊した。水しぶきの柱が天高く伸びる。一帯には砂煙が立ち込め、宙に飛散した水とコンクリートが中庭に続々と降り注ぐ音がこだまする。三島は体勢を立て直そうと上体を起こそうとした。すると先程と同様にまた桜子が一瞬で隣に現れ、片足を上げると三島の顔を踏み潰す。
三島の頭は地面に埋没し、凄まじい圧力で砂柱が上がった。
「俺にタナトスを使うとはな。交渉決裂だ。お前もあの女もぶっ殺してやるよ」
三島は沈黙し、動かなくなった。桜子は足を振りかぶり、地面ごと頭を蹴り上げる。
吹き飛ばされた三島は白色の壁に張り付けになり、壁は小さなクレーターと亀裂を生む。三島は気を失い、大口を開け、ゆっくりと重力に引かれていく。
桜子は目にも止まらぬ速度で三島を目指し、手を突きだした。手に灯る黒色の輝き。三島は死が撒き散らす気持ちの悪い気にあてられ、意識を取り戻すと桜子の手首を掴み、タナトスを纏う手刀をかろうじて防ぐ。
桜子の腕力はなかなかのもので、三島と桜子の力比べが始まる。手刀は接近したり、押し戻されたりといった動作を繰り返し、両者とも体を震わせる。
「何が交渉決裂だ。約束が違う。小揺木さんは殺さないと言ったじゃないか」
「別に殺しはしないさ。妥協案を提示しただけだ」
「何の話だ」
三島は脳内で全身にタナトスを灯すイメージを浮かべると、紫のオーラが滲み出し、桜子は回避するためやむ無く距離をとる。桜子も黒いオーラを纏うと、タナトス発動から少々遅れて死の波動を放つ。三島の背面にある病棟は急速に老朽化し崩落、大量の残骸が三島の頭上に向け落ちていく。
「女が生きていれば、この世界に災厄しかもたらさない。殺さなくてはならないわけだが、それではお前は仲間にならないだろ。結果、脳死状態にして一生を植物人間として終えてもらうという結論に至った。女は死なない。お前は仲間になる。非常に合理的な選択だろう」
「そんなわけあるか」
頭上の崩落から身を守るため危険範囲から逃げおうせば、桜子は確実に逃げる体勢になった三島のすきをついて攻撃するはずだ。三島はこの環境を脱することなく、桜子に隙を与えない判断を下さなければならない。
その場で降り注ぐコンクリートの雨を避け、避けきれないものは拳で粉砕していく。
そこへ桜子は飛び込み、三島の正面に出現する。三島は落下する瓦礫を避けるのをやめ、桜子に対処できる姿勢に切り替える。
桜子の第一撃、またもみぞおちを目標とした正拳突きが迫る。三島はそれを右手でつかみきらないよう意識し、軌道を変えてやるように働きかける。第一撃は回避した。こうしてがら空きになった胴にタナトスを纏った拳を振りぬく。桜子の眼光に死が灯る。すると三島の拳は速力を落とした。
「何だよ、これ」
「タナトス同士の総裁では間に合わないのでな。お前の拳の速力を殺めただけだ」
桜子は後退して体勢を整える。三島も来たるべき殴打に対して措置を講ずる手立てを模索し、桜子の挙動に注目する。
三島と桜子は地面を踏み込むと前に出て、両者ともに激しい拳の打ち合いになる。
「ほう、やるな」
桜子は余裕の笑みで称賛する。三島も自身の力に驚嘆していた。
桜子の攻撃がすべて見える。俺の目はどうしたんだ。
ひたすら両者は拳の捌きあいをしていたが、歯車が狂うように、そのテンポは崩れ始めた。三島の手数が桜子を上回ったのだ。
「何。そんな馬鹿な」
桜子の肩にまぐれの一発が入る。すると体勢が崩れた。よろけた桜子の顎めがけ拳をふるう。完全に重心が崩れた。後退しようと下がりかけた桜子の横腹に蹴りを見舞う。骨の軋む感触が足に伝わる。気分が悪くなった。これが人を殺すという感触。吐き気がする。
桜子は吹き飛び壁を破って病院内に消えた。その破壊の余波は轟音を響かせ三島の五感を刺激した。
「俺、こんなに強かったか」
三島は自分の拳に視線を落とす。傷は一切ない。疲労もあまり感じなかった。
ふと、我に返る。破壊の傷跡を覆うように視界を遮る砂煙に揺らめく黒い影が見えたからだ。それは接近しているのか徐々に大きくなっていく。三島は手元に転がるコンクリートや鉄筋をなりふり構わず投擲していく。
シルエットは黒い死を垂れ流すと煙が晴れる。やはり桜子だった。タナトスを着飾る桜子に一切の攻撃は通じない。接触した物体はすべて黒い粒子に分解され空気に溶けていく。桜子は無意味な攻撃を必死で続ける三島を嘲笑うように一定の歩調で向かってくる。
「ビギナーズラックか。それをみすみす逃すとは愚かだ。そして、ききもしない攻撃を続ける愚かしさ。馬鹿にするなよ。そんなものに辻本は負けない。本気を見せてみろ」
「辻本、辻本って。私情ははさまないんじゃなかったのか」
「そうだったな。私情ははさまない。お前を殺すことも、あの女を殺すことも決裂の際の決定事項だ。私情ではない。辻本がどうなろうと、お前との交渉が決裂した段階で殺す予定だったんだ。逆に交渉が成立していれば殺せなかった。大切な仲間を殺されたのに。その復讐もできないまま。大切なものを奪われたことに私情ははさめないと目をつむり、この三十年間、苦楽を共にしてきたチームの仲間を殺されても黙ってみていなければならなかった」
「何だよそれ。こっちだって、お前らが来なければ何もなかったんだ。何も」
「ふん、知るか。俺たちはこんな力を手に入れたせいで、国のために命を使い生きなければならなくなった。命令に背けば国家に殺され、居場所さえも化け物の俺たちにはない。でも、この三十年間、私を置き去りにする季節の中で仲間と一緒に過ごす日々はその苦しみを忘れさせてくれた。なのにそんな日は終わったんだ。かけがえのない日々は。そして、それを壊したやつを仲間に加えろだなんて苦痛だった。国の命令でなければ今すぐぶっ殺してやりたかった。しかも、そいつが奪われる覚悟もないのに奪う腰抜け野郎だったことや、そいつが自分の大切な人を殺すなと散々口にする姿も気に入らなかった。女を殺さなければならないのは仕事だ。お前を殺すのも仕事だ。私情じゃない。私情じゃなく、俺はお前を殺せる。この手で。憎いお前を」
桜子は涙を流し怒りに震える。眼光には殺意が灯り、表情は歪んでいた。
莫大な量の死が桜子を中心に拡大していく。暴風のように吹き荒れるタナトスは鋭さを増し、勢力圏内に侵入した生命を殺め、無生物を風化させていく。芝生は枯れ、瓦礫は風化して黒い粒子に変貌していく。
「俺は……俺にとっての小揺木さんを奪ってしまったのか……」
この女性も俺同様大切なものを抱えて生きていたはずだ。生きているのだから。そう。この世界にいる以上、人は笑い合って幸せを探している。それは敵対するやつも同じだ。生きているのだから。きっと大切なものを多く持っているはずだ。家族、恋人、友達。そんな風に様々な呼ばれ方をするもの。これらの関係を失いたいやつなんてこの世界にはいないはずだ。