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エリアスルート

かくして、少年少女は恋に落ちる

作者: 小田マキ

 梅雨明け宣言が出て暫く経ったある雨の日の夕方、「CLOSED」の看板の出た喫茶店の前で聖錠大付属高校三年・塩沢弥生は途方に暮れていた。今朝のテレビの天気予報は快晴……信じた彼女は傘を持たずに登校したのだ。ロッカーに置き傘をしていたのだが、とある事情でなくなってしまった。


「……はぁー……」


 見たいテレビあったのになぁ……やむ気配を見せない激しい雨音に、弥生は溜め息を吐いた。


「塩沢さん」


 恨めしそうに鉛色の空を睨んでいた彼女に、思い掛けない声が掛かる。


「……っ、……池田君?」


 いつの間にか、すぐ傍らに傘を差した同じクラスの池田秀一朗が立っていた。同級生にすら敬語を使う礼儀正しい彼は、父は大手ホテルグループ経営者と言う生粋のお坊ちゃま……土砂降りの雨の中、それを全く感じさせない爽やかな笑みを口元に浮かべている。


 生まれつきらしい色素の薄いライトブラウンの髪と瞳に、陶器のような白い肌……日本人離れした彫りの深い容貌は、某正統派ファンタジー映画三部作にエルフ役で出演していたと言われてもすんなり頷ける、何処か神聖な雰囲気を持っていた。


「こんなところで、雨宿りですか?」


「……うん、傘忘れちゃって」


 うわー、雨にも負けず麗しぃーっ! ……極力平静に見える笑みを浮かべて頷きつつも、弥生は手に汗握り、心臓はバクバクだった。


 彼女は某ホラー映画ヒロイン(?)との外見的類似から、クラスでは「貞子」と呼ばれていた。やや天然系の弥生は、それを面白がって髪形も真似て、頼まれれば映画のラストシーンを再現して見せるぐらいのバイタリティーがある為、友人も多く、虐めを受けているわけではない(本人談)……が、やはり年頃の女の子なのだから、異性への興味がないわけでもない。


 弥生は、秀一朗のことを非常に好ましく思っていたのだ。





 美形だし親切だけど、性格が堅過ぎて面白くない。


 生徒会長に立候補するなんて、マジあり得ない。


 見てるだけならいいけど、付き合うと疲れそう。





 などなど、完璧過ぎたことが逆に災いして、イマドキな女子にはそこまで人気はないが、弥生にとって、生徒会長を務め、品行方正、成績優秀、おまけにルックスまでいい秀一朗はばっちりストライクゾーンだった。


「塩沢さん、よろしければ入って行きませんか?」


「えっ……?」


 弥生とて顔立ちは悪くない。多少ホラー系ではあったが、顔の約半分を占めるのではないかと言う円らな大きい瞳と、大した手入れをしなくてもサラサラストレートの長い黒髪の美少女なのだ……が、豪快でサービス精神旺盛過ぎる性格から、今まで男子に異性と認識されたことはなかった。


「雨、まだまだやみそうにないでしょう? 家までお送りしますよ」


 秀一朗は、そんな彼女を唯一異性として扱ってくれる……弥生が彼を好きになった一番の理由は、そんなところだった。


「でも、池田君の家って、逆方向でしょ? ……そんなの悪いよ」


 相合傘……その単語が頭の中を物凄い勢いで駆け巡っていたが、弥生は頭を振る。彼の前でこれ以上平静を装っている自信が全くなかったのだ……見ているだけで、ときどき何気ない会話を交わすだけで十分満ち足りていた彼女は、下手に自分の気持ちを知られて距離を置かれることだけは、どうしても避けたかった。


「明日から期末テストですし、雨に濡れて風邪を引いて、休むことになったら困るでしょう」


「そっ、そーだけど……」


「追試になりたいんですか? ……それとも、僕を雨に濡れた女の子を一人残して行くような、そんな情けない男にしたいんですか?」


「そっ、そんなことないよ!」


「それでは、ご自宅まで送らせて頂けますね?」


「……お、お願いします」


 惚れた弱味もあったが、何処か迫力のある笑顔に押されてしまった弥生は、結局頷いてしまったのだった……。





 * * * * * * * * *





 聖錠大付属高校に入学したばかりの頃、弥生は図書委員で大好きな本に囲まれて仕事に勤しんでいた。その日の放課後も、以前頼まれて発注していた新刊(ハードカバー十巻セットその他・総重量二十キロ強)が届いた……百五十三センチと小柄な彼女にとって、この本を一人で整理しろと言うのは過分な重労働である。


 それでも頼まれたことだから、と文句も言わずに仕事に取り掛かるのが弥生の良いところ……不運にも、一冊一キロはあるだろうと言うそのハードカバーが分類上、本棚の一番上の棚だったとしても。


「……ぅっ、 ……ひゃぃっ!」


 よっこらしょ、と本を一冊抱えて脚立に足を掛けるが、想像以上の本の重さが片足に掛かってバランスを崩し、いささか間抜けな叫び声を上げて後ろにひっくり返りそうになる。


「……大丈夫ですか?」


 しかし、弥生が受ける筈だった衝撃は、後ろから誰かにしっかりと支えられたことで回避された。彼女は掛けられた声に慌てて振り返るが……。


「どうも有難う、……えっと……?」


 何処となく見覚えのある柔和な整った容貌に、弥生は礼を言いながら小首を傾げた。


「同じクラスの池田秀一朗です。


 本の整理ですか? ……ええと、アダムの肋骨?」


「ああ、校医の成田先生に頼まれた本なの。旧約聖書のお話らしいんだけど……」


「最初の人間の女性イブはアダムの肋骨の一部から創造された……その言い伝えに対して、男尊女卑だと辛口批判をした作者の旧約聖書に関するレポートですね。


 僕も同意見です……興味深い内容で、勉強になりました」


 にっこり笑って言うと、彼は本を手に取って、本棚に収め始める。


「えっ……いいよ! 整理は私の仕事だからっ!」


 大して仲が良いわけでもないのにこのまま手伝わせるのは気が引けてしまう真面目な彼女は、慌ててとめに入る。


「量が多過ぎますし、女性には危険な作業です。お手伝いしますよ」


 しかし、純粋な親切心の溢れた笑顔でそう言われてしまい、結局最後まで彼に本の整理に付き合ってもらったのだった。





 その時の秀一朗の至極紳士的な対応と優雅で穏やかな物腰に、弥生は一発で恋に落ちてしまったのだ……そんな過去の出来事を思い返している内に、さほど遠くない家に辿り着いてしまう。


「有難う、池田君……すごく助かった」


 ここで別れてしまうのは残念で仕方がなかったのだが、弥生は未練がましい自分を叱咤して、傘に入れてもらった礼と別れの言葉を告げようとしたのだが……。


「……塩沢さん、実は見てました」


「えっ、何っ……?」


 それを遮って言った秀一朗の言葉に、弥生は大きな瞳を見開く。


「喫茶店の前でずぶ濡れで泣いてた小学生達に、自分の傘をあげてたでしょう?」


 秀一朗は、本当に綺麗な笑みを浮かべて続ける。


「僕の方が先にその子達に気付いていたんです。明日からの期末テストのことを考えて、自分の傘を貸そうかどうしようか躊躇している内に塩沢さんが通り掛かって、迷わず傘を差し出した……感動しました」


「感動って、そんな大袈裟な……」


 大好きな彼の言葉に、弥生の顔が沸騰する……予期せず意中の相手の高感度アップが出来た上、結果的に相合傘までさせてくれた名前も知らない小学生三人組に心の中で合掌しながら。


「塩沢さん、僕は君が好きです」


 はっ……?


 満面の笑みのまま告げられた言葉に、弥生の思考が固まる。あまりの展開の速さに頭がついて来れなかったのだ。


「君みたいに真面目で優しくて、誰に対してもはっきり自分の意見の言える人間はそういません……さっきの傘以外にも、今日は大活躍でしたよね。ホームルームで鈴置先生に手伝いを頼まれた時、承諾したのは塩沢さんだけだった。お家のお手伝いで帰宅を急いでいた八神さんの掃除当番も、代わってあげていたし」


「そ、それはっ……先生も冴ちゃんも困ってたしっ!」


「同情しても、塩沢さん以外の人は見て見ぬふりだった……そんな君がずっと好きだったんです。……君さえよければ、僕と付き合って欲しい」


 どっ、どうしよう! すっ……好きだなんて、嬉し過ぎる! まさか夢っ?


 真摯な視線を自身に注ぐ彼に、弥生は口が利けないぐらいの狂喜に打ち震えていた。真っ赤になった頬を両手で覆う……彼に見られていなければ、今すぐ思い切り抓っていたが。


「突然済みません、返事は急ぎま……」





「好きっ!」





 申し訳なさそうに更に続ける秀一朗の言葉を遮り、彼女は咄嗟に叫んでいた。


「私……ずっと好きだったの、池田君のことが!」


 夢なら覚めないで……そう心に強く念じながら、弥生は己の気持ちを告げる。


「……有難うございますっ……!」


「ぴぃっ……!」


 その真面目な性質上初めてだろう恋の成就に暴走した彼に抱き締められ、弥生は小動物のような叫び声を上げた。


 しかしながら、一ブロック向こうの電信柱の陰からこっそり二人を見つめていた塩沢建(弥生・父)が、珍しく早く帰宅したことを後悔するように溜め息を吐いていたことを、彼らはもちろん知らない。





 * * * * * * * * *





 次の日の朝、弥生が教室に入ると……。


「弥生、昨日は有難う。……で、どうしたんだ、その顔は?」


 同じクラスで幼馴染の八神冴が昨日の掃除当番を交代してもらった礼を告げるついでに、そう不可解そうに尋ねてきた。


 弥生は右頬に大きな湿布を貼っていたのだ……昨日の秀一朗からの告白で彼と両想いになったことが信じられず、何かにつけ頬を抓ってしまい、朝鏡を見ると派手な青痣が出来ていた。そんな娘の顔を目の当たりにした母は仰天、父は何故か涙目で湿布を手渡してくれた。


「何でもないの……えへへへ」


「……弥生?」


 さすがにそこまでしたら実感したらしく、至極幸せそうな笑みを浮かべて頭を振る彼女に、冴は形の良い眉を歪めるが……。


「塩沢ーっ、呼んでるぞ」


 教室の戸口から級友の男子のそんな声が掛かり、弥生と冴はそちらを見やる。そこには他校のセーラー服を着た少女が立っていた。


「聖クリエール女学院の制服だな……弥生、知り合い?」


「さぁー、見覚えないなぁ……私、何かしちゃったかな?」


 見知らぬ来訪者に、二人は同じように小首を傾げる。


「……え? ああ、ついでに八神もだってさーっ!」


「はぁ? ……何だろう?」


「冴ちゃん、知らない内にどこかで一目惚れされちゃったんじゃないの?」


「……どうだろう、最初は弥生あてだったじゃないか」


 似たようなことを過去にも経験している為、弥生の言葉を頭ごなしに否定出来ない冴は、難しそうな顔をする。


「ま、話聞いてみようよ」


「ああ……緒方さん、鈴置先生には適当にいいわけ頼むよ」


 すぐ近くで二人のやりとりを聞いていた女子に魅力的な笑みつきで声を掛けると、彼女は真っ赤になってコクコク頷いた。


「……冴ちゃん、知らない内に随分世渡り上手になったねぇ」


「心外な、バイト先で嫌々仕込まれたんだ」


 二人は待ち受ける衝撃に露ほど気付かず、慣れた様子で少女の元に歩いていった。





 * * * * * * * * *





 少女の意向で三人は場所を移し、やって来たのはお約束の屋上だった。つい最近、他校生が転落事故を起こした為に立ち入り禁止で固く施錠されていたが、冴は頓着せずに突破する……実家近所の商売敵である剣道場師範代を病院送りにした経歴は伊達ではなかった。


 聖クリエール女学院のセーラー服を着た彼女は、二人よりも学年は下のようだ……肩までの大きなウェーブの掛かった色素の薄いライトブラウンの髪、同色のきつい瞳は血統書付きの気難しい小猫を思わせ、全く受ける印象は違ったものの、その日本人離れした人形のような容貌が誰かを思い起こさせた。


 そんな彼女は、可愛らしい様相を厳しく引き締めて二人を見つめて……。


「単刀直入に言いますわ、池田秀一朗から手をお引きなさい」


 本当に唐突にそう言い放った。


「「はぁっ?」」


 弥生と冴は、同時に叫んでいた。


「えっと……貴女、……冴ちゃんに告白しにきたんじゃなかったの?」


 秀一朗の名前が出たことに動揺しつつも、弥生はそう尋ねてしまう。


「……っ、……誰がそんなことを言って? 自意識過剰にもほどがありますわ」


「それは謝る……しかし、君は池田の何なんだ? 突然やって来て、随分一方的なことを言う」


 弥生の恋愛相談を受けたこともあり、秀一朗への想いも知っていた冴には、彼女の言葉が酷く理不尽なものに聞こえた。


「私は池田愛美、池田秀一朗の妹です。貴女みたいな人にお兄様は渡しませんわ! 恋人がいるのに、お兄様にっ……とんでもない恥知らずですのね」


「「恋人ぉっ?」」


 弥生と冴の声が、またしてもハモる。


「貴方達付き合ってるんでしょうっ? 恋人がいるのに他の殿方に目を向けるなんて……不潔だわっ!」


「ちょっとストップ! ……弥生の恋人と言うのは、もしかして私のことを言っているのかな?」


 感情のままに怒鳴り散らす愛美を、頭を押えながら冴が一時遮った。


「他に誰がいてっ?」


「……あのね……えっと、愛美ちゃんだっけ。こんな格好してるし、信じられないとは思うけど……冴ちゃんは女の子なんだよ?」


「だからなっ……って、えっ!」


 苦笑交じりの弥生の爆弾発言に、今度は愛美が驚きの声を上げる。


 弥生の幼馴染・八神冴は紛れもなく女子だった……例え百七十三センチと言う長身でも、同年代の男子を遥かに凌ぐ美形で文武両道であっても。


 彼女の実家は大きな剣道場を営んでおり、母とは物心つく前に死別、父はそのショックからか放浪の旅に出てしまい、滅多に家に帰ってこない。それを不憫に思った実家道場師範代の兄に幼い頃から剣道だけに偏らず、あらゆる武芸を叩き込まれていた。そうして、この世知辛い世の中を逞しく生き抜く術をしっかり身に付けた冴だったが、その為に性別を誤解されることが唯一の悩みの種だった。


「なっ、なななななっ、……何で男子の制服を着てっ?」


「いろいろ事情があって、学費は自分で払ってるんだ……聖錠の制服は有名デザイナー・ブランドだから、サイズ外の特注になるともうぼったくりだ。事情を説明して、ちゃんと先生の許可も取ってある」


 腰までの艶やかな黒髪を無造作に縛った彼女は、濃紺のブレザーの男子制服が実によく似合っていた。別に実家が経済的に貧窮しているわけではなかったが、「義務教育を終えた後のてめぇの食いぶちは、てめぇで稼いでこい」と言うのが兄の教育方針であり、律儀にそれに従っているのである。


「もちろん、弥生とはただの幼馴染だ。他に質問は?」


 愛美は半ば放心状態で、フルフルと頭を振る。


「誤解が解けて良かった。これで問題な……」


「いえっ、私は許すとは言ってませんわ!」


 しかし、冴のその言葉に彼女は猛然と反対した。


「愛美ちゃんっ……」


「気安く呼ばないで下さらないっ? ……とにかく、お兄様が何と言おうと、私は貴女なんて認めませんからっ!」


 弥生を親の仇でも見るように鋭く睨むと、彼女はその場を走り去っていく。


「あれは完璧なブラコンだな」


「……妹なんて、普通のライバルよりもキツイよぉー……」


 弥生は、冴の言葉に酷く困惑したように呟いた……。





 * * * * * * * * *





 聖クリエール女学院一年生・池田愛美は酷く憤っていた……兄としても人間としても尊敬する秀一朗が級友の女子と付き合い始めたと言う事実に。


 昨日、秀一朗の常になく浮かれた様子を不審に思い、問い詰め、引き出した答えは彼女の心を深く抉った。兄はいつまでも自分だけを愛し、その心が離れていくことはない思っていたのに……彼の心は何処の馬の骨とも知れない女に奪われてしまったのだ。


 いても立ってもいられず、学校をサボタージュして会いに行ったその腹立たしい女・塩沢弥生は、取るに足らない普通の女子だった。中高大と一貫したエスカレータ式有名進学校・聖錠大付属高校に通っているのだから、資産家の家柄なのは間違いない……それでも、得体の知れない男女おとこおんなと気味悪がらずに付き合っているのだから、碌な女ではない筈だ。


 愛美ははしたなく舌打ち、部屋に備えつけられた呼び鈴を鳴らす。


「お呼びですか、愛美様」


 即座に黒いスーツの男性が現れた。


「聖錠大付属三年のお兄様と同じクラスの塩沢弥生、調べてきて……結城」


「……かしこまりました」


 結城と呼ばれた男は一瞬咎めるような視線を彼女に向けたが、結局何も言わずに首肯して部屋を出ていく。


「化けの皮剥がしてやるわ……あの、女狐っ!」


 可憐な顔に浮かべられた笑みは、酷くドス黒かった。





 冴は眉を顰め、周囲を見回す。


「どうしたの、冴ちゃん?」


「……いや、視線を感じて」


 一緒に下校していた弥生の疑問に、彼女は眉を顰めてとある一点を睨む。


「どうせ冴ちゃんの追っかけでしょ? そんなに怖い顔で睨んだら可哀想だよ、どんな形でも好きになってくれるなんて嬉しいじゃない」


「……いや、もっとよこしまな気がしたんだが」


 全く障害がないとは言えないが、秀一朗と両想いになってから頭に花が咲いたような常以上に楽天家ぶりを発揮する彼女の言葉に、冴は不可解そうに小首を傾げる。


「まあ、そんなことはどうでもいいが……弥生、その後、池田とはどうだ?」


「……なっ、何ってっ?」


 冴の言葉に、弥生はボッと赤面した。


「池田の方からデートに誘ってきたのに、急に行けなくなったとか言われてないか?」


「……えっ、何で知ってるのっ?」


「(筋金入りの朴念仁かと思っていたが……ちょっと見直したぞ、池田)やっぱりな。多分、池田妹に邪魔されてるぞ。使いどころは間違えてるが、なかなか根性のありそうな子だったから」


「……まさかぁー、いくら何でもそこまでしないでしょ」


 チョコレートパフェに餡蜜ぶち込んだぐらい甘いぞ、弥生……危機感のない彼女の言葉に、冴は溜め息を吐く。


 また、遥か先の建物の陰から、望遠レンズ付きカメラを手にした男が見つからなかったことにホッとして、同じく溜め息を吐いていた……。





 * * * * * * * * *





 更に一週間後、とある調査報告書に目を通した池田愛美の機嫌は、最悪なものになっていた。


「結城っ……これ、本当に正確に調べたんでしょうねっ!」


「はい、信用出来る情報です。


 念の為に私も探りを入れてみましたが、秀一朗様のお相手として理想的なお方ですね。清十郎様も大変お喜びで……」


「貴方、お父様に話したのっ? 私の許しもなく勝手にっ……!」


 彼の言葉に、愛美は更に怒りを露に叫ぶ。


「はい、秀一朗様のお相手のことです。清十郎様のお耳に入れるのが筋かと……清十郎様は、秀一朗様のお目の確かさを感心しておられましたよ」


「……っ、……もういいわ!」


 愛美は酷く苛立った表情のまま書類を床に投げ捨て、部屋を出ていく。





 何が何でも邪魔してやるんだからっ!





 彼女はお目付け役・結城に命じて、塩沢弥生の身辺調査を依頼していた。秀一朗と別れさせる口実なぞいくらでも見つかるだろうと言う予想に反し、彼女の経歴には一片の汚点も存在しなかった。旧家の家柄で両親はともに有名デザイナー。過分に優秀と言うわけではないが学業面に問題はなく、何より周囲の彼女の人柄に対する評価が非常に高い。友人、知人、隣人の誰一人として彼女を悪く言う者はいなかった。


 道に迷っていたところを親切に案内してくれたとか、町内走り回って捨てられた子犬の里親を探し回り、結局見付からず六匹とも自分で飼っている(その他にも元野良だったペットを多数飼っており、塩沢邸は通称アニマルランドと呼ばれている)とか、見知らぬ小学生に傘を貸してあげていたなどなど……やろうと思えば出来ないことではないが、それをしない若者の多いこの世知辛い世の中で、裕福な親に頼らず、全て自身の力で善行を重ねている辺りが好感を持たれる所以だ。


 あの真面目で優しい兄が心奪われて当然だ、彼と同じく非の打ちどころのない人間なのだから……これ以上の理想的な相手はいない、頭では分かる。


 愛美は自身の我が儘放題の奔放な性格を自覚しており、妹と言う立場でなければ秀一朗に愛されなかったことを自覚していた。だからこそ、無条件に愛された弥生の存在は苛立たしかったのだ。


 結局のところ、愛美は兄を誰にも渡すつもりはなかった。





 * * * * * * * * *





 それからまた更に一週間後の朝の学校では、秀一朗は何故か見るも無残に落ち込んでいた。


「……ん、……だ君……っ、……池田君ってばっ!」


「……っ、……やょ……塩沢さん……」


「(別に、もう名前で呼んでくれてもいいのにぃ……)どうしたの? すごく顔色悪いよ」


 心配して声を掛けた弥生に対し、物思いに耽っていた彼は動揺して二人きりでもないのに名前を呼び掛けたが、途中で思い留まる……クラス総出で面白くない。


 実は二人が互いを意識し合っていたことをクラス内で知らない者はおらず、この度お付き合いをすることに至った経緯も翌日にはしっかりバレていた。そのことを冴にこっそり告げられた弥生は動揺するも、すぐに開き直り、(この世知辛い時勢にほんわかとした雰囲気を醸し出す彼らに、某韓国ドラマにより大人気のヨン様以上の癒しを見出して)温かく見守ってくれているクラスメイト達に感謝していたのだ。


 よって、どんどん名前で呼んでくれ、な弥生と級友達だった。


「いえ、大丈夫です……何でもありません」


 そんな教室内に蔓延する思惑を全く知らない秀一朗は、冴えない微笑みを浮かべて頭を振る。


「平気と言える顔じゃないぞ、池田」


「そうそう……って、冴ちゃんっ?」


「当ててやろう……お前の妹、何か仕出かしたんじゃないのか?」 


 急に……それでいて自然に、背後から会話に参戦してきた彼女は、確信を持って話を続ける。


「……っ! 何故、君が妹のことを知ってるんですかっ?」


 冴の言葉に、秀一朗は周囲の状況も忘れて叫んだ……彼は弥生との関係について、愛美が脅迫めいた宣言をしにきたことを知らない。


「場所を移そう、弥生もおいで。……後、よろしく」


 冴は気を利かせ、隣で小首を傾げるとことん鈍い幼馴染にも声を掛けて、教室を出ていった……残されたクラスメイト達も中途半端に事情を知っているだけに、冴に頼まれた一時限目の三人の隠蔽工作も含め、気が気ではなかった。





 そして、やって来たのはやはり例の屋上……堅物生徒会長殿も、自身の家庭事情の為には口を噤んだらしい。


「……教えて下さい、八神さん。何故、僕の妹のことを知っているんですか?」


「その様子じゃ、妹から聞いてないみたいだな……二週間前に、弥生にお前と別れろと忠告しにきたんだ。その時、池田はホームルームの準備で鈴置先生に呼ばれていたからいなかった」


 その言葉に、秀一朗は息を呑む……完全に初耳だった。


「妹が可愛いのは分かるが、もう少ししっかり躾けた方がいいな。


 今度は何をやったんだ……弥生絡みなんだろう?」


「えっ、今度はって?」


 弥生はその言葉が気になり、冴に尋ねる。


「気付いていないようだし、叩いて出るような埃もないから放置してたんだが……先週一週間、興信所の人間が弥生のことを嗅ぎ回っていた」


「「ええっ!」」


 秀一朗と弥生は同時に叫び声を上げた。


「捕まえて締め上げたら、池田妹のお目付け役に雇われたと白状した。報告書チェックして、問題なかったから返してやった……その代わり、池田の親父さんにも渡せと言っといた。最近、弥生との交際を誉められただろ?」


「……っ、妙に上機嫌な様子で……見る目があると言われました」


「同感だ」


 次から次へと知らなかった事実が発覚することに動揺してか、正直に頷く彼に冴はニヤリと笑った……認識以上に有能だった彼女に、弥生は開いた口が塞がらない。


「で、何をやったんだ? 弥生に危害が及ぶことなら、この私が容赦はしない」


「そんなことは有り得ませんっ! ……ただ、愛美が家を出たんです……塩沢さんと別れないと、家には戻らないと」


「えっ……ヤだっ、……あっ!」


 即座に弥生が叫んだが、慌てて口許を押えた……実に可愛らしい(冴&秀一朗談)。


「はいはい……で、親父さんは何て? 知ってるんだろ?」


「放っておけ、頭が冷えたら自分から帰ってくるだろうと……父が経営するル・ミレ・ピジョンのスイートに泊まっているのは分かっているので」


「そんなことだろうと思ったよ……幼稚な考えだな。


 その程度のことで落ち込むな。弥生が可哀想だと思わないか? お前は誰よりも弥生が大切なんだろう? 妹の我が儘に負ける程度のそんな薄っぺらい想いだったら、弥生は返してもらう……私なら、絶対に誰とも引き換えない」


 煮え切らない表情の彼に、冴は不満そうに眉を顰めた。秀一朗の隣にいた弥生の腕を引っ張って、彼女の身体を引き寄せて腕の中に囲い、きっぱりとそう言い切る。


「……冴、ちゃん……?」


 いつにも増して真摯な双眸を秀一朗に向ける彼女に、弥生は動揺する……優しい幼馴染の顔は、そんな筈は決してないと言うのに、一人の男性に見えた。


「……っ、そんなつもりはないとさきほども言った筈です! 君がどれほど優れた人物でも、弥生さんへの想いで負けるつもりはない……彼女を放して下さい!」


 秀一朗はそんな冴に、今まで誰にも向けたことのないような厳しい視線を送る。鋭い視線は空中で交わり、今にも火花を上げそうな勢いだった……が。


「……ははっ……、合格」


 最初に目を逸らしたのは冴だった。いつも通りの何処か人を食ったような笑みを浮かべると、そう言って腕の中の弥生を解放する。


「……えっ、……八神さん?」


「弥生も何を本気にしてるんだ、芝居に決まってるだろ」


 ぼーっとした表情で一様に目をぱちくりする彼らに、冴は溜め息を吐いた。


「……だって、すっごい名演技だったから……一瞬、男の人に見えた」


「誉め言葉と受け取っとくよ……とにかく池田、妹のことは暫く放っておけ。弥生を泣かせたら別れさせるのは本気だ。そこのところを、ちゃんと肝に銘じとけよ」


「了解です。……貴女が同性でなくて、本当に良かった」


 本気で呟き、嘆息する秀一朗であった。





 * * * * * * * * *





 またまた更に一週間後……事件勃発である。


 秀一朗に弥生、そして、冴も表情には出さなかったが至極焦って、新宿歌舞伎町を走り回っていた。


 父親が経営するル・ミレ・ピジョン・ホテルから、愛美が姿を消したのだ。今朝、家に帰ると顔馴染みのホテル従業員に言い残したが、ボディーガード兼お目付け役の結城が不覚にも少し目を離した隙に、彼女は忽然と姿を消してしまった。彼は必死に夕刻近くまで探し回った結果、聖クリエール女学院の制服を着た少女が、家の方向とは真逆の歌舞伎町をフラフラしていたと言う証言が入り、それを主人である清十郎に連絡する……その報が入った時、ちょうど池田邸に招かれていた弥生と冴の二人は、いても立ってもいられず、現場に急行したのだ。


「……本当にどこに行ったんだろぉ……」


 一緒に探しては効率が悪いと、秀一朗、捜索隊(池田家ガードマン・使用人方々)と途中で別れ、冴と一緒に行動していた弥生(それが一番安全だからと、秀一朗も渋々承諾)は、不安げに呟く。


「これだけ探していないところを見ると、ホストクラブの客引きかキャバクラのスカウトに掴まってる可能性が高……」


「そこのお兄さーん、ウチのお店で飲んでかない?」


「結構、間に合ってる。他を当たれ」


 言葉を遮って露出度の高い美女に声を掛けられたイケメンにしか見えない私服姿の冴は、女性相手には珍しく冷たい視線を送って黙らせる。


 強い責任感を感じていた。愛美が幾ら頭に血が上っているとは言え、兄を困らせる為に我が身を危険に晒すような真似に出るとは、彼女にも予想外だったのだ。放っておくように忠告した自身の無用心さに、腹が立つ。犯罪すれすれだったり、法の目を掻い潜ったいかがわしい店の連なるこの界隈に世間知らずな少女が一人で歩いてなんかいたら、一体どうなるか……最悪の結果を想像し、背筋が凍りついた。


「それじゃ、お店の中入って確認しなきゃっ!」


「待った、……それは危険だ。私だって万能じゃない」


 冴は、いかがわしい店に方向転換しそうになった弥生の襟首を掴んで制止した。それから一つ溜め息を吐くと、何処か諦めたようにポケットからある物を取り出す。


「あれっ……冴ちゃんって携帯持ってたんだ!」


「……バイト先で貰った業務用だよ、仕事にしか使ってない」


 番号教えて、と(この状況下で不謹慎にも)つめ寄る弥生に、冴は掛けなれた番号をプッシュしながら頭を振った。


「どうも、マシンガン支配人、八神です。ええ、非番ですが……実は人を探していまして、支配人のネットワークをお貸りしたいんです……はい。はい、分かりました……すぐ行きます、本当に助かります」


 電話に出た相手と一頻り会話をして電話を切った冴は盛大な溜め息を吐く。


「さ、弥生……これから私のバイト先に行くぞ」


「えっ、バイト先って……マシンガンってっ?」


 電話中に飛び出した物騒な単語に、弥生は不審げな目を向ける。


「言っとくけど、武器の密輸をやってる会社じゃないよ。マシンガンは支配人の源氏名なんだ」


「源氏名ぁっ?」


「そーゆー反応するだろうって分かってたから、あんまり言いたくなかったんだ……着けば分かるよ。別に法に触れる商いはしてないから」


 びっくりして大きな目を更に大きく見開いている彼女に、冴は疲れたような苦笑を見せた。





 * * * * * * * * *





 知る人ぞ知る都内某所の有名ホスト倶楽部『銃夢ガンム』のホスト達は、珍しく機嫌の悪さを露骨に顔に出している支配人のいるエントランスを逃れ、開店前の店の中をいつにない真剣さで掃除していた。


 彼の身長は一九十センチ近い。整った醤油顔ではあったが、金髪オールバックで堅気にはあり得ない派手な立ち襟のスーツとゴツいゴールドのネックレスに指輪なんて身に付けられて、一重の黒目の小さな瞳が不愉快そうに細められていたらば、中身をよく知っていてもおよそ近寄りたくなかった。


「お疲れ様です!」


 そんなある意味緊迫した空気の中、二人の人物が店内に入ってくる。


「……ああ、冴か。電話の件だな」


 目を掛けている真面目な彼女の登場に、支配人は僅かに機嫌を浮上させる。


「ええ、開店前に済みません。彼女は幼馴染です、当事者なので連れてきました」


「分かった、用件は?」


「はい、実は……」


「冴ちゃんっ!」


 口を開き掛けた彼女の腕を、弥生が力いっぱい引っ張った。


「……っ、どうしたんだ……弥生?」


 話を遮られ、振り返った先の酷く怒ったような表情の彼女に、冴はわけが分からずにギョッとする。


「見損なったわよ! ホストのバイトなんてっ! 冴ちゃんは女の子でしょっ……それがっ、ホストだなんてホストだなんて……何でっ、そうなる前に私に相談してくれないのよぉ……ひぃーんっ!」


 そして、最終的に彼女の胸で泣き始めてしまった……冴は思わず助けを求めるように、支配人に目線を送る。


「……ははははっ……、いい幼馴染だな」


 彼は鋭い瞳を細め、殊の外優しい表情で笑っていた。


「そう思います。弥生、泣かないで……違うから。私はホストじゃない」


「……ひっく……ぅっ、……違うって?」


「警備員をしてるんだ、客は取ってないよ。弥生の言う通り、私は女だからね」


 涙ながらに見上げる彼女に、冴は困ったような微笑みを浮かべていた。


「……警備員?」


「高校卒業後にフロアスタッフにならないかと誘ってはいるんだがな、ずっと断られてる」


 支配人も弥生に微笑み掛ける……チャラチャラした服装に目を奪われていたが、その優しい微笑みに彼の印象はガラリと変わった。


「ごっ、ごめんなさい! わっ、私……ホストなんてって言っちゃって……」


「いや、構わない。実際、真っ当な職業でもないからね……ホストをやっている人間で、信用出来るのはこの店の者ぐらいだ」


 気にした風もなく頭を振る彼に、職業に対する差別発言をしてしまったことを弥生は心底後悔した。


「マシンガン支配人は誰よりも真っ当ですよ」


「有難う」


 にっこり微笑み合う長身の美形二人組は、ド派手だが実に絵になる。


 何でそんな物騒な源氏名つけてるんだろ? ……風変わりな呼称に、弥生は涙も引っ込めて小首を傾げた。


「ウッス……って、冴? あんた今日非番じゃん、何やってんの?」


「よう、ヌンチャク。相変わらずギリギリだな」


 そんな和やかな空気が流れる中、猫のような印象を受ける中性的な少年が現れる。再び耳にした風変わりな呼称に、弥生はまたも小首を傾げてしまった。


「ヌンチャクっ、遅いぞ! いつもいつもお前っ、やる気あるのかっ!」


 彼の顔を見た途端、マシンガンは豹変……悪鬼の形相でヌンチャクを叱りつける。


「……事情ぐらい聞いて下さいよ、途中でイロイロとあったんスから」


 彼は嫌そうに顔を顰め、ふてぶてしく言葉を続ける。反省の色は全くなかった。


「何がイロイロだっ、徹夜明けか喧嘩吹っ掛けてたかのどっちかだろうが!」


「……ちょっとっ、部外者もいるんですよ、二人とも!」


 全く反りの合わない二人の盛大な衝突が起こる前に、冴が慌てて間に入る。


「あっ、そうだ……さっきから気になってたんだ、この子、誰? 冴の彼女?」


「「ただの幼馴染だよ(です)!」」


 見事にハモりながら、冴と弥生は頭を振った。


「違うのか? 冴の好きそうなタイプじゃん」


「自分がそうだからって、他人までアブノーマルだと決めつけないでくれないか。完膚なきまで叩きのめすぞ……また」


「あんた、ホントに堅気の女? 実践向き過ぎるんだよね、身体運びとかさ」


 彼は、空恐ろしい笑顔を浮かべた冴に頭を振りながら呟いた。


 新宿歌舞伎町の風俗店と言うだけでバックには暴力団が、ヤクザ同士の抗争だとか、麻薬の取引きと言った危険に巻き込まれる時もあるのでは、と薄暗い想像をしがちだが、銃夢はそう言った裏社会との繋がりは一切なかった。そんな比較的真っ当な店で、客も女性ばかりなので警備員もないだろう、どうせお綺麗な顔から客寄せパンダの意味合いで雇われたに違いないと思ったヌンチャクは、ほぼ初対面の状態で喧嘩を吹っ掛け、ものの見事に返り討ちにされた経験があったのだ。


 後に未成年かつ女であること……東京駅で電車を待っていた私服姿の冴を支配人であるマシンガンが見染め、当初フロアスタッフとしてスカウトしていたのだが、風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律、いわゆる「風営法」に引っ掛かってしまう為、それは断念せざるを得なかったと言うことを知った。


 警備員とは、未来のナンバーワン・ホスト候補を逃したくなかった支配人が考えた苦肉の策だったのだ……ただ、当事者の冴には断られ続けているのだが。


「煩いよ……そんなことより、支配人に聞きたいことがあるんですが」


「ああ、そうだった……脱線して済まない。で、どんな奴を探しているんだ?」


 そこでようやく思い出したらしい支配人も、そう尋ねてくる。


「はい、この子のことで……」





「「この子はっ!」」





 ようやく話に割り込むことの出来た弥生が取り出した愛美の写真に、マシンガンとヌンチャクは同時に叫んだ。


「見ましたかっ、どこでっ?」


「店に来る途中、セーラー服を来たこの子がこんな場所をフラフラしてたから、危ないと思って声を掛けたら、ヤクザに間違われて逃げられた。……こらっ、笑うな」


 マシンガンの不機嫌の理由だった……その出で立ちから仕方のないことだが、彼の意外と繊細な心は酷く傷付いたのだ。


「俺もついさっきこの店の前でぶつかって、足踏まれた……最近の女子高生のローファーって踵高いじゃん? かなり痛かって睨んだら、鼻で笑いやがったっ!


 連れてる野郎どもは大したことなさそうだったから締めても良かったけど、遅刻したらまた支配人にグチグチ言われるから無視った」


 超ムカツクっ! ……と、ヌンチャクも憤懣やる方ない様子で吐き捨てる。


「男を連れてたって! ヌンチャクっ、彼女はどっちに行ったっ?」


「どこって、東の方……あっちはもう店なんかなくて、潰れたスナックぐらいしかな……って、……もしかして犯罪一歩手前?」


「助かりました、有難うございます! 急ぐぞ、弥生!」


「あ、うんっ、どうも有り難うございました! マシンガンさんとヌンチャクさん」


 二人は口々に礼を言うと、ダッシュで銃夢を後にした。


「……じゃあ、あのムカツク女が冴の彼女?」


「違うだろ。あんななりして人が良いから、面倒に巻き込まれてるんじゃないか?」


「ああ、それありそう……黙ってりゃいい男なのに」


「喋っても、お前よりいい男だぞ」


「……そっくりそのまま返しますよ、支配人」


 今にも第二戦目が勃発しそうな二人だった……。





 * * * * * * * * *





 辛うじて裸電球の明かりに照らされた何もない元スナックだったらしい廃屋の中で、愛美は薄汚れた床の上に座り込み、甲高い声でケラケラと笑っていた。頬は真紅に染まり、目は熱っぽく潤んでいる……明らかに酔っ払っている。


 そんな彼女を見下ろす男が三人……。


「……マジで、いいもん拾ったな」


「ああ、こんな上玉、二度とお目に掛かれないぜ?」


「こんな所一人でフラフラしてる方が悪ぃんだ……たっぷり楽しませて貰おうぜ」


 下卑た会話を繰り広げていた。


「ちゃんとドア開かねぇように、きっちりバリケード張ってんだろーな?」


「ああ、もちろん。お楽しみの最中に邪魔されちゃたまんねぇだろ……大の男でも抉じ開けれねぇように、散々テーブルと椅子を積んでるって。中で何ヤッてても見えねぇよ」


「そりゃあいいぜっ、……あははははははっ!」





 ドガーーーンッ!





 そんな彼らの余裕綽々な言葉とは裏腹に、廃屋への唯一の入口前に(犯罪行為の為とは言え)素晴らしい努力で積み上げられたテーブルや椅子の山が、轟音とともにドアごと内側に吹っ飛んできた。


「「「何ぃーーーーーーーっ?」」」


 三人は、その光景が信じられずに絶叫する。


「……よし、間一髪ってとこか」


 長くしなやかな右足を空中で綺麗に静止させた体勢で、入口に立った人物はホッとしたように呟いた。


「すっごいバリケードぉ……よく一蹴りで開いたねぇ」


「こう言う時の為に鍛えてるんだ、役に立たなきゃ困るよ。さて、我が儘なお姫様を救出するとしますか……あんまり気乗りはしないけど」


 言いながら廃屋の中に入ってきたのは、言わずと知れた弥生と冴の二人である。


「なっ……何なんだよ、お前ら!」


 男達の一人が叫び声に近い声で言う……冴の怪力を見せつけられ、彼らはもう既にかなりの勢いで引いていた。


「その子を渡してもらおう……とっ、……酒飲ませたのか。正気の女も相手に出来ないなんて、男の風上にも置けないな」


 愛美の周囲に転がるビールやチューハイの空き缶を目にとめた冴は、シニカルな笑みを口元に浮かべながらボキボキと指を鳴らす。


「嬲り殺し、決定だ……早死にしたい奴からかかって来い」


「なっ、この野郎ぉーーーーっ!」


 さきほどの男の叫び声とともに、三人は一斉に冴に向かって突っ込んでいった……。





「……えっ?」





 冴は次の瞬間に驚いた様子で目を見開く。





「「「覚えてろーーーーーーっ!」」」





 突っ込んでいったかに見えたが、彼らは彼女の脇を素通りし、開き放たれた入口から逃亡したのだった……実に情けない。


「……消化不良だ」


 すっかり臨戦態勢に入っていた冴は、不機嫌そうに吐き捨てた。


「愛美ちゃんっ、大丈夫っ?」


 弥生は何も見えていなかったようにケラケラと笑い続ける彼女に駆け寄り、その肩に手を掛ける。


「クスクス……誰ぇ? 貴女も私と遊んで下さるの? お兄様もお父様も……私よりもあの女の方がいいんですって……ウフフフフっ! おかしいでしょぉ? 私なんて、どうなってもいいのぉ……愛されていないんですわぁっ!」


 すっかり酔っ払っている愛美は弥生が分からないようで、フワフワした口調でそう言った。


「……いい加減にしなさい! みんな、どれだけ心配したと思ってるのっ?」


「きゃあっ……!」


 弥生はその言葉に堪らず怒声を上げ、愛美の頬に平手打ちを見舞う。


 うわぁー、久々に弥生がキレた……温和でやや天然気味な幼馴染の激昂を前に、冴は内心冷や汗をかいた。普段穏やかな人が怒るとそれだけで恐ろしい……その定説通りの弥生は、酷く険しい表情を浮かべている。


「……っ、いきなり何をするんですのっ?」


 両親にすらぶたれたことのなかった愛美は、その衝撃的な一撃で我に返ったようで、目の前の忌々しいことこの上ない彼女を睨む。


「貴女っ、逃げてるだけじゃない! 本当に私と池田君を別れさせたいなら、正々堂々と池田君本人に言えばいいでしょうっ? 何でこんな卑怯で回りくどい方法ばかり取るのよっ!」


「なっ……!」


 それに怯むことなく自身に正論を叩きつける弥生に、愛美は二の句が告げなかった。兄ですら、ここまで激しく自分を叱りつけたことはない。


「池田君に嫌われたくないからっ? 彼が貴女を嫌うことはないわっ……どれだけ傷付いてもね! 妹と言う肩書きに甘えないでっ……大好きなお兄さんを悲しませて、それで満足っ?」


「……ぁ……何、言ってっ……」


「貴女自身も、あと一歩のところで取り返しのつかないことになってたのよっ? 運が悪ければ死んでたかもしれないの! 貴女はことの重大さをまるで分かってないわっ……池田君は貴女を自分の所為で死なせたと、一生後悔し続けることになる! 池田君を、貴女が不幸にするのよっっ!」


「そんなっ……」


 容赦はないが、事実に他ならない言葉に、愛美の頬に涙が伝う……。


 彼女は自身を迎えにきてくれない家族に癇癪を起こし、ただ少し困らせてやりたかっただけだったが、弥生の言葉でようやく我が身がどれだけ危険に晒されていたかを実感した……遅ればせながら、身体が小刻みに震え始める。


「泣いてないでちゃんと謝りなさいっ、迷惑掛けたみんなに!」


「……っ、ご……ご免なさいっ……!」


 両肩を揺さ振られ、激しい口撃を受けた彼女は、嗚咽交じりに従った。


「分かったっ? もう二度とこんな事しちゃ駄目よ! 


 ……愛美ちゃん、……貴女が無事で、本当に良かったわ」


 萎縮し、謝罪の言葉を繰り返しながら泣きじゃくる彼女の身体を抱き締め、弥生は最後にそんな言葉を掛けた……。





 * * * * * * * * *





 全てが片付いたとある日の昼下がり、聖錠大付属高校三年一組の教室では……。


「……最近池田とはどうだ?」


「うん、すっごく仲良いよ」


 相変わらず、超絶美形女子高生が幼馴染の恋路に首を突っ込んでいた。


「そうか、雨降って地固まるだな……よかったよかった」


「冴ちゃんには、いっぱい迷惑掛けたよねぇ。ホント、感謝してる」


「私は弥生さえ幸せなら、それでいい」


 憑き物の取れたような笑顔の彼女に、冴は同じく穏やかな笑みを返した。


「ホント、持つべきものは最強の幼馴染よね! さっ、ご飯食べに行こう!」


「……今日は池田と食べないのか?」


「お昼休みに生徒会の集まりがあるから、生徒会室で役員と一緒に済ますって」


「そうか、あいつもいろいろと大変……」





「お姉様ぁーーーっ!」





 取り留めのない話をしながら教室を出て行こうとした二人の会話に、えらく可愛らしい声が乱入した。





「「なっ……?」」





 冴と弥生の声が、またも見事にハモる。


「どうかなさいまして、お姉様方!」


「まっ、まままっ……愛美ちゃんっ?」


 二人の目の前には、満面の笑みを浮かべた秀一朗の妹・愛美が、聖錠大付属高校の制服を着て立っていたのだ。


「どうしたの、その格好っ!」


「お姉様方の為に、聖クリエールから転校して参りましたの。ウフっ、これからはいつでも一緒ですね」


 じ、人格変わってるしっ! ……弥生の背筋を悪寒が駆け上がる。


「池田はそんなこと、一言も言ってなかったぞ!」


「お兄様には黙ってましたわ、だって反対されますもの。これからは、よろしくお願い致します、弥生お姉様に冴お姉様!」


 私もかっ! ……熱っぽく潤んだ瞳で自分達を見上げる愛美に、冴は内心絶叫する。


 つまり、こう言うことである。


 初めて自身を思い遣って手を上げ、叱ってくれた弥生……そして、酔いが覚めた後で思い出した、卓越した体術で悪漢の魔の手から自身を守ってくれた冴に、家族以外の誰かを愛すると言うことを知らなかった愛美の心は見事に奪われてしまったのだ。


「ウフフっ、お兄様には申し訳ありませんけれど、両手に花ですわねぇ」


 呆然とする二人と腕を組んで幸せそうなその表情に、遠慮は全く窺えなかった。


 一難去って、また一難……その慣用句の意味を、深く実感した弥生と冴だった。


 その後、池田兄妹の弥生をめぐる仁義なき戦い、愛美と冴の愛の追走劇が、聖錠大付属高校の毎日の恒例行事になったことは言うまでもない。





 愛してやまない彼女の最強幼馴染にすっかり食われ、ある意味では妹よりも影の薄くなったもう一人の主人公・秀一朗の受難はまだまだ続く……。

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[一言] 楽しかった~ 同級に173CM空手黒帯びが(女子)居たので思わず思い出しました。 ある意味懐かしかったです。
[一言] ちょっと展開がベタすぎる気がします。 新人の読み切り少女漫画のストーリーのようで。シナリオ進めるためにキャラクターを記号化しすぎて逆に希薄になってしまっているのと、心理描写が薄いので、全部他…
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