あいにくの雨で
新米大工のアルは空を見上げて呟いた。
「急ぎの仕事なのによぉ」
老婦人のクララはため息をついた。
「バラの剪定をしようと思っていたのに」
仕立て屋のカイルはあたふたする。
「今日はお届け物があるんだが」
元気な男の子、トビーはふくれっ面。
「大物を釣ろうと思ってたのに」
郵便配達夫のベンは顔を曇らせる。
「こりゃあ、仕事が大変だ」
御者のセバスチャンは眉根を寄せる。
「面倒くさいな」
皆それぞれ、空を見上げる。
『あいにくの雨⋯⋯』
◇ ◇ ◇
アルは今日、張り切っていた。
親方から任された民家の外壁修理。初めて一人で任された仕事である。
「それにしても、今日はひどく暑いな」
まだ午前中だというのに、ジリジリと照りつける太陽が眩しい。じっとりとした熱気が肌にまとわりつき、ミンミンと鳴き叫ぶセミの声が余計に頭を揺さぶる。
「この釘を打ち終われば終わりだ。待ってろよ、エリー」
彼は今夜、恋人のエリーにプロポーズするつもりだった。この仕事が終わったら、その足で宝石店へ行き、給金をはたいて指輪を買うのだ。
そんな幸せな妄想ばかりが頭を占め、水を飲むことすら忘れてハシゴの上で手を動かし続けていた。
いや、頑張りすぎていた。
——くらり、と視界が沸騰するように歪んだ。
「あ……」
彼の体はふらりと揺れ、足場を失って真っ逆さまに墜落した。
ドサリ、という鈍い音の直後、あまりの衝撃にアルは一瞬だけ意識を取り戻した。
背中に強烈な冷たさと違和感。隣家との境界にある鉄柵の鋭い槍が、自分の胸を根元まで刺し貫いている。口の端からドクドクと溢れる血は、酷く鉄の味がした。
薄れゆく視界のなかで、アルはぼんやりと思う。
(あいつ、どんな指輪が好きかな……)
それが、彼の生涯最後の思考だった。
アルの手から滑り落ちた重い金槌が、隣の家の庭へと放物線を描いて吸い込まれていく。
*
クララは今日、張り切っていた。
亡き夫が愛した美しいバラを、来年も大きく咲かせるための剪定をやっているのだ。
明日は夫の命日である。
(あなた、今年も見事に咲きましたよ。咲き残るバラを花束にして、墓前に供えますね)
隣の敷地からは、朝早くからトントントンと大工仕事の音が響いていた。
作業が一段落したのか、ふっと音が止む。
(さあ、ここはこれでいいわ)
クララが立ち上がったその瞬間、隣の足場から放物線を描いて飛んできた重い金槌が、彼女の頭上へ落下した。
ガツンと鈍い音がして、クララの使い込んだ麦わら帽子ごと、その額を強打する。
(大きな花束が作れそうだわ……)
そんな暢気な思考を最後に、クララの意識はぷつんと途切れた。
彼女はそのまま後ろへ倒れ込み、手に握っていた鋭利な剪定バサミが、反動で生垣の向こうの街道へと勢いよく飛んでいった。
*
カイルは今日、張り切っていた。
この街の領主である伯爵からの注文の最高級のシルクスーツをお届けに上がるのである。
カイルは完成したばかりの純白のスーツをハンガーにかけ、細心の注意を払って街道を急ぎ足で歩いていた。
「これで私の店は安泰だ。完璧な仕上がり、非の打ち所がない。伯爵もきっと気に入ってくださるに違いない!」
生垣から飛び出してきた剪定バサミがこめかみに突き刺さった瞬間、真っ赤な鮮血がスーツの埃よけの薄紙に飛び散る。
(ああ、汚してはならない、 スーツを、私の最高傑作を)
そう思いながら、彼の脚はスタスタスタと下り坂を転がるように歩き続ける。
そして、何かにドスンとぶつかると、意識がぷつんと途切れたのだった。
*
トビーは今日、張り切っていた。
「今日こそあの大物を釣り上げるぞ!」
病気で寝たきりの妹のナンシーに、大好きな川魚のムニエルを食べさせて元気づけようとしていた。
父親の形見である頑丈な釣り竿を握りしめ、川辺でじっと浮きを見つめていた。ついに竿が大きくしなり、大物の手応えに胸を躍らせた。
「やったぞ! これでナンシーが笑顔に——」
しかし、そこに街道から歩いてきた男がドンとトビーの背中にぶつかった。
トビーは、あっけなく川へ転落する。
(息ができない、お父さん、助けて! ナンシーに、ナンシーに魚を!)
水面から差し込む光が遠ざかるのを見ながら、トビーの意識は冷たい泥の中に沈んでいった。
*
ベンは今日、張り切っていた。
今日が最後の仕事だ。この手紙を配達すれば、郵便配達夫としての三十年の人生は終わる。明日からは、妻とのんびり過ごそう。
そんなことを考えながら川辺を通りかかった時、水に沈む男の子の服が視界に入った。ベンは迷わず重い配達バッグを放り出し、川へ飛び込んだ。しかし、引き上げたトビーの体はすでに冷たく、瞳は濁っていた。
(間に合わなかった。俺が、もっと早く見つけていれば……!)
激しい自責の念と、真夏の猛暑のなか冷たい川へ飛び込んで激しく動いた代償が、一気にベンの体を襲った。急激なめまいと激しい疲労感に襲われ、ベンはドスンと近くの太い木にもたれかかった。
運悪く、その木の上には巨大なスズメバチの巣があった。
いきなりの衝撃に驚いたハチたちが一斉に這い出し、巣の下にうずくまるベンを見つけて襲いかかる。
「うわああっ!」
ベンは狂ったように走って街道まで逃げた。容赦なく照りつける太陽、刺された箇所の激痛、そして過酷な全力疾走が、ベンの体温を異常なまでに上昇させていく。重度の熱中症を発症し、目の前が黄色く染まるなか、ベンは全身をハチに囲まれ、何度も刺されながら街道の真ん中で崩れ落ちた。
激しく脈打つ心臓を必死に押さえながら、最後の手紙を、これだけは配らなければ……という執念だけを残して、ベンの意識は完全に途絶えた。
*
セバスチャンは今日、張り切っていた。
今まで、わずかな量で何十人もの命を奪うことができる火薬を荷馬車で運ぶという、危険極まりない仕事を敢えてやってきた。それもこれも、田舎で小さな牧場を開くという夢のために、必死にお金を貯めていたからだ。
念願叶って、手頃な田舎の牧場を見つけることができた。今日が荷馬車での最後の仕事だ。
「さあ、この積み荷さえ降ろしてしまえば終わりだ。もう危険な火薬ともおさらばだ」
坂のカーブを曲がった直後、街道の真ん中に不自然に横たわる人の姿が目に入った。
(おい、どけ! 酔っ払いか!? 避けられない——!)
セバスチャンは必死で手綱を引き、全力でブレーキをかけた。
しかし、馬たちは黒く渦巻くハチの不気味な羽音に狂乱し、制御を失って暴走。荷馬車は凄まじい音を立てて横転した。
「うあああああ!」
投げ出されたセバスチャンの上に、火薬の樽が容赦なく降り注ぐ。
地面との摩擦で火花を散らした火薬樽が、不気味に白い煙を上げ始めた。
(俺の、俺の牧場⋯⋯!)
そして、間を置いて大爆発した。
周囲の木々を吹き飛ばすほどの爆風の中、外れた馬車の車輪の一つが、炎から逃れるようにコロコロと楽しげに坂を転がっていった。車輪はそのままとある家の鉄柵に突き刺さる男の体の側で、カランカランと虚しい音を立てて止まった。
*
一部始終を見ていた女神が、天界から涙を流した。
あまりにも残酷で、あまりにも理不尽な、六人の善き人々の死。
女神は静かに祈りを捧げ、そして、今日という一日をもう一度繰り返すことにした。
ただし、彼らの運命を狂わせた、あの狂おしい猛暑の一日ではなく——優しくすべてを濡らす、雨の日として。
◇ ◇ ◇
新米大工のアルは空を見上げて呟いた。
「急ぎの仕事なのによぉ」
老婦人のクララはため息をついた。
「バラの剪定をしようと思っていたのに」
仕立て屋のカイルはあたふたする。
「今日はお届け物があるんだが」
元気な男の子、トビーはふくれっ面。
「大物を釣ろうと思ってたのに」
郵便配達夫のベンは顔を曇らせる。
「こりゃあ、仕事が大変だ」
御者のセバスチャンは眉根を寄せる。
「面倒くさいな」
皆それぞれ、空を見上げる。
『あいにくの雨⋯⋯』
皆それが、自分たちの命を救った恵みの雨だとは気づかない。




