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円環に酔う

作者: 塵芥 庵
掲載日:2026/05/02

はてさて皆様、電気ブランなるものをご存じだろうか。

決して、電気ブランケットの略称ではない。

文学に造詣の深い方々ならば、その名を聞いて記憶の片隅に微かな光を感じるかもしれないが、未だ見ぬ人々のために少しばかりご紹介しよう。

電気ブランは浅草の老舗「神谷バー」が生んだ酒で……

いや、解説はやめよう。

今の私は、電気ブランの歴史を語りたいわけではないのだ。あの琥珀色の液体を求め、そしてあの場所で出会った「彼」の話をしたいだけなのだ。


正直に言えば、私は興味本位というよりは、なかばネタ探しのために神谷バーの暖簾をくぐった。

私は以前よりネットでエッセイを投稿しているのだが、どうにも最近は筆が乗らず、書くべき種が枯渇していたのである。




浅草の地に降り立ち、迷わず神谷バーを目指す。雷門だ、食べ歩きだ。そんなありふれた観光情緒はどうでもよかった。

足取り軽く目的地へ向かう私は、さながら決闘に赴く戦士の心境であったろうか。などと格好をつけてはみるが、浅草の大群衆の中に混じれば、私はただの青二才に過ぎない。


神谷バーはあまりに駅から近く、道中の余韻を楽しむ間もなく着いてしまう。事前に調べてはいたが、拍子抜けするほどの近さだった。


喧騒の店内、私は迷わずカウンターへ向かう。

バーのカウンターというのは思わぬ良いネタや交流を与えるものだ。


バーカウンターには既に先客がいた。

顔を赤く染め、頭には白いものが混じっているダボっとした服の男だ。

背中を丸めて電気ブランを一気に煽っている。まるでヤケになった若者がテキーラのショットを飲み干すような、危うい勢いがあった。


最初はとにかく話題を求めて話を始めた。




「実は私は仕事とは別に、しがない物書きをしているんです。

エッセイなんかをネットに上げたりなんかしてまして」


「おぉ、作家先生ですか」


「いやいや、そんな大層なものじゃないですよ。一銭にもならない、本当に趣味の範疇です」


「良い趣味だ。お金にならないくらいが、ちょうど良いんですよ。気の向いた時に、誰に気兼ねすることもなく書く。

お金もあまりかからないでしょう?」


「そうですねお金は基本かからないですね。

こうやってネタ探しに費用がかかるくらいです。

そちらはどうですか。趣味や仕事は何を?」


問いかけると、男は少し目を細めた。


「私はねぇ、なんでもない人ですよ。仕事はしていますが、どこにでもいる、ありふれた人間です」


そう言ってから、男はふと声を落とした。

「私はねぇ、どうにも怖くてたまらないんだ。

酒を飲むのも、怖いからだ」


その言葉を聞いて、私のアンテナが反応した。

これはネタになりそうな人だと。


「怖い? 奥様ですか、それとも仕事の重圧とか…」


「いやいや、そんなものはすぐに慣れます。私もこの年ですからね」


「では何を恐れてらっしゃるのか。やはり、死ぬことでしょうか」


「いいえ、そんなものではありません。もっと広義的なものです」


「難しいですねぇ。」

家庭でも仕事でもない。

何が怖いのだろうか。

ここは私も勝負に出てみることにした。


「ならば、“終わり”ですかね」


「惜しい。その兄弟あたりですよ」


終わりの兄弟?

私は少し考えて言った。

「…無限ですか?」


男は薄っすら赤い顔のまま答える。

「答えを言いましょうか。停滞ですよ」


この男、面白い。

ネタになるのはもちろんだ。

私は最高のネタを釣り上げたと実感した。


「こんなことを言ったら失礼かもしれませんが、あなたは面白い人ですね」


「いやいや、この年になって哲学なんて、よろしくない。学生でもないですからね」


「良いじゃないですか。哲学を語ろうが芸術を語ろうが。酒のつまみは食べ物だけじゃない」

私は更なるネタを求めて、男を肯定した。


「私のは酒のつまみになる話、ですか。

若者の恋バナなんて方がよっぽど私は好みですがね」


「あぁ、そりゃあ確かに良い。

やっぱりね、若いっていうのはねぇ。

どんな理屈も敵いませんよ」


その間に、男の目の前には何杯目かの電気ブランとビールが運ばれてきた。

男は会話で乾いた口を電気ブランで潤し、間髪入れずにビールをチェイサーとして流し込む。その洗練された一連の流れは、さながら武道の所作であった。決まった型を繰り返すように、彼は琥珀色と黄金色を交互に胃に落としていく。


「なぜ、かの文豪たちは電気ブランに惹かれたのだと思いますか」

私が尋ねると、男は愉快そうに笑った。


「そうですね…

太宰あたりは『安く即座に酔える酒だ』なんて言っていましたが。昨今なら、除菌用アルコールが一番安上がりでしょうがね」


「ハハッ、違いない。あれならワンプッシュで一口分、しかも無料だ」


笑い声が混じるなか、男は独り言のように続けた。


「しかし、酔いというのは不思議なものです。『酔えば本当の姿が見える』なんて言いますが、

では“本当”とは何か。

やりたい放題やるのが本当の自分なのか。

私は疑問ですね。

もしそうなら、自由人は常に酔っ払っていることになってしまう」


男の視線は、グラスの向こうの虚空を彷徨っているようだった。


「私はね、自由になりたいんですよ。あまりにも整然としすぎた神谷バーのような、

あるいは日常のような場所からね。

店に文句があるわけじゃない。

ただ、何かが欲しいんです。列車のレールを分岐させるような、決定的な何かが」


「ふふっ、なんだか山手線みたいですね。ずっとぐるぐる回っているわけだ。」


「違いない。私は山手線だ」

そう言って男は自由の女神のように腕を挙げた。


「ところで、何杯飲んだんですか?」


「えー、五杯かな」


「それは、ビールと電気ブランをそれぞれ五杯ずつ?」


「いや、ビールは二杯かな。流石に私も、今すぐ死ぬのは御免ですよ」


男はそう言って、悪戯っぽく笑った。

さっきまでの深淵を覗き込むような眼差しは消え、そこにはただの、酒好きの初老の男が残された。その一言が、神谷バーの喧騒の中に浮いていた私たちの時間を、強引に現実へと引き戻した。


「そろそろ私は帰りますよ。」

そう言って男は立ち上がる。


「店の外まで送りますよ。

流石に飲み過ぎでしょう。」


店を出ると、駅はやはり目と鼻の先だ。

「じゃあ、さようなら。

楽しかったですよ」


「私も楽しかったです」


男は軽く手を上げると、振り返りもせずに歩き出した。


その足取りは驚くほど淀みがない。

あんなに飲んでいたはずなのに、大黒柱のように真っ直ぐで迷いがない。

男はまたたく間に、浅草のどぎつい雑踏の中に溶け込んでいく。

私はその後ろ姿を追いかけようとして、

ふと、金縛りにあったように足を止めた。


さっきまであんなに面白い原石のように感じられた男はもう人混みの中から見つけられない。

彼はただ、溢れかえる無名の群衆と同化し、

一つの記号となって消えていく。

そのあまりの鮮やかさに、私は彼が最初からそこに存在しなかったのではないかとさえ錯覚した。


停滞を恐れた山手線は、次の駅へ向かったのだろうか。

それとも、やはり同じ円環を回り続けるのだろうか。

私は、彼の名前すら知らない。

次に会うことがあったとしても、彼を彼だと認識できる自信は、もう私にはなかった。

ただ、掌に残る電気ブランの冷たさだけが、あの奇妙な問答が実在したことを微かに証明していた。

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