誰も拾わなかった花冠を、公爵様だけが持っていきました
「代わりはいくらでもいる」——と、父はいつもそう言った。
書斎に呼ばれたとき、花壇の土が爪の間に残っていた。
「ユリア。辺境公爵家から縁談が来ている」
父はこちらを見なかった。机の上には姉ヘレーネの肖像画が飾られている。
「姉上は王太子殿下との婚約が決まった。だが公爵家への返事も出さねばならん」
つまり、姉の代わりに私を出すということだ。
「お前の代わりはいくらでもいる。だが姉上の代わりはいない。——わかるな?」
わかります、お父様。17年間、ずっとわかっていました。
私は伯爵家の次女で、取り柄は花を育てることだけ。社交は苦手、容姿は地味。代わりがいくらでもいるというのは、たぶん事実だ。
「承知しました」
一礼して書斎を出た。廊下の窓から、手入れをした花壇が見える。毎日花冠を1つ編んで食卓に置いていたけれど、17年間、持っていかれたことは一度もなかった。
代わりのいない花冠なんて、この世にはない。
◇
辺境公爵領に着いたのは5日後の朝だった。
馬車を降りた瞬間、目に入ったのは屋敷ではなく庭だった。
——ひどい。
薔薇は根腐れを起こし、日陰に向日葵が植えられ、排水路は泥で詰まっている。つる薔薇の誘引が逆方向だ。
ただ1箇所、東棟の窓の下に矢車菊が植えられていた。他がめちゃくちゃなのに、ここだけは——下手だけれど、丁寧だった。半分以上が枯れていたけれど。
「ユリア・フォン・ヴァイセン嬢か」
長身の男が立っていた。黒髪に灰色の目。表情が薄い。辺境公爵アレクサンダー・グランツ。冷徹で社交嫌いだと噂で聞いた。
「はい。本日よりお世話になります。……あの、確認させてください」
騙したまま嫁ぐのは性に合わない。
「本来のお相手は、姉のヘレーネだったはずです。私はその代わりです。それでも——」
「問題ない」
「……問題ない、ですか?」
「ああ」
問題ない。姉の代わりでも問題ない。つまり、誰でもいいということだ。
わかっていたけれど、少しだけ胸が痛んだ。
「その花冠は何だ」
指摘されて気づく。馬車の中で無意識に編んでいた花冠が膝の上に残っていた。
「これは……手が暇だと勝手に編んでしまうんです」
「もらう」
「え」
「欲しい」
「……なぜですか?」
「妻が初日に作ったものだ。家宝にする」
「家宝にしないでください」
会話が成立しているのか怪しいが、アレク様は当たり前のように花冠を受け取った。辺境の公爵が嫁の手荷物を没収して家宝認定。傍目にどう映っているのか考えたくない。
「部屋に案内する。あと、庭を直してほしい」
初日で頼まれた。
部屋に通されて、1人になった瞬間、涙が出た。わかっていたのに。誰でもいいと、わかっていたのに。
すぐに拭いた。泣いている暇があったら庭を見よう。
外に出て、枯れかけた矢車菊の前にしゃがんだ。土を触ると少しだけ落ち着いた。
——誰でもいいなら、庭師を雇えばいいのに。
◇
「奥様。公爵様から伝言でございます」
侍女のマリーが朝食の席で無表情に告げた。
「『南棟の花壇を好きにしていい。庭師が3年前に辞めた。予算は青天井だ』とのことです」
「3年間、庭師なし?」
「はい。公爵様が水やりを担当されていた時期もございますが、薔薇に冬の量の水を夏にも与え、根腐れが加速しました」
あの根腐れは公爵様が原因だったのか。
でも——嫌ではなかった。花壇を好きにしていいと言われることは、17年間で初めてだった。
翌日から南棟に通い始めた。向日葵を日向に移し、日陰に紫陽花を。排水路を一から掘り直す。枯れかけた東棟の矢車菊は根を処理して植え直した。
父の屋敷では「花なんかいじるな、刺繍をしろ」と言われた。ここでは誰もそう言わない。
夕方に癖で花冠を編んで、食堂のテーブルに置いた。
翌朝にはなくなっていた。
偶然だと思った。使用人が片づけたのだろう。
翌日も置いた。翌朝にはなくなっていた。
3日目も、4日目も。
5日目の朝、少しだけ早く起きた。
食堂の入口から覗くと——アレク様がいた。
花冠を手に取り、そのまま執務室の方向へ歩いていく。
父の屋敷でも花冠を編んでいた。毎日1つ、食卓に置いた。
17年間。一度も。誰にも。拾われなかった。
それを——この人は、毎朝持っていく。
◇
10日目の朝、書類を届けに執務室を訪れた。
——並んでいた。
窓際の棚に、干からびかけた花冠が日付順に。最初の1個には「到着日」の札。5個目には「紫の花多め」。10個目には「雨の日、編み目が粗い」。
——編み目の粗さまで見ている。花冠を拾って棚に並べるだけなら、編み目など気にしない。「誰でもいい」人間がやることではない。
でも「問題ない」と言ったのも、この人だ。
棚の隅に本が1冊。『辺境における園芸植物の栽培指針』。付箋だらけで、折り目のついたページは「矢車菊」の項。余白にアレク様の筆跡で「酸性土壌を好む」「越冬時は株元を藁で覆う」とある。
——この人は、いつからこれを読んでいるのだろう。
「ユリア。庭を見せてほしい」
初めてアレク様と庭を歩いた。紫陽花の前でしゃがみ、根元の土を見て、排水路を指でなぞった。
「変わったな」
「排水を直したら根腐れが止まったんです。ここ2週間で——あ、すみません。興味ないですよね」
「ある。続けろ」
灰色の目がこちらを見ていた。それだけで口が止まらなくなった。
土壌の話から紫陽花の色彩管理、つる薔薇の誘引角度まで一気にまくし立てた。途中で何度も「すみません」と言いかけたのに、1度も遮られなかった。
「——1人で喋りすぎました」
「いい」
「あの紫陽花は、なぜ青いんですか、と聞きたい顔をしてますね」
「……わかるのか」
「土壌が酸性だからです。石灰を混ぜれば赤くなります」
「お前はどちらが好きだ」
「青が好きです」
「では青のままにしろ」
紫陽花の色の好みを聞かれたのは、生まれて初めてだった。
花壇の縁石に並んで座った。沈黙が苦しくなかった。父の屋敷では沈黙はいつも私が透明になる時間だった。ここでは違う。隣に誰かがいる沈黙だった。
「アレク様。東棟の矢車菊は——どなたが植えたんですか」
一瞬、灰色の目が揺れた。
「……庭師だ」
「3年前に辞めた庭師が?」
「ああ」
嘘だ、と思った。あの花壇は、庭師の仕事ではなかった。
でも追及しなかった。まだ、聞いていい距離なのかわからなかったから。
◇
翌週、姉からの手紙が届いた。
「ユリアへ。
お元気ですか。こちらは王太子殿下との婚約準備で忙しくしています。
あのね、少し気になることを聞いたの。辺境公爵家からの縁談は、本当はお姉ちゃん宛てだったんですって。お父様がユリアに話を回したのよね。
ごめんなさい。ユリアはいつも代わりにされてばかりで。
でも公爵様は優しい方だと聞いたから、きっと大丈夫よね。
姉より」
手紙を折りたたんで、引き出しにしまった。
姉に悪意はない。いつだって優しい。優しいまま、ごく自然に「代わり」と言った。
——本当はお姉ちゃん宛てだった。
知っていた。知っていたはずだ。「問題ない」はそういう意味だ。誰でもいい。姉でも、私でも、問題ない。
なのに花冠を持っていくのは何なのだ。日付の札を貼るのは。園芸書を読むのは。矢車菊を——。
やめろ。期待するな。
代わりはいくらでもいると、17年間かけて学んだはずだ。
翌朝、花冠を食堂に置くのをやめた。
◇
3日間、花冠を置かなかった。
4日目の朝、執務室の前を通りかかったとき、扉が少しだけ開いていた。
中を覗いた自分が何を確認したかったのかは——考えないことにした。
アレク様が、棚の前に立っていた。
花冠が並んだ棚を、黙って見ている。
今日の分がないことを——探している顔だった。
その日の夕方、部屋に戻ると花瓶の花が変わっていた。昨日まで白百合だったのに、黄色い薔薇に。
花をよく見て、首を傾げた。
黄色い薔薇の花言葉は「嫉妬」だ。
……嫉妬? 私に嫉妬を?
気になって過去1週間の花瓶を思い返した。白百合(純潔)、赤いカーネーション(母への愛)、オレンジの百合(憎悪)、白いカーネーション(亡き母を偲ぶ)。
「愛しています」は1つもなかった。
「憎悪」と「亡き母を偲ぶ」は入っていた。
花言葉を調べて選んでいるのに、花言葉を間違えている。全力で不器用な人が——毎日、毎日、私のために花を選んでいた。
食堂に行って、花冠を編んだ。3日ぶりの花冠を、テーブルに置いた。
◇
季節が1つ過ぎた頃、隣国の外交官夫妻が公爵邸を訪れた。
公爵夫人として初めての晩餐会だ。
怖かった。社交は苦手だ。気の利いた話もできない。父に「黙って座っていなさい」と言われ続けた17年間が背中に張りついている。
テーブルの装花に目がいった。百合の水切りが甘い。花弁の先が巻き始めている。あと2時間で萎れる。
いつもなら——言わない。黙って座っている。それが「代わり」の仕事だ。
でも、と思った。
口を開こうとした。喉が詰まった。
父の声が聞こえる。——黙って座っていなさい。
でもこの庭を作ったのは、あの人じゃない。私だ。
花しか取り柄がないなら——花で話をすればいい。
初めて、自分の意志で口を開いた。
「あの。この百合、水切りが甘いようです。花瓶の水温が高すぎるのかもしれません」
外交官夫妻が凍った。
アレク様が隣で微動だにしない。
「……あ。申し訳ございません——」
「いえ!」
外交官の夫人が身を乗り出した。
「わかります! うちの夫も花の管理がまるでだめで。先月、花壇の薔薇を全部抜いて雑草と間違えたんですの」
「抜いたのか!?」
「あなたが抜いたんですよ!」
「お宅の公爵様はいかがですか?」
「……同じです。矢車菊を植えて枯らしました」
「まあ! やっぱり万国共通ですわね。花を活かす妻と花を枯らす夫は」
アレク様がわずかに視線を逸らした。居心地が悪いらしい。花を枯らした自覚はあるようだ。
「奥方は花にお詳しいのですね。この庭園も、お手入れを?」
「はい。まだ途中ですが」
「実は我が領地の薬草園で立ち枯れが続いておりまして——」
そこから1時間、花と土の話しかしなかった。外交の場で土壌の酸性度を語った公爵夫人は、建国以来初めてだろう。
晩餐のあと、廊下でアレク様が言った。
「薬草の交換協定が1つまとまった。妻の手柄だ」
「花瓶の水温の話から外交協定が生まれるとは思いませんでした」
「ユリア」
「はい」
「お前は黙って座っていなくていい。好きなだけ花の話をしろ。この領地では、それが1番役に立つ」
17年間、少しずつ小さくなっていた声が——ようやく息を吸えた気がした。
でも本当は、もう知っている。声を出したのはアレク様のおかげではない。自分で口を開いたのだ。
代わりではなく、私として。
◇
季節がもう1つ過ぎた頃——父が来た。
「ユリア。息災か」
久しぶりの父の声は、記憶より小さかった。
窓の外には見違えるような庭園が広がっている。四季の花壇が整然と並び、温室には隣国との交換で得た薬草が育つ。
「……これは、お前が?」
「はい。設計は1人で」
父の口が開き、また閉じた。
アレク様が静かに口を開いた。
「伯爵。この庭園の花は王宮の外交贈答リストに加えられた。妻が設計した薬草園は領地の医療環境を変えている。昨季の出荷額は前年の3倍だ」
「……外交贈答に」
「全て妻の仕事だ。代わりはいない」
アレク様は父の目を見て続けた。
「1つ訂正する。3年前の縁談は、長女宛てではなかった」
「……何だと?」
「私が出したのは『王都の園遊会で、花壇の隅で花冠を編んでいた令嬢』への縁談だ。名前は知らなかった。伯爵が勝手に長女だと判断した」
——え?
初めて聞いた。アレク様が指名したのは「伯爵家の次女」ではなく、「花壇の隅の令嬢」だった。
名前も、身分も知らないまま。花を触る手だけを見て、3年かけて迎えに来た。
姉の手紙が間違っていた。「本当はお姉ちゃん宛て」ではなかった。最初から——私だった。
「問題ない」は「誰でもいい」ではなかった。「お前が来たから問題ない」だった。
父の顔から色が引いていった。
「代わりはいくらでもいる」と言って送り出した娘が、名前すら知られないうちから「代わりがいない」と言われていた。そしてそれに気づかなかったのは——たぶん、父だけだった。
「……アレク殿。娘を、よろしく頼む」
声が震えていた。
帰り際、父は庭園の前で立ち止まった。
花壇の縁にしゃがんで、花に手を伸ばした。
何かをしようとしていた。——摘もうとしたのか。花冠を編もうとしたのか。
どちらにしても、父にはどの花を選べばいいのかわからなかった。
17年間、1度も見なかったのだから。
花に触れることもできないまま、父は立ち上がって、馬車に乗った。1度も振り返らなかった。
怒りはない。恨みもない。ただ少しだけ、花壇の土が目に沁みた。17年分だけ。
——知っていましたか、お父様。あなたの代わりなら、庭にいくらでも生えていますよ。雑草が。
◇
庭にいると、アレク様が来た。
「泣いているのか」
「土埃です」
「嘘が下手だな」
「アレク様も、人のことは言えません」
「何がだ」
「『問題ない』」
アレク様の目が、わずかに見開かれた。
「私、初日に聞いたんです。代わりでも問題ないですかって。アレク様は『問題ない』と仰った。——ずっと、誰でもいいんだと思っていました」
「…………」
「姉から手紙が来ました。『本当はお姉ちゃん宛てだった』と。それでも花冠を持っていくのが不思議で、矢車菊を植えたのが不思議で、花言葉を間違えるのが不思議で——」
「花言葉は間違えていない」
「間違えていますよ。黄色い薔薇は『嫉妬』です」
「……なに?」
「先週の白いカーネーションは『亡き母を偲ぶ』です。オレンジの百合は『憎悪』です」
「…………」
「参照した花言葉の書物、もしかして第2版ではないですか。第2版は誤植が多いんです。第3版をお使いください」
「…………」
「3年間、誤植の花言葉で愛を伝えていたことになりますよ」
「——もういい」
辺境公爵が額を押さえている。初めて見る表情だ。
それが可笑しくて——可笑しくて——少しだけ泣きたかった。
アレク様が懐から何かを取り出した。
押し花だった。薄い硝子板に挟まれた、矢車菊の1輪。
「園遊会の花壇に落ちていた。お前が編んでいた花冠から落ちた1輪だ」
「……3年間?」
「ああ。名前は知らなかった。身分も知らなかった。花壇の隅で、誰にも見られずに花冠を編んでいた手だけを見た。——あの手が触れた花壇だけ、明らかに育ちが違った」
「それだけで3年かけて縁談を?」
「それだけで十分だった」
「……なぜ初日に言ってくださらなかったんですか。『指名した』と」
「——言えなかった」
「言えなかった?」
「到着した日、部屋に入ったあと——泣いていただろう」
心臓が止まった。
「庭に出てきたとき、目が赤かった。矢車菊の前にしゃがんで、土を触っていた。——泣いたあとに花を触る人間は、花が好きなのではない。花にしか頼れないんだ」
見ていた。あの一瞬を。誰にも見せなかったはずの涙を。
「代わりだと言われたばかりの人間に、指名したと言っても——傷を増やすだけだ」
——ずるい。
花冠を拾ったのは「花が好きだから」ではなかった。矢車菊を植えたのも。園芸書を読んだのも。花言葉を間違えたのも。
全部——泣いていた私を見たから。花ではなく、傷を見ていた。花にしか頼れない人間の隣に、花を置き続けた。
「だから花冠を拾った。お前が気づくまで、毎日。矢車菊を植えた。枯らした。園芸書を読んだ。花言葉を——間違えた」
「間違えましたね」
「……うるさい」
「第2版の誤植で愛を——」
「もういいと言った」
3年間、全力で不器用だった人が、目の前にいる。
名前も知らないまま矢車菊を植えて枯らし、花冠の編み方を調べて編めず、花言葉を調べて全部間違えた。
でも——毎朝、花冠を拾った。17年間誰も拾わなかったものを。
「……あの、アレク様。角の花壇の土壌が酸性に傾いていまして——」
「今は花壇の話ではない」
「す、すみません。緊張すると——」
「知っている」
アレク様の手が、私の手を取った。土だらけの、硬くなった手を。父の屋敷では「女の子がそんな手をして」と言われた手を。
ひっくり返して、爪の間の土の跡を見た。
「——この手が、あの庭を作った。代わりはいない。名前を知る前から、お前だけだ」
涙が落ちそうになって、慌てて膝の上の花冠を持ち上げた。
今日の花冠。いつもと同じ野花だけれど——今日だけは、ちゃんと「誰に」が決まっていた。
「これは、あなたに」
アレク様の黒髪に花冠を載せた。
似合わない。辺境公爵が野花の冠を被っている。馬鹿みたいだ。
でも灰色の目が笑っていた。
「初めてだな」
「何がですか」
「名指しで作ってもらったのは」
「では明日からは札をつけます。『アレク様へ、花言葉は合っています』って」
「……棚がまた足りなくなる」
夕暮れの庭で、花冠が1つ増えた。
誰も拾わなかったものを、この人だけが拾った。
これが最初の、名指しの1つ。
【作者から読者様へお願いがあります】
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