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一度きりの謝罪  作者: 天月瞳


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3/3

一度きりの謝罪


「いけない、掃除を続けないと」


私は鉄の箱を机に置き、後で処理することにした。


部屋の掃除を続け、床に溜まった埃を拭く。床板の一部に、どす黒い汚れがあった。台所へと続く導線のあたりだ。


眉をひそめ、何度も力を込めて拭いたが、一向に取れない。

「これは……何なんだ?」


何度試しても駄目だった。私は諦めて、一旦手を止めた。


「お兄さん」


顔を上げると、沙織がお茶の入った急須を持っていた。


「疲れたでしょう。お茶でも飲んで休んで」


「ありがとう」

お茶を受け取り、一口すする。満足げなため息が漏れた。


「あぁ……生き返るよ」


沙織は茶碗を両手で包み、その温度を確かめるようにじっとしていた。


ゆっくりとお茶を味わう。少し味が濃いようだ。


熱いお茶で神経が緩んだせいか、視界の端がわずかに暗くなり始めた。


「お兄さん、今日は本当にお疲れ様」

妹の声さえ、どこか遠くに……聞こえる……


指先から力が抜け、手の中の茶碗が床に転がった。


最後に見たのは、屈み込む妹の姿。逆光になった彼女の顔は、表情を読み取ることができなかった。


薄暗がりの中で、私は母の顔を見たような気がした。


暗闇の中、規則的な音が響いている。


金属を引きずるような。


『ごめんなさい……ごめんなさい……』


掠れた声が、泣き声混じりに響く。


『でも……お母さんには、もうこれしか道がないの』


目を開ける。朦朧とした視界が定まらず、天井がゆらゆらと揺れている。

だが、砥石で刃物を研ぐ「シャッ、シャッ」という音は止まない。


「お兄さん、目が覚めた?」


「沙織……?」

起き上がろうとしたが、手足が麻縄で固く縛られ、身動きが取れないことに気づいた。


「どういうことだ? 沙織、冗談だろう?」

声を出すが、思った以上に喉が焼けるように掠れていた。


包丁を手にした沙織が、視界の隅に現れた。

「確かめたいことがあるの」


「何を……」


「お兄さん。どうしてお母さんを殺したの?」


呼吸が止まった。喉を締め付けられたように声が出ない。


実を言えば、あの日の記憶はひどく曖昧なのだ。

覚えているのは、包丁を握った時のずっしりとした重みだけ。それ以外は霧に包まれたように、どうしても思い出せない。


「……完全に、忘れているみたいね」

沙織が屈み込み、私の瞳を覗き込む。


「本当に、少しも思い出せないの?」


私は目を閉じ、そして再び開けた。自嘲気味に微笑んで答える。


「母を殺したのは、私だ。理由は……もう覚えていない」


沙織の表情が歪んだ。彼女は歯を食いしばり、吐き捨てるように言った。


「よくそんなことが言えるわね。あんなに優しかったお母さんを、あなたが!」


彼女は包丁を振り上げ、力任せに振り下ろした。


刃が振り下ろされた瞬間、すべての記憶が脳裏に溢れ出した。


思い出した。


あの日、あの夜。


限界に達した母は、私たちを連れて心中しようとしたのだ。


自分にはもう道がないのだと、泣きながら言った。


だが、私には道があった。私は、妹を生かすための道を選んだのだ。


刃が何度も身体に食い込む。沙織の表情は、泣いているようでもあり、笑っているようでもあった。


「こうするしかないの。あなたのような悪魔を、これ以上生かしておくわけにはいかない」


刃が肩に食い込み、彼女は私の傍らに膝をついて激しく喘いだ。


先ほどの乱打のせいか、身体を縛っていた縄が切れていた。


私は血に染まった手を伸ばし、彼女の頬に触れた。


「……ごめん」


彼女はビクリと震え、信じられないものを見るような目で私を見つめた。


途切れゆく意識の中で、私は低く囁いた。


「許してくれ。お前は……一人でも幸せに生きるんだ」


謝罪が、発動した。


光が、霞んでいく。







私は生き延びた。


間一髪のところで近藤巡査が駆けつけ、病院へ搬送されたことで一命を取り留めたのだ。

彼によれば、駅で会った時から、何か胸騒ぎがしていたのだという。


近藤巡査には、感謝してもしきれない。

そして私の頼みを聞き入れ、彼は真実を追及しないことを約束してくれた。


沙織が病床の脇に座り、困惑した様子で私を見ている。


「お兄ちゃん、私たち、ただのお墓参りじゃなかったの?」


彼女は少し言葉を切り、尋ねた。


「お兄ちゃん……どうして泣いているの?」


彼女は、すべてを忘れていた。


覚えているのは、私だけだ。


母のこと。

あの包丁のこと。

あの時の彼女の眼差し。


「……なんでもないよ」

私は手を伸ばし、彼女の頭を撫でた。


「もう、大丈夫だから」


彼女は、久しく見ることのなかった笑顔を浮かべた。

その笑顔は清らかで、明るく、憎しみの欠片もなかった。


私は、ふと悟った。

謝罪を使った者は、永遠に救われることはない。

最期の瞬間まで、一人ですべてを背負い続けなければならないのだ。


窓の外から、冬の日差しが差し込む。

彼女の姿を温かく照らし出している。


逆光の中で、

その表情は見えなかった。


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