一度きりの謝罪
「いけない、掃除を続けないと」
私は鉄の箱を机に置き、後で処理することにした。
部屋の掃除を続け、床に溜まった埃を拭く。床板の一部に、どす黒い汚れがあった。台所へと続く導線のあたりだ。
眉をひそめ、何度も力を込めて拭いたが、一向に取れない。
「これは……何なんだ?」
何度試しても駄目だった。私は諦めて、一旦手を止めた。
「お兄さん」
顔を上げると、沙織がお茶の入った急須を持っていた。
「疲れたでしょう。お茶でも飲んで休んで」
「ありがとう」
お茶を受け取り、一口すする。満足げなため息が漏れた。
「あぁ……生き返るよ」
沙織は茶碗を両手で包み、その温度を確かめるようにじっとしていた。
ゆっくりとお茶を味わう。少し味が濃いようだ。
熱いお茶で神経が緩んだせいか、視界の端がわずかに暗くなり始めた。
「お兄さん、今日は本当にお疲れ様」
妹の声さえ、どこか遠くに……聞こえる……
指先から力が抜け、手の中の茶碗が床に転がった。
最後に見たのは、屈み込む妹の姿。逆光になった彼女の顔は、表情を読み取ることができなかった。
薄暗がりの中で、私は母の顔を見たような気がした。
暗闇の中、規則的な音が響いている。
金属を引きずるような。
『ごめんなさい……ごめんなさい……』
掠れた声が、泣き声混じりに響く。
『でも……お母さんには、もうこれしか道がないの』
目を開ける。朦朧とした視界が定まらず、天井がゆらゆらと揺れている。
だが、砥石で刃物を研ぐ「シャッ、シャッ」という音は止まない。
「お兄さん、目が覚めた?」
「沙織……?」
起き上がろうとしたが、手足が麻縄で固く縛られ、身動きが取れないことに気づいた。
「どういうことだ? 沙織、冗談だろう?」
声を出すが、思った以上に喉が焼けるように掠れていた。
包丁を手にした沙織が、視界の隅に現れた。
「確かめたいことがあるの」
「何を……」
「お兄さん。どうしてお母さんを殺したの?」
呼吸が止まった。喉を締め付けられたように声が出ない。
実を言えば、あの日の記憶はひどく曖昧なのだ。
覚えているのは、包丁を握った時のずっしりとした重みだけ。それ以外は霧に包まれたように、どうしても思い出せない。
「……完全に、忘れているみたいね」
沙織が屈み込み、私の瞳を覗き込む。
「本当に、少しも思い出せないの?」
私は目を閉じ、そして再び開けた。自嘲気味に微笑んで答える。
「母を殺したのは、私だ。理由は……もう覚えていない」
沙織の表情が歪んだ。彼女は歯を食いしばり、吐き捨てるように言った。
「よくそんなことが言えるわね。あんなに優しかったお母さんを、あなたが!」
彼女は包丁を振り上げ、力任せに振り下ろした。
刃が振り下ろされた瞬間、すべての記憶が脳裏に溢れ出した。
思い出した。
あの日、あの夜。
限界に達した母は、私たちを連れて心中しようとしたのだ。
自分にはもう道がないのだと、泣きながら言った。
だが、私には道があった。私は、妹を生かすための道を選んだのだ。
刃が何度も身体に食い込む。沙織の表情は、泣いているようでもあり、笑っているようでもあった。
「こうするしかないの。あなたのような悪魔を、これ以上生かしておくわけにはいかない」
刃が肩に食い込み、彼女は私の傍らに膝をついて激しく喘いだ。
先ほどの乱打のせいか、身体を縛っていた縄が切れていた。
私は血に染まった手を伸ばし、彼女の頬に触れた。
「……ごめん」
彼女はビクリと震え、信じられないものを見るような目で私を見つめた。
途切れゆく意識の中で、私は低く囁いた。
「許してくれ。お前は……一人でも幸せに生きるんだ」
謝罪が、発動した。
光が、霞んでいく。
私は生き延びた。
間一髪のところで近藤巡査が駆けつけ、病院へ搬送されたことで一命を取り留めたのだ。
彼によれば、駅で会った時から、何か胸騒ぎがしていたのだという。
近藤巡査には、感謝してもしきれない。
そして私の頼みを聞き入れ、彼は真実を追及しないことを約束してくれた。
沙織が病床の脇に座り、困惑した様子で私を見ている。
「お兄ちゃん、私たち、ただのお墓参りじゃなかったの?」
彼女は少し言葉を切り、尋ねた。
「お兄ちゃん……どうして泣いているの?」
彼女は、すべてを忘れていた。
覚えているのは、私だけだ。
母のこと。
あの包丁のこと。
あの時の彼女の眼差し。
「……なんでもないよ」
私は手を伸ばし、彼女の頭を撫でた。
「もう、大丈夫だから」
彼女は、久しく見ることのなかった笑顔を浮かべた。
その笑顔は清らかで、明るく、憎しみの欠片もなかった。
私は、ふと悟った。
謝罪を使った者は、永遠に救われることはない。
最期の瞬間まで、一人ですべてを背負い続けなければならないのだ。
窓の外から、冬の日差しが差し込む。
彼女の姿を温かく照らし出している。
逆光の中で、
その表情は見えなかった。




