里帰り
十数年ぶりに、あの実家に帰る準備をした。
揺れる電車に揺られながら、窓の外へと流れていく景色を眺める。まるで過去の記憶へと逆戻りしていくかのようだった。
ガタゴトという振動の中で、肩が微かに疼く。
あの傷がどうやってできたのかは覚えていない。ただ、雨の日になると決まって疼き出すのだ。
意識は次第に、追憶の渦へと引き込まれていった。
二度と戻ることはないと思っていた。
あの家にはあまりに多くの記憶が詰まっている。
過去のすべてがそこに残っていると言っても過言ではない。
母が亡くなってから、私と妹は警察の手によって遠い親戚の元へ預けられた。
親戚は悪い人たちではなかったが、やはりよそ者のような居心地の悪さはあった。
私は妹のために、がむしゃらに働いて金を稼いだ。
生活を維持することこそが、家族に対する責任だと思い込んでいた。
運が良かったのか、あるいは才能があったのか。私はすぐに十分な蓄えを作り、妹を連れて自立した。
だが、そのせいで彼女の気持ちを疎かにしていたのかもしれない。
彼女がいつから私を「お兄ちゃん」と呼ばなくなったのか、もう思い出せない。
彼女は成人するとすぐに仕事を見つけて出て行った。
ここ数年は連絡もほとんどなく、手紙を送っても返ってくるのは丁寧すぎるほど他人行儀な返信ばかり。
電話をかけても、いつも二言三言で切られてしまう。
だから、彼女の方から「実家の片付けに行かないか」と誘われた時、私は迷うことなく承諾した。
もし、かつての仲睦まじい家族に戻れるのなら。
おそらく、私はあの「機会」を使うべきなのだ。
一生に一度きりの、謝罪。
ただ、その言葉の代償は、想像を絶するほど残酷なものだった。
人生で犯した過ちを挙げるなら、一つは妹のこと、そしてもう一つは、あの日起きた出来事だろう。
電車が終着駅に着いた。
ハッと我に返って降車すると、ホームの向こう側から冬の風が吹き込んできた。
駅の風景は、記憶の中とほとんど変わっていなかった。
「お兄さん」
背後から声がした。
振り返ると、濃い色のコートを着た女が風の中に立っていた。
腰まである長い髪が、風に揺れている。
一瞬、母を見たのかと思った。
彼女の微笑みは、端正だった。
練習したかのように、あまりにも端正な笑みだった。
「沙織、久しぶり。元気だったか?」
「ええ、元気よ。お兄さんは?」
沙織は礼儀正しく微笑んだ。美しい大人の女性に成長していたが、顔立ちには幼い頃の面影が微かに残っている。
「俺か? 相変わらずさ。仕事ばかりしているよ」
私は肩をすくめた。
「行きましょう。部屋を予約してあるから。旅館に着いてからゆっくり話しましょう」
話している最中、警察の制服を着た一人の老人が通りかかり、驚いた様子で足を止めた。
「お二人さん、観光ですか?」
「近藤巡査?」
私は驚いて声をかけた。
目の前の老人は、あの日、私たちを送り届けてくれた警察官だった。まさかここで再会するとは。制服は整っているものの、袖口は白く擦り切れている。
「君たちか! こんなに大きくなったのかい?」
老人は目を見開いた。相当な驚きのようだった。
「この方は?」
沙織は彼のことを覚えていないらしく、首を傾げて小声で聞いてきた。
「近藤巡査だよ。あの日、俺たちを運んでくれた方だ」
「そうでしたか。あの時は本当にありがとうございました、近藤巡査」
沙織は老警官に向かって丁寧に一礼した。
「いやいや、大したことじゃない。して、今回は?」
老警官は照れくさそうに手を振った。
「実家の整理と、墓参りに」
「そうか……」
老警官はもう一度じっくりと私たちを眺めてから、ゆっくりと去っていった。
近藤巡査と別れ、私と沙織は踏み固められた泥道を歩いた。
夕日が二人の影を長く伸ばす。私は沙織に、さっきの第一印象を伝えた。
「それにしても、本当に大きくなったな。さっきは母さんかと思ったよ」
「お母さん……」
一瞬、沙織の表情が歪んだように見えた。だがそれがあまりに短かったため、見間違いだろうと思った。
「ええ。だってお母さんの子だもの」
最後には、沙織は笑って答えた。
「ああ、そうだな」
私は頷いた。足音が無人の道路に響く。
日が暮れたため、私たちはまず旅館に落ち着くことにした。
「いらっしゃいませ。ご予約のお二人ですね」
女将が迎えてくれた。
「はい」
「こちらが鍵です。それと、お夕食はどうされますか?」
女将が鍵を差し出しながら尋ねる。
私が沙織を見ると、彼女は小さく頷いた。
「お願いします」
「では、でき次第お部屋へお持ちしますね」
「ありがとう」
片付けは明日からにするつもりだ。今の実家には明かり一つない。真っ暗闇の中で整理をするのは不可能に近いからだ。
「早めに休もう」
私は沙織に声をかけ、自分の部屋に戻った。
荷物を解き、女将から夕食を受け取った頃、またドアを叩く音がした。
「どなたですか?」
「お兄さん、私よ」
「沙織か。入りなよ」
立ち上がってドアを開けると、沙織が自分の膳を持って立っていた。
「一緒に食べてもいい?」
そんな誘いを断る理由など、どこにもなかった。
「もちろん」
座卓を挟み、私たちは夕食を並べた。
夕食は素朴な家庭料理だったが、湯気の立つ味噌汁は、冬の寒さの中で至上の贅沢に感じられた。
「ねえ、お兄さん。お母さんがどんな人だったか、覚えてる?」
味噌汁をすすりながら、沙織が唐突に母のことを切り出した。
立ち上る湯気が彼女の顔を覆い、その表情を読み取ることはできなかった。
母はどんな人だったか。その問いに、私は考え込んだ。
遠い昔の記憶では、彼女は優しく美しい人だった。
言葉遣いは穏やかで、父とも仲睦まじかった。
だが、父が不慮の事故で世を去ってから、すべてが一変した。
母は酒に溺れるようになった。
それまでは嗜む程度だったのが、毎日泥酔して正気を失うまでになった。
酔った母は、時折私に暴力を振るった。
だが、酔いが冷めると私を抱きしめて泣きながら謝るのだ。
唯一の救いは、彼女が妹にだけは決して手を上げなかったことだ。
しかし今思い返してみると、あまりに時間が経ちすぎたせいか、当時の自分に彼女を憎む気持ちがあったのかさえ思い出せない。
「優しい人だったよ」
私は微笑んで答えた。
せめて、妹の心の中にある母親像だけは、美しいままであってほしかった。
「そう」
沙織の持つスプーンがカチリと音を立てた。彼女は小さく頷き、それ以上語ることはなかった。




