第6話 分かってしまった沈黙
朝の鐘が、神殿に響いた。
石造りの回廊を震わせるその音は、いつもと変わらない。
祈りと生活を分ける、境目の合図。
シトロンは、その音を聞きながら、食堂の長机に座っていた。
長机の上にはパンと野菜が入ったスープが並んでいた。
どれも昨日と同じ。
味も、温度も、匂いも。
周囲では同じ施設で暮らす子どもたちが、小さな声で話しながら朝食を取っている。
笑い声があり、食器の触れ合う音が響き合っていた。
ナポリン達は神殿が保護・養育の場として設けている施設で暮らしている。
世界は正常だった。
「ほら、ぼーっとすんなよシトロン。スープが冷めるぞ」
向かいの席で、ナポリンが言った。
少しだけ声が大きい。
いつもより、元気そうに見えた。
「兄さん」
「ん? どうした?」
シトロンはナポリンの名を呼ぶと、すぐに顔を上げた。
「……いや、なんでもない」
シトロンはそう答え、視線を落とす。
ナポリンは気にする様子もなく、スープを口に運んだ。
「今日さ、昼前に買い出し行こうと思うんだ」
ナポリンはパンを頬張りながら言った。
「……うん」
「昨日の店は覚えてるだろ?あそこの店の干し肉、結構美味かったよな」
「そうだね」
「姉さんの分も買っとくか。戻ってきたらすぐに食えるようにさ」
その言葉にシトロンの動きが止まった。
会話は成立している。
返事もしている。
日常としては、何ひとつ問題がない。
――だからこそ。
(見ていない)
そう、はっきりと分かってしまった。
兄は、見ていない。
見ないようにしているのではない。
そもそも、そこに“欠け”が存在していない。
机の端。
空いた席。
三人で並んで座っていたはずの場所。
ナポリンの視線は、一度もそこへ向かなかった。
(……壊れていないんだ)
壊れていないから、直す必要もない。
失われていないから、探す必要もない。
兄の世界は、まだ完全な形を保っている。
それを壊す権利は――
自分にはない。
「……シトロン?」
ナポリンが、少し身を乗り出してくる。
「本当に大丈夫か? 顔色良くないぞ」
「大丈夫だよ」
と、シトロンは答えた。
迷いが生まれる前に、言葉が出た。
「ちょっと寝不足なだけ」
「そっか。考え事なんかしないで、ちゃんと寝ろよー」
ナポリンはそれ以上追及せず笑いながら食事の続きを始めた。
いつも通りの、兄の笑顔。
その自然さが、胸に痛い。
昼前。
神殿の回廊に影が落ち、子どもたちはそれぞれの役目をこなしていた。
ナポリンも外へ向かう。
「すぐ戻るからな」
そう言って、振り返りもせず歩いていく。
シトロンは、その背中を見送った。
一人になると、神殿は途端に広く感じられる。
白い石壁。
規則正しい柱。
遠くで重なる祈りの声。
歩きながら、無意識に数えている自分に気づいた。
1...2......
そこで、止まる。
(……違う)
いつもなら、3まで数えていた。
自分。
兄。
そして―――
思考が、途中で途切れた。
胸の奥に、冷たいものが沈む。
昨日、神殿の奥で見た星印の石盤。
ほんのわずかな歪み。
「ずれた」としか言い表せない違和感。
そして、今朝。
席は空いているのに、世界はそれを欠落として認識していない。
(……繋がってる)
偶然ではない。
ただの不在でもない。
何かが、選ばれなかった。
その結果として、ここにいる。
考えれば、形になる。
形になれば、名前が生まれる。
名前が生まれれば、現実になる。
(考えるな)
シトロンは、強く息を吐いた。
夜。
周囲の灯りが落ち、神殿は静寂に包まれる。
ベッドに横になっても、眠気は訪れなかった。
隣からはナポリンの寝息が聞こえる。
深く安定した呼吸だった。
(兄さんは……)
そこで、思考を止める。
代わりに、過去をなぞる。
三人で走った裏庭。
叱られて並んで立たされた時間。
重なった笑い声。
そして最後に浮かぶのは――
朝の光の中、少し前を歩いていた背中。
喉が、ひくりと鳴る。
分かってしまった。
もう、戻らない。
今朝から、ずっと。
声にすれば、確定してしまう。
だから、声にしない。
シトロンは、上半身を起こし、兄を見る。
起こせる距離。
呼べば、応える距離。
それでも――
(呼ばない)
壊さないために。
兄が、兄でいられる世界を守るために。
だったら、自分が知っていればいい。
沈黙の重さを、選ばれなかった可能性を、全部自分が引き受ければいい。
遠くで神殿の鐘が鳴った。
時を告げる夜の鐘。
同じ頃。
帝国のどこかで、報告書が一枚、静かに綴じられた。
数字に異常はない。
だが、余白に残された小さな違和感だけが、誰にも拾われずに残る。
世界は、何事もなかったように進んでいく。
シトロンは横になり、目を閉じた。
胸の奥で言葉にならない真実が、重く沈んでいく。
それでも、彼は名を呼ばなかった。
それが、兄を守るために選んだ――
沈黙だった




