第5話 ずれた星
皇城の高楼から、ポーロラシックの街が見下ろされていた。
白い石畳に朝の光が反射し、通りには人の流れがある。
露店の準備、鐘の音、遠くの呼び声。
帝国の首都は、今日も変わらず動いていた。
玉座に座る男がそこにいた。
彼の前には、数名の側近と文官が控えていた。
ガラナ帝国皇帝――
ガラナ大帝。
朝の定例報告。
それは帝国にとって、「問題がないこと」を確認するための時間だった。
彼の視線は窓から見える街に向けられていたが、そこに関心はなかった。
「キリンビーバ方面は異常ありません」
低く落ち着いた声が報告する。
「バレッチ将軍の指揮の元、治安、軍備ともに安定しております」
皇帝は小さく頷く。
「次は」
「ジョージミルコより。
交易量は想定値を維持――ただし、一部流通に微細な誤差が確認されています」
「イコムートか」
感情のない声。
「表向きには問題ありません。誤差は許容範囲内です」
「……許容範囲、か」
皇帝は立ち上がり、窓際へ歩み寄った。
「ソートツーゲンは?」
「兵器・魔導具の生産量は安定しています。
遅延、品質低下ともに確認されておりません」
「ラッケルは」
「......所在不定です」
「コアッペルは」
「帝国辺境にて調整役を継続中です」
すべての報告が終わる。
帝国は平穏だった。
少なくとも、数字と書類の上では。
高楼から見下ろす街は、あまりにも穏やかだ。
(……ずれている)
未来が見えないわけではない。
だが、あるはずの線が一本だけ曖昧だった。
「……経過観察でいい」
皇帝はそう告げて、背を向ける。
皇城では、何一つ問題は起きていない。
少なくとも――
そう、信じられていた。
⸻
同じ頃。
帝国の中枢から離れた場所でも、
また一つ、静かな朝が始まっていた。
星印神殿。
白い石で築かれた回廊に、朝の光が差し込んでいる。
香の煙がゆるやかに漂い、祈りの声が低く重なっていた。
奥の座に、一人の白髪の初老の男性が静かに佇んでいる。
ポッカ神殿長。
星印神殿を束ねる者。
中央の祭壇には、星を象った石盤が静かに置かれている。
だが、その表面には――ごくわずかな、歪みが走っていた。
「……星印に、乱れが見られる」
低く、慎重な声が響く。
ポッカ神殿長は石盤から目を離さず、ゆっくりと頷いた。
「大きな揺らぎではない。
しかし、確かに“昨日まで”とは異なっている」
「星印の子に、異変が起きたということですか」
一歩前に出たのは、神殿騎士長ラクチツだった。
「断定はできぬ」
ポッカはそう答え、言葉を切る。
「星は未来を示すが、未来そのものではない」
その場には一瞬の沈黙が落ちた。
その沈黙を破るように、ハクアシィダが静かに口を開く。
「……消えた、という感覚ではありません」
二人の視線が、彼女に向く。
「欠けた、でもない。ただ――星の位置が、わずかに“ずれた”ような」
ポッカの指先が、僅かに止まった。
「ずれた、か」
「はい。あるべき場所から外れた、というより……
“選ばれなかった可能性”が生まれたように見えます」
ラクチツの眉が、わずかに動く。
「それは危険だ!星印の子は、世界の均衡そのものだ」
「だからこそ、慎重であるべきです」
ハクアシィダは静かに言った。
「介入すれば、星は“固定”される。
ですが、それは――選択を奪うことにもなります」
一瞬、空気が張り詰める。
ラクチツは低く息を吐いた。
「秩序を守るためなら、必要な犠牲だ」
ポッカは首を振らなかった。
だが、肯定もしなかった。
「神殿は、未来を決める場所ではない」
そう言って、石盤から手を離す。
「見守る場所じゃからな」
ラクチツは何か言いかけ、やめた。
ハクアシィダは、胸の奥に残る違和感を振り払うように、視線を落とす。
(……星は、選ばせるもの)
誰かの顔が、脳裏をよぎった気がした。
だが、それが誰なのかは、まだ言葉にならない。
ポッカは静かに告げる。
「今は、動かぬ」
「帝国には?」
「必要な範囲でのみ、共有しよう」
それ以上は語られなかった。
神殿の鐘が、低く鳴る。
世界は、何事もなかったかのように朝を迎えている。
この小さな歪みが、
いまも街のどこかで、三人分の影を引きずっていることを――
それが、たった一人の少女の死から始まったことを
まだ、誰も知らない。




