第2話 何も起きなかった日
朝の市場は、すでに人で満ちていた。
露店に並ぶ野菜。
焼き立てのパンの香ばしい匂い。
行き交う人々の声と、馬車の軋む音。
どれも、昨日と変わらない。
「人、多いなー」
ナポリンは人混みを縫うように歩きながら、楽しそうに声を上げた。
「いつも通りとはいえ、この時間は本当に多いわよね」
リボンが振り返りながら応える。
今日も金色の髪は赤いリボンで結ばれ、朝の光を受けて揺れている。
「早い時間の方が安く手に入るものもあるし、今日もたくさん買っちゃった」
リボンはそう言って微笑み、買い物袋を抱え直した。
少し後ろを歩くシトロンは、周囲を見渡していた。
(……やっぱり、帝国兵が多い)
通りの角、露店の隙間、広場の入口。
銀色の鎧が、いつもより目につく。
だが、誰も騒いでいない。
兵士たちも建物の前で周囲を見渡したり、巡回したりしている。
「兄さん、少し詰めて。後ろ、通れない」
「あ、悪い悪い」
ナポリンが一歩前に出た、そのときだった。
――ガタン。
積荷を載せた荷車が、石畳の段差に引っかかり、大きく傾いた。
「あっ――!」
誰かの声。
木箱が崩れ、通路に雪崩れるように落ちてくる。
その先に、小さな子どもがいた。
考えるより先に、ナポリンの体が動いた。
「危ない!」
とっさに子どもを突き飛ばし、荷車と木箱の間に割り込む。
鈍い音と共に、箱の角が腕をかすめた。
「兄さん!」
シトロンの声が響く。
人々が一斉に動き、誰かが荷車を支え、箱の雪崩が止まる。
大きな悲鳴も、怒号もなかったが、あたりは一気に騒々しくなった。
「だ、大丈夫かい?」
商人が慌てて駆け寄る。
「平気平気!」
ナポリンは笑って立ち上がった。
袖が少し破れ、腕に赤い線が走っている。
「大したことないから心配すんなよ」
静かにこちらを見ていたリボンへ、ニッと笑ってみせた。
「もう……」
リボンは眉を下げ、ナポリンの腕を取る。
指先が一瞬だけ止まり、腕の赤い線にかすかに触れた。
「後でちゃんと消毒しないと」
それから一拍置いて目を細めながら、
「……本当に、気をつけてね」
叱るでもなく、責めるでもない声だった。
「へいへい」
ナポリンは軽く手を振る。
「あの、すいません!この子を助けていただき、ありがとうございました…!」
子どもの母親も駆け寄ってきて深く頭を下げた。
「いや、咄嗟にとはいえ突き飛ばしちゃったけど、大丈夫だったか?」
「ええ、おかげさまでなんともなくて……ほら、あなたもお兄さんにお礼を言いましょう?」
ナポリンに助けられた女の子が、母親の後ろから顔を出して言う。
「…おにぃちゃん、あいがと」
恥ずかしいのかすぐに顔を引っ込めてしまった。
「ん、怪我がなくて良かったな」
ナポリンは二人にそう言って見送った。
市場はすぐに元の賑わいを取り戻し、事故の話題は、次の値段交渉にかき消された。
買い物を終え、三人は並んで歩く。
「兄さんはいつもこうだね」
ぽつりと、シトロンが言った。
「いつもって?」
「……なんでもない」
シトロンはそれ以上、何も言わなかった。
リボンは二人を見て、困ったように微笑む。
朝の光は変わらず、市場の喧騒も、街の匂いも、何一つ変わらない。
何も起きなかった。
それが、なぜか胸に引っかかっていた。




