第9話 始まらなかった理由
代役の儀式から、数日が過ぎた。
城は再び、静けさを取り戻していた。
いや、正確には――静けさを装っていた。
失敗は公にはならなかった。代役が務まらなかったことも、儀式が空転したことも、公式には何も語られない。語られないことで、なかったことになる。それが、この城の作法だった。
だが、空気は変わっている。
わずかな視線の揺れ。
会話の途中で途切れる沈黙。
「次」の話題が、誰の口からも出てこないこと。
皆が、気づいている。
正義は止まり、代役も効かず、では次に何をすればいいのか――誰も分からないということに。
わたくしは、久しぶりに書庫へ向かった。
明確な理由があったわけではない。ただ、答えがあるとすれば、記録の中だろうと思ったのだ。人が口を噤むなら、紙はまだ何かを覚えているかもしれない。
書庫の奥は、ひんやりとしていた。石壁に囲まれ、外の時間から切り離された空間。埃と紙の匂いが混ざり合い、過去がそのまま保存されている場所。
司書は、わたくしを見て一瞬だけ躊躇したが、止めなかった。もう止める意味がないのだろう。
「閲覧制限のある棚を、確認したいの」
わたくしはそう告げた。
司書は、しばらく迷うように視線を彷徨わせ、それから小さく息を吐いた。
「……お一人で、ということでしたら」
それだけ言って、鍵を渡した。
鍵は、重かった。物理的な重さではない。持つべきでないものを持っている感覚。その感覚を、わたくしはよく知っている。
棚の奥。
年号ごとに整理された帳簿。
宗教記録、巡礼記録、奇跡報告。
聖女に関わるはずの書類は、そこにあるはずだった。
だが――ない。
正確に言えば、「途中まで」しかない。
ある年を境に、報告が途切れている。聖地での出来事、候補者の選定、神託の記録。そのすべてが、ある一日を最後に、唐突に終わっている。
日付は、はっきりしていた。
わたくしは、その日付を見て、動きを止めた。
それは、わたくしの断罪予定日より、少し前の日だった。
偶然ではない。
胸の奥で、何かが静かに噛み合う音がした。
さらに帳簿をめくる。
巡礼路の封鎖記録。
安全確認未了。
原因不明の事故。
事故。
その言葉は、淡々と書かれている。詳細は伏せられ、関係者の名前は省かれ、責任の所在は「調査中」のまま止まっている。
だが、日付だけは消せなかったのだろう。
同じ日。
聖女候補が「現れるはずだった」日。
わたくしは、帳簿を閉じた。
音が、やけに大きく響いた。書庫の中で、その音だけが、確かな現実だった。
理解してしまった。
聖女は、来なかったのではない。
――来る前に、終わっていたのだ。
事故。
不慮の出来事。
誰も悪くない不幸。
それは、この城が最も得意とする分類だ。責任を問わず、哀悼だけを示し、前に進むための便利な箱。
けれど、その箱の中身は、空ではない。
命が一つ、確かにそこにある。
わたくしは、しばらくその場に立ち尽くしていた。悲しみは湧かなかった。怒りもない。ただ、理解があった。
だから、物語は始まらなかった。
ヒロインが来ないのではなく、来られない。
それを誰も言わないのは、言えば物語そのものが壊れるからだ。
聖女がいない断罪は、成立しない。
聖女が死んだ断罪は、なおさら成立しない。
誰も悪くない事故で失われた命を前に、悪役を裁く正義は、どこにも居場所を持てない。
だから、すべてが止まった。
だから、善意が積み重なり、判断が延期され、代役が試され、それでも動かなかった。
わたくしは、書庫を出た。
廊下の窓から、夕日が差し込んでいる。赤く、穏やかな光。何かを責める色ではない。すべてを包み込み、境界を曖昧にする色。
王太子が、回廊の先に立っていた。
偶然ではないだろう。彼もまた、何かに気づき始めている。あるいは、気づいていて、確認を避けている。
「……見てしまったのか」
彼は、そう言った。
否定はしなかった。知らなかったとも言わなかった。
「ええ」
わたくしは、正直に答えた。
王太子は、目を伏せる。
「公にはできない」
それが、彼の最初の言葉だった。
「分かっていますわ」
公にすれば、誰かが責められる。事故の管理者。判断を下した者。あるいは、神そのもの。
どれも、彼の理想が許さない。
「……だから、断罪は」
彼が言いかけた言葉の先を、わたくしは知っている。
断罪は、できない。
「殿下」
わたくしは、静かに口を開いた。
「わたくしは、役目を果たせない理由を、ようやく理解しました」
王太子は、顔を上げる。
「わたくしは、悪役として完成していました。ですが、対になる存在が失われた以上、物語は成立しない」
それは、責めでも抗議でもない。構造の説明だ。
「誰も悪くありません。事故だったのでしょう。誰も意図していない」
王太子の正義を、否定しない言葉。
「……だが」
彼の声が、わずかに震える。
「それでも、君は……」
わたくしは、微笑んだ。
いつもの、悪役の笑みではない。
ただ、理解した者の顔だった。
「殿下。わたくしは、憎まれずに死ぬことを、望んでいません」
彼は、何も言えなかった。
夕日の中で、正義は沈黙している。
動かないまま、しかし崩れもしない。
わたくしは、その沈黙の理由を、すでに知っていた。
始まらなかったのではない。
始められなかったのだ。
それだけのことだった。




