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『私は断罪されて死ぬ予定でしたが、ヒロインがやってきません』  作者: 月白ふゆ


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第8話 代役

 城の空気が、わずかに変わったのは、誰かがそれを「変えよう」としたからではなかった。


 むしろ逆だ。

 変えないままでいることに、限界が見え始めたからだ。


 朝、わたくしのもとに届いた知らせは、短く、しかし妙に重かった。


 ――儀式を、試行する。


 断罪ではない。

 本番ではない。

 あくまで「確認」だと、その文面は強調していた。


 誰も責任を負わず、誰も決断しないための、便利な言葉。


 試行。


 わたくしは、その紙を静かに畳んだ。指先が震えることはなかった。ここまで来ると、驚きも期待も、ほとんど残っていない。ただ、ようやく「何かが起きる」ことへの、乾いた感覚だけがあった。


 儀式は、礼拝堂の奥で行われるという。


 正式な場ではない。観客もいない。王太子も、立ち会うかどうかは明言されていなかった。必要最小限の人間だけが集まり、問題がないかを確認する――そういう建前だ。


 建前は、いつも整っている。


 礼拝堂へ向かう回廊は、ひどく静かだった。足音が反響するたびに、天井の高さを思い知らされる。祈りのために作られた空間は、人の声を必要としない。神に向けた沈黙だけが、最初から用意されている。


 奥の扉をくぐると、数人の聖職者と、儀式担当の役人が揃っていた。皆、慎重な顔をしている。緊張というより、失敗したくないという表情。


 その中に、一人の少女が立っていた。


 白い衣。質素だが、清潔で、よく整えられている。年は若い。まだ、聖女と呼ばれるには足りない。ただ「それらしく見える」ように選ばれた存在。


 代役だ。


 わたくしは、その事実を一目で理解した。理解してしまったからこそ、胸の奥が、ひどく静かになった。


 少女は、こちらを見て、小さく頭を下げた。怯えているのが分かる。彼女は、自分が何の代わりなのかを、完全には理解していないだろう。ただ、「必要だから呼ばれた」のだ。


 必要だから。


 それは、わたくしがずっと聞いてきた言葉でもある。


 「形式だけ、整えます」


 聖職者の一人が、説明するように言った。


 「聖女が不在のままでは、儀式の流れを確認できません。ですので……象徴として」


 象徴。


 わたくしは、ゆっくりと頷いた。口を開く必要はない。ここでわたくしが何を言おうと、決定はすでに下されている。下された、というより、下されたことにしている。


 儀式は始まった。


 祈りの言葉が唱えられ、香が焚かれる。空気が少しずつ変わる。だが、それは本来あるべき重みを伴っていない。形だけが、浮いている。


 少女は指示通りに立ち、聖句をなぞるように口にする。声は震えていたが、間違いはない。教えられた通りだ。


 だが、何かが、決定的に足りない。


 それは力ではない。信仰でもない。血筋でもない。


 ――物語だ。


 聖女という役割は、象徴では成立しない。誰かが「その人だ」と信じ、世界がそれを受け入れる過程が必要だ。そうでなければ、ただの衣装になる。


 祈りが終わり、沈黙が落ちた。


 何も起きない。


 空気は変わらない。光も、音も、意味を持たない。儀式は、ただ「終わった」という事実だけを残した。


 聖職者たちは、互いに視線を交わした。誰も声を上げない。誰も失敗だとは言わない。


 「……今日は、ここまでにしましょう」


 誰かがそう言った。中止でも、失敗でもない。区切りだ。


 少女は、ほっとしたように息を吐いた。役目が終わったのだと思ったのだろう。彼女はただの代役で、使い捨てではあるが、裁かれる存在ではない。


 わたくしは、その様子を見ながら、奇妙な感覚に襲われた。


 代役は、成立しない。


 それが、はっきりと示された。


 形式だけでは、物語は動かない。象徴だけでは、正義は発動しない。誰かを当てはめるだけでは、意味は生まれない。


 では、なぜ。


 なぜ、本来そこにいるはずの人物は、現れないのか。


 儀式の場を離れるとき、王太子が扉の外に立っていた。


 立ち会わないと言っていたはずだ。だが彼は、最後まで見ていたのだろう。表情は穏やかで、しかし疲れが滲んでいる。


 「……うまくいかなかった」


 彼は、事実だけを口にした。


 「ええ」


 わたくしは、それ以上言わなかった。言う必要がない。結果は、全員が理解している。


 「代役では、だめだ」


 王太子の声は低かった。独り言に近い。


 「……そうですわね」


 わたくしは、ほんの少しだけ、間を置いて答えた。


 王太子は、しばらく黙っていた。正義が止まった世界で、彼だけが、次の一手を探している。だが、その一手は、彼の理想の外にある。


 「君は……」


 彼は何かを言いかけて、やめた。言葉にすれば、何かを壊してしまうと分かっている顔だった。


 わたくしは、静かに頭を下げた。


 「殿下。代役が務まらないのは、当然です」


 王太子は、こちらを見る。


 「物語には、順番がある」


 わたくしは続けた。


 「わたくしが悪役として立ち、聖女がそれを断罪する。その構図があってこそ、意味が生まれる。片方だけを用意しても、動かないのです」


 王太子は、否定しなかった。


 それが、何より重かった。


 代役は、その日のうちに解放された。彼女は、何事もなかったかのように城を去るだろう。記録にも、ほとんど残らない。


 失敗は、誰の責任にもならない。


 わたくしは自室に戻り、椅子に腰を下ろした。


 代役が成立しないことは、確認された。

 つまり、問題は解決していないということだ。


 形式は整えられた。善意も尽くされた。だが、世界は一歩も進まなかった。


 わたくしは、静かに目を閉じる。


 悪役の席は、まだ埋まっている。


 聖女の席は、相変わらず空いたまま。


 そして、その空席は、誰にも代われないことだけが、はっきりしてしまった。


 それでも、断罪は始まらない。


 代役では足りない。


 ならば、必要なのは――


 その答えが、少しずつ、輪郭を持ち始めていた。

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