第7話 正義が止まった世界
城の時計は、今日も正確だった。
鐘は決まった時刻に鳴り、時針は一度もためらわずに進む。機構に狂いはなく、管理も行き届いている。だから、時間そのものが止まっているわけではない。
止まっているのは、判断だ。
わたくしは中庭を歩きながら、そのことを考えていた。石畳の上を、一定の歩幅で進む。足音が規則正しく響く。規則は守られている。秩序も、体裁も、すべて。
けれど、前に進んでいる感覚がない。
中庭では、若い騎士たちが訓練をしていた。剣がぶつかり合い、掛け声が上がる。彼らは真剣だ。命令に従い、鍛錬を重ね、いつか来る「その時」に備えている。
「今は動く時ではない」
以前、王太子がそう言っていたのを思い出す。
動く時ではない。待つ時だ。
だが、待つという行為は、本来、次の行動が決まっている者だけに許されるものだ。行き先が分からないまま立ち止まるのは、待機ではなく停滞だ。
騎士たちは、次に何をするかを知っている。だから、待てる。
わたくしは、何を待っているのかを知らない。
回廊を抜けると、政務に関わる部屋の前を通りかかった。中から声が漏れてくる。
「慎重に進めるべきだ」
「前例がない」
「今は様子を見るのが賢明だろう」
声の主たちは、皆、正しそうだった。焦りはなく、感情も抑えられている。誰も声を荒げない。誰も無茶を言わない。
だからこそ、結論が出ない。
結論を出すためには、何かを切り捨てなければならない。可能性、期待、あるいは誰かの役割。
しかし、この場にいる者たちは、誰も切り捨てたくないのだ。善意と正義を両立させたい。全員が納得する形を探している。
探し続けている。
わたくしはその場を離れた。
城の外に出る許可は出ていないが、城門の内側までは歩ける。そこから街が見える。人の流れ。露店の色。子供の笑い声。
街は動いている。
誰かがパンを売り、誰かが買い、誰かが運ぶ。小さな衝突や不満はあるだろうが、それでも生活は前に進む。完璧ではなくても、判断を繰り返しているから。
ふと、思う。
もし、街が城のように慎重だったら。
もし、誰も間違えたくないからと決断を先延ばしにし続けたら。
店は開かず、道は選ばれず、人は立ち尽くすだろう。
城は、今、そうなっている。
正義が止まっているのだ。
それは崩壊ではない。暴走でもない。むしろ、理想的な静止だ。誰も傷つかず、誰も責められず、誰も血を流さない。
ただ、物語だけが進まない。
自室に戻ると、机の上に一通の書状が置かれていた。封はされていない。正式な命令ではないという合図。
中身は短い。
――今しばらく、状況を見守られたい。
署名はない。けれど、誰からのものかは分かる。王太子だ。あるいは、王太子の正義そのもの。
わたくしは紙を折り、机に戻した。
見守る。
何を?
状況とは、何だろう。
聖女候補の不在。断罪の延期。役割の空白。善意の積み重なり。責任の不在。
それらは、自然に解決するものではない。誰かが「決めなければ」終わらない。
だが、その誰かが、いない。
わたくしは、窓辺に立つ。庭の向こうに、城壁が見える。その外には、街がある。さらに遠くには、国がある。
すべてを守ろうとして、何も決められない場所。
それが、今の城だ。
わたくしは、自分が悪役であることに、改めて気づく。
悪役は、物語を進める存在だ。対立を生み、決断を迫り、世界を動かすための歪み。
だが今、わたくしは歪みであることを許されていない。
憎まれない。裁かれない。排除されない。
だから、世界は止まる。
窓の外で、雲がゆっくりと流れていく。空は変わる。光も変わる。だが、城の中の空気だけが、同じ濃度のままだ。
正義は、動かない。
動かない正義は、暴力よりも静かで、優しく、そして厄介だ。
わたくしはその中心に立たされ、何者にもなれないまま、ただ立ち続けている。
悪役としても、被害者としても、まだ未完成のまま。
それが、この世界の「正しさ」なのだとしたら。
正しさとは、ずいぶんと、不器用なものだと思った。




