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『私は断罪されて死ぬ予定でしたが、ヒロインがやってきません』  作者: 月白ふゆ


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第6話 善意という免罪符

 王太子との会話から数日が過ぎた。


 城は、相変わらず静かだった。延期された断罪が話題に上ることはなく、誰もが「次」を待っている。待っているというより、待っているふりをしている。止まっている事実を直視しないための、丁寧な姿勢。


 わたくしはその中に混じり、何も起きていない日常をなぞる。


 朝の礼拝。昼の食事。形式的な会話。どれも、欠けているものがあるとは思えないほど整っていた。だからこそ、欠けているものの存在が、際立つ。


 礼拝堂で、聖職者の言葉を聞いた。


 「善意は、人を救います」


 柔らかな声。穏やかな表情。彼は、信じているのだろう。自分の言葉を。自分の役割を。だから、その言葉に疑いはない。


 「殿下は、正しい選択をなさっています」


 聖職者は続けた。


 「混乱を避け、秩序を守るために、必要な時間を取っている。それは慈悲であり、思慮深さです」


 わたくしは、膝の上で指を組み、黙って聞いていた。


 慈悲。思慮深さ。


 そのどちらも、否定する理由がない。誰も責められていない。誰も罰せられていない。だから、安心できる。


 けれど、その言葉の中に、わたくしの居場所はない。


 礼拝堂を出ると、廊下で若い貴族とすれ違った。彼はわたくしに気づき、少し慌てたように礼を取る。


 「ご無事で、何よりです」


 無事。


 それは、祝福の言葉としては正しい。だが、わたくしの立場では、どこか奇妙だった。死ぬ予定の者に向ける言葉ではない。


 「殿下も、ご心配なさっていました」


 彼はそう付け加えた。


 心配。善意。配慮。


 それらが重なり合い、わたくしの周囲に薄い膜を作る。触れれば破れそうで、しかし誰も触れようとしない膜。


 午後、庭で、数人の貴族が談笑しているのを見かけた。


 「殿下は、本当にお優しい」


 「ええ。拙速な判断をなさらない」


 「誰かを切り捨てるようなことは、なさらない方ですもの」


 言葉は軽やかで、悪意はない。彼らは王太子を称えている。正しい行いを、正しいと評価している。


 わたくしは、その輪の外を通り過ぎた。


 切り捨てない。


 では、保留にされた者は、どうなるのだろう。


 切られないかわりに、留め置かれる。動けず、終われず、役割だけを背負ったまま。


 そのことに気づいている者は、どれほどいるのか。


 書庫で、年配の貴族と話す機会があった。彼はかつて、政務に深く関わっていた人物だ。


 「殿下の判断は、賢明ですな」


 彼は穏やかに言う。


 「焦れば、誰かが傷つく。今は待つべき時です」


 「……待つことで、傷つく者はいませんの?」


 わたくしの問いは、自然に口をついて出た。


 彼は一瞬だけ考え、それから微笑んだ。


 「それは、誰も意図していない傷です」


 意図していない。


 その言葉が、胸の奥で反響する。


 「意図していないなら、仕方がない、ということですか」


 問い返すと、彼は困ったように眉を下げた。


 「責めるべき相手がいない、ということです」


 責める相手がいない。


 それは、とても便利な言葉だった。


 誰かが悪意を持って動いたなら、糾弾できる。誰かが過ちを犯したなら、裁ける。だが、善意と慎重さと配慮の結果なら、誰も悪くない。


 悪くないから、誰も責任を取らない。


 わたくしは、その場を辞した。


 廊下を歩きながら、足音がやけに大きく響く。城の中は静かで、音が反射する。善意が積み重なった場所ほど、音が澄む。


 自室に戻り、椅子に腰を下ろす。


 机の上には、何もない。判決文も、通告書も、期限を示す紙切れも。あるのは、整った空白だけ。


 善意という免罪符。


 それは、人を守るためのものだ。誰かを断罪しないためのものだ。だから、使われる。


 だが同時に、それは、誰かが宙に浮いたままになることを許す。


 わたくしは思う。


 もし、誰かがはっきりと「間違えた」と言ってくれたなら、どれほど楽だろう。もし、誰かが「悪かった」と言ってくれたなら、どれほど救われるだろう。


 だが、誰もそう言わない。


 皆、善意の側に立っているから。


 夕暮れ、窓辺に立つ。庭に長い影が伸び、昼の整然とした景色が、少しだけ歪む。だが、それもすぐに夜に飲み込まれる。


 わたくしの存在も、同じだ。


 歪みはあるが、問題として扱われない。見えにくく、声にしづらい。


 悪役であることは、分かりやすい。憎める。断罪できる。


 けれど、善意で何も決まらない状態は、誰にも憎まれない。


 わたくしは、憎まれる準備をしてきた。


 だが今、わたくしを包んでいるのは、責めどころのない優しさだ。


 それは、剣よりも鋭く、鎖よりも重い。


 「……正しく、憎まれなければ」


 口にすると、言葉が薄く感じられた。善意の前では、悪意ですら輪郭を失う。


 窓の外で、鐘が鳴った。


 時間を告げる音。けれど、わたくしの時間は進まない。


 善意という免罪符の下で、わたくしは今日も、断罪されないまま、生かされている。


 それが、どれほど残酷なことかを、誰も知らないまま。

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