第5話 理想を語る人
王太子から呼び出しがあったのは、その日の午後だった。
使いの者は丁寧だった。言葉遣いも、間の取り方も、完璧に整えられている。そこには緊急性も、拒否の余地もなかった。ただ、「そうするのが自然」という空気だけが置かれている。
わたくしは断らなかった。断る理由がない。断ったところで、何かが変わるとも思えなかった。
謁見の間は、静かだった。
広さのわりに音が少なく、天井は高い。光は窓から柔らかく差し込み、床に薄い影を落としている。過剰な装飾はなく、権威を誇示するよりも、秩序を示すための空間だ。
王太子は、そこに一人で立っていた。
玉座に座っていない。そのことに、わたくしはわずかに驚く。彼はいつも、形式を重んじる人だ。だが今は、立ったまま、わたくしを迎えた。
「来てくれて、ありがとう」
声は穏やかで、目はまっすぐだった。逃げも隠れもない視線。誠実さを疑う余地のない態度。
「お呼びとあらば」
わたくしは礼を取る。深くも浅くもない、ちょうどよい角度。婚約者として、悪役として、期待される距離感。
王太子は一歩近づき、しかし距離を詰めすぎないところで止まった。彼は距離を測るのが上手い。人を圧迫しない。だが同時に、相手が逃げ出せる余地も与えない。
「体調はどうだい」
「問題ありませんわ」
事実だった。体調に問題はない。問題があるのは、状況だ。
王太子は一瞬、言葉を探すように視線を揺らした。だがすぐに、いつもの調子に戻る。
「……今回の件について、話しておきたかった」
今回の件。
断罪の延期。聖女の不在。空白のまま放置されている手順。
彼はそれを「件」と呼ぶ。問題ではなく、事務でもなく、事故でもない。処理すべき一連の出来事として。
「断罪は、必要だと私は思っている」
王太子はそう言った。躊躇いのない口調だった。
「それは、秩序のためだ。君のためでもあり、国のためでもある。曖昧なままにしておくことは、正しくない」
わたくしは黙って聞いた。彼の言葉は、いつも論理的で、隙がない。正しいことを正しい順番で並べる。その力が、彼を王太子にしている。
「だが、今ではない」
続く言葉に、わたくしは小さく息を吐いた。やはり、そこに戻る。
「聖女が必要だ。彼女がいてこそ、断罪は意味を持つ。君も、それは分かっているだろう?」
分かっている。分かっているから、ここまで来た。
「……ええ」
わたくしが頷くと、王太子は少しだけ安堵したように見えた。その表情が、胸の奥に薄く刺さる。彼は、わたくしに理解されたいのだ。敵にではなく、同じ舞台に立つ者として。
「私は、正しい形で物事を進めたい」
王太子は続ける。
「誰かを犠牲にするのではなく、必要な役割として。君が悪役を引き受けてきたことも、私は承知している。軽んじているつもりはない」
軽んじてはいない。大切に扱っている。だからこそ、必要な場所に置いている。
その言葉の裏側が、はっきりと見える。
「君は強い。理性がある。感情に流されない」
彼は、わたくしを評価する言葉を選ぶ。選びながら、わたくしを枠に収める。
「だから、待ってほしい」
待つ。
「物語は、正しい順序で進むべきだ。順序が崩れれば、結果も歪む。私は、それを許したくない」
許したくないのは、歪みではない。歪みを生む「例外」だ。彼の正義は、例外を嫌う。善意から来る、きわめて誠実な拒絶。
「殿下」
わたくしは口を開いた。声は静かで、感情を乗せない。
「わたくしは、悪役として死ぬ覚悟があります」
王太子の目が、わずかに見開かれる。
「それが、この物語における、わたくしの役目でしたから」
彼はすぐに首を振った。
「君は、死ぬために生きてきたわけではない」
その言葉は、正しい。だが、わたくしの人生には合わない。
「……覚悟があることと、望んでいることは違う」
王太子は続ける。
「私は、君に生きていてほしい。少なくとも、正しく裁かれるまでは」
正しく裁かれるまでは。
その言葉に、わたくしは微笑んだ。薄く、いつもの形で。
「殿下は、正しいことをなさいますわ」
それは、皮肉でも諦めでもなかった。ただの事実だ。
王太子は、少しだけ困ったように笑った。
「……君は、私を信用していないわけではないだろう?」
「信用しております」
即答だった。信用しているからこそ、怖いのだ。
彼の正しさは、揺らがない。揺らがないから、誰かが折れるまで止まらない。
「殿下は、正義を信じていらっしゃる」
「当然だ。正義がなければ、国は成り立たない」
わたくしは一歩下がり、礼を取った。
「でしたら、わたくしは、その正義の完成をお待ちします」
待つ。それは、彼の言葉を受け入れる形だった。
王太子は、満足そうに頷いた。納得した顔だった。話が通じたと信じている顔。
彼は最後に、こう言った。
「君なら、きっと応えてくれる」
その一言が、胸の奥に静かに沈んだ。
命令ではない。強制でもない。ただの期待。善意から生まれた信頼。
それが、人を追い詰めることもあると、彼は知らない。
わたくしはその場を辞した。背中に、王太子の視線を感じる。彼は最後まで、わたくしを見送っていた。誠実に。正しく。
回廊を歩きながら、わたくしは思う。
王太子は、間違っていない。
けれど、正しさだけでは、始まらないこともある。
わたくしが悪役として完成しても、聖女の席が空いたままでは、物語は動かない。正義は正義の形を保ったまま、立ち尽くす。
窓の外で、雲が流れている。速くもなく、遅くもなく。誰の都合でもない速度で。
王太子は理想を語る人だ。
その理想が、誰かの居場所を奪うことがあるとしたら。
それでも彼は、理想を捨てないだろう。
捨てないからこそ、わたくしは悪役でいられる。
そう考えて、わたくしは少しだけ、疲れを覚えた。
理想の隣に立ち続けるのは、想像以上に、骨が折れる。




