第4話 聖女候補という空席
翌朝、城はいつも通りに動いていた。
鐘は定刻に鳴り、廊下には足音が行き交い、厨房からは湯気と匂いが立ち上る。誰もが役割を果たし、誰もが昨日の続きを生きている。断罪が延期されたことなど、特別な出来事ではないかのように。
わたくしは、その「いつも通り」の中を歩いた。
部屋を出て回廊を進むと、数人の貴族令嬢が立ち話をしているのが見えた。声は低く抑えられているが、意図的な抑制ではない。自然とそうなる種類の話題だ。
わたくしが近づくと、会話は途切れた。
視線が一斉に逸れる。ある者は扇を広げ、ある者は用もない壁画に見入る。あからさまな敵意も、露骨な軽蔑もない。ただ、扱いに困っているだけの空気。
正しく接する方法が分からない、という顔。
わたくしは何事もなかったように通り過ぎた。ここで冷笑を浮かべれば、彼女たちは安心するだろう。ああ、やはり悪役は悪役だ、と。だが今は、その労力すら惜しかった。
廊下の先で、年配の女官が書類を抱えて歩いているのが見えた。彼女は城の記録を扱う部署の者で、几帳面さで知られている。わたくしは歩調を合わせ、横に並んだ。
「おはようございます」
形式的な挨拶。彼女は一瞬だけこちらを見て、すぐに視線を前へ戻した。
「……おはようございます」
声に含まれる戸惑いが、挨拶そのものより雄弁だった。
「最近、お忙しそうですのね」
世間話の形を借りた問い。女官は少し間を置いてから答えた。
「ええ。少々、記録の整理が立て込んでおりまして」
整理、という言葉が耳に残る。
「何か、抜けでもありましたの?」
わたくしの声は穏やかだった。探る意図は隠していない。けれど、それを咎める雰囲気でもない。ただの会話だ。城では、誰もが何かを探っている。
女官は歩きながら、ほんのわずかに眉を寄せた。
「……いえ。抜けというより、空白です」
空白。
その言葉は、思いのほか重く落ちた。
「空白、ですの?」
「ええ。存在するはずの項目が、最初から記されていないような……そういう箇所が、いくつか」
女官はそれ以上言わなかった。言わなかったが、十分だった。
存在するはずの項目。記されていない名前。最初から空いている席。
「それは、大変ですわね」
わたくしはそう言い、歩みを止めた。女官は軽く一礼し、そのまま去っていく。彼女の背中は、仕事に戻る人間のものだった。責任を果たし、疑問は疑問のまま棚に上げる背中。
回廊に一人残され、わたくしはしばらくその場に立っていた。
空白。
聖女候補という言葉は、城のあちこちで囁かれている。だが、名前を聞いたことがない。誰の娘か、どこの出身か、いつ現れたのか。そういう基本的な情報が、奇妙なほど語られない。
聖女が現れる。そう言われていた。
聖女は選ばれる。そう聞かされていた。
けれど、選ばれる「誰か」の話が、最初から存在していないかのようだ。
昼前、庭を歩いていると、若い騎士たちの会話が耳に入った。
「巡礼路、また封鎖だそうだ」
「え? まだなのか」
「安全確認が済んでいないとか。詳しくは知らないが……」
声は、特別な噂話というより、日常の小さな不便を語る調子だった。巡礼路。聖地へ続く道。聖女が通るはずの道。
わたくしは足を止めず、そのまま通り過ぎた。
午後、書庫に寄る。何かを調べるつもりがあったわけではない。ただ、静かな場所に身を置きたかった。書庫の奥で、司書が帳簿を整理している。
「聖女に関する記録は、どの棚ですの?」
ふと、そう口にしていた。
司書は驚いたように目を瞬かせ、それから困ったように首を傾げる。
「……聖女、ですか」
「ええ。候補の方でも構いませんわ」
司書は一度、帳簿に視線を落とし、次に書庫全体を見渡した。その仕草が、答えだった。
「申し訳ありません。そのような記録は……今は」
今は。
「以前は、ありましたの?」
問いかけは柔らかく、けれど逃げ道を塞ぐ形になった。司書は一瞬だけ口を開き、すぐに閉じた。
「……お役目に関わることは、時期によって管理が変わりますので」
それ以上は言えない、という顔。
わたくしは礼を述べ、書庫を出た。廊下に戻ると、窓から光が差し込んでいる。明るい。穏やかだ。何も欠けていないように見える。
それが、いちばん不気味だった。
聖女候補という存在は、誰も否定しない。否定しないが、誰も具体的に語らない。まるで、そこに「触れてはいけない何か」があるかのように。
わたくしは自分の立場を思う。
悪役令嬢は、常に語られる。名前も、出自も、振る舞いも。良くも悪くも、物語の表に立たされる。けれど、聖女は違う。聖女は象徴であり、個人ではない。だからこそ、個人としての輪郭が曖昧でも成立する。
成立するはずだった。
部屋に戻る途中、王太子の側近とすれ違った。彼は一瞬だけ足を止め、形式的な礼を取る。その目が、わたくしの背後を確かめるように動いた。
「何か、お探しですの?」
何気ない問い。側近は微笑を崩さず答える。
「いいえ。特に」
その「特に」が、何より雄弁だった。
わたくしは歩きながら、ふと思う。
聖女候補は、空席なのではない。
空席に、しているのだ。
誰かが意図的に消したのか、世界がそうなったのか。それは分からない。だが、席だけが残り、座る者がいない。誰もその椅子に腰掛けようとしない。
悪役の席には、わたくしが座っているというのに。
部屋に戻り、窓辺に立つ。庭では、庭師が黙々と作業をしている。木を剪定し、枯れた枝を落とす。不要な部分を切り捨てることで、全体を保つ。
その手つきは、正確で、迷いがない。
わたくしはガラス越しに、その様子を眺めながら思う。
物語にも、剪定が必要なのだとしたら。
今、切り落とされているのは、誰なのだろう。
聖女候補という空席は、静かにそこにある。誰も座らず、誰も片付けず、ただ「あるべき場所」として残されている。
そしてその隣で、悪役の席だけが、妙に居心地よく用意されている。
わたくしは、その席から降りられないまま、空いた椅子を見つめていた。
それが空席であることを、世界全体が知っていながら、知らないふりをしている。
そんな気配だけが、城の空気に薄く滲んでいた。




