第3話 悪役として育てられた日々
夜が更けても、部屋の中は整いすぎていた。
燭台の火は揺らぎ、カーテンの影が壁に薄く伸びる。けれど、それは「揺らぐべきもの」ではなく、揺らぐように設計された装飾に見えた。わたくしがここで何を思おうと、何を恐れようと、部屋は部屋の顔を崩さない。城は城の沈黙を守り続ける。
紅茶はとうに冷めていた。
カップの縁に触れると、陶器の冷たさが指先に移る。ほんの少し前まで、温かさが現実の証だったのに、それもすぐに奪われる。こうして、誰にも気づかれない速度で、わたくしはまた「予定」に戻っていく。
――わたくしが悪役として死ぬ予定であること。
それは誰かに宣言されたわけではない。判決文があったわけでもない。けれど幼い頃から、目に見えない手がわたくしの肩を押し続けていた。こちらへ。こちらへ、と。
そういう育てられ方をした。
わたくしは、ふっと笑う。笑い声は出ない。喉の奥だけがひやりとした。
悪役令嬢とは、何なのだろう。
世間がそう呼ぶ以前に、わたくしの家はそれを理解していた。理解し、利用し、そして整えた。国という舞台には、役が必要なのだと。光があるなら影も要るのだと。聖女が民の希望になるなら、彼女を際立たせるための闇も必要なのだと。
わたくしは、闇の方に産み落とされた。
生まれた日のことは覚えていない。けれど、最初に記憶しているのは、泣いたあとに頬を拭われた指の温度よりも、泣くことが許されない場の空気だった。
「泣くのは弱さです。弱さは、笑われます」
乳母は優しかったと思う。声は柔らかく、手は丁寧だった。けれど、その優しさはいつも一つの目的に沿っていた。わたくしを慰めるためではなく、わたくしを形作るための優しさ。
幼いわたくしは、頷いて泣き止んだ。泣き止むことが褒められると学んだ。
笑い方を先に教えられた。礼の角度、歩幅、言葉の選び方。敬意を示すときの目線、侮蔑を含ませるときの口角。扇を開く速度で、気分の良し悪しが伝わるように。花を愛でるふりをしながら、相手の立場を値踏みするように。
美徳ではない。技術だ。
社交は、剣術に似ている。切るためではなく、切られないために磨く。けれどわたくしは、切られないためではなく、きっと、切られるために磨かされていた。
初めて鏡の前で「悪い笑み」を作らされたのは、何歳の頃だったか。
「笑いなさい。勝ったように」
家庭教師は、わたくしの顎に指を添えて、口角の上がり方を矯正した。微笑では足りない。慈愛では邪魔になる。もっと薄く、もっと鋭く。相手を見下しているのに、上品さだけは崩さない笑い方。
鏡の中の少女は、美しかった。美しいことが、罪になれることを知っている顔だった。
「それでいい。あなたは嫌われなさい。嫌われることで、あなたの家は守られる」
守られる――何から、誰から。
幼いわたくしには、その言葉の重さが分からなかった。けれど、分からないままに覚えた。わたくしが嫌われることは、家のためであり、国のためであり、物語のためである、と。
それが当然になった。
父は、寡黙な人だった。家の当主として、常に正しい顔をしていた。叱ることも褒めることも少ない。だが、目だけはいつも正確だった。わたくしの所作が少しでも崩れれば、視線だけで正される。
母は、華やかな人だった。宝石よりも目を引く笑みを持ち、誰とでも上手に話し、誰にも隙を見せない。けれど母は時折、わたくしにだけ、妙にまっすぐな言葉を投げた。
「あなたは、あなたの役目を果たしなさい」
そこに愛があったかどうか、今でも判断できない。愛の形をした義務だったのかもしれないし、義務を愛の形に包むことでしか伝えられなかったのかもしれない。
ただ一つ確かなのは、両親はわたくしを「捨てる」つもりではなかったということだ。彼らは彼らなりに、わたくしを必要としていた。必要としているからこそ、正しく使えるように育てた。
それは、慈しみではない。
でも、憎しみでもない。
それが一番、わたくしを困らせる。
夜の窓の外に、庭の闇が広がっている。闇の中でも、白い小道だけが月明かりを受けて薄く浮いていた。あれは昼のために作られた道だ。夜に歩く者のためではない。それでも道はそこにあり、夜の闇は昼の設計を変えられない。
わたくしの人生も、あの道に似ている。
わたくしは王太子と、幼い頃から顔を合わせていた。
初めて会ったとき、わたくしは泣かなかった。泣いてはいけないと知っていたからではなく、泣く理由がなかったからだ。王太子は優しく笑い、わたくしに向けて小さな玩具を差し出した。木で作られた、小さな馬。
「君に似合いそうだと思った」
その言葉に、わたくしは礼を返した。握るべきものの握り方、受け取るべきものの受け取り方。幼児の手は小さくても、儀礼は儀礼だった。
王太子は、誠実な人だった。誠実で、理想を持っていて、その理想を恥じない。年齢を重ねるほどに、その誠実さは強固になっていった。彼は国を良くしようとし、正義を信じ、正しい手順を尊んだ。
わたくしは、その「正しい手順」の一部だった。
婚約が決まったとき、城は祝福した。わたくしの家も笑った。父は一度だけ、わたくしの肩に手を置いた。重い手だった。祝福というより、印を押すような触れ方。
母は耳元で囁いた。
「これで、あなたは完成よ」
完成。人間を言う言葉ではない。
それでもその瞬間、わたくしは妙に落ち着いていた。完成するために生きてきたのだと思えば、すべてが整っただけのこと。嬉しさはなかったが、安心はあった。予定に沿って進んでいるという安心。
婚約者としての王太子は、礼節を欠いたことがない。わたくしの立場を守り、表向きにはいつも敬意を払い、必要な場には必ず同席した。だからこそ、わたくしは彼の隣で、より「悪役」を演じやすかった。
彼が正しければ正しいほど、わたくしの冷たさは引き立つ。
彼が誠実であればあるほど、わたくしの傲慢は映える。
そういう配置だった。
いつからか、わたくしは気づいていた。わたくし自身が悪いのではない。わたくしが悪く「見える」ことが求められている。わたくしの冷笑、わたくしの辛辣、わたくしの無関心。そういうものが、誰かの正義を輝かせる。
もしわたくしが、ただ黙って微笑むだけの令嬢だったなら、王太子は王太子でいられただろうか。もしわたくしが、親切で、慈悲深く、慎ましい女性だったなら、聖女は聖女になれただろうか。
わたくしは、その問いを口にしたことはない。口にすること自体が、役割から外れる行為だから。
役割から外れた瞬間に、わたくしは何者でもなくなる。
だから、演じた。
学園での出来事も、ほとんどは演技だった。いや、演技という言葉は正確ではない。わたくしは「正しく」振る舞った。嫌われるべき場で嫌われるように。皆が望む悪役像に、少しずつ自分を合わせていく。
誰かが震えるなら、その震えが増すように言葉を選ぶ。誰かが憤るなら、その憤りが正当化されるように態度を固める。そうすることで、周囲は安心する。世界が「物語の形」を保てるから。
わたくしがどんなに空虚になっていっても、世界は整って見えた。
それは、得意だった。
得意であることが、唯一の価値になっていく。
いつしか、わたくしは「自分の素の顔」が分からなくなった。怒りは演出になる。悲しみは無駄になる。喜びは危険になる。素直さは、使いどころがない。
残るのは、役割のための表情だけ。
その表情を磨くことが、わたくしの生活になった。
そして、断罪の日が「予定」された。
その知らせを聞いたとき、わたくしは初めて、息を深く吐いた。やっと終わる。やっと、ここまで積み上げてきたものが回収される。憎まれ、断罪され、そして死ぬ。美しい終幕。完璧な構造。
わたくしはそのために存在してきたのだと思える。
だから、絞首台に立った。
立ったのに。
主役が来ない。
手順が始まらない。
延期が積み重なる。
わたくしの完成は、宙吊りにされる。
ふいに、胸の奥に小さな苛立ちが生まれた。苛立つことさえ久しぶりで、それが自分の感情だと気づくのに時間がかかった。
わたくしは立ち上がり、鏡の前に立つ。そこには、整った顔がある。整った髪。整った肌。整った微笑。
悪役として完成した顔。
だがその顔は、誰にも憎まれないまま、ここに残されている。
「……こんなにも、滑稽なのね」
声が漏れた。鏡の中のわたくしが、同じ形で口を動かす。滑稽なのは、鏡ではない。わたくし自身だ。わたくしの人生だ。
わたくしは指先で口角に触れた。少し上げれば、勝ち誇った笑み。少し下げれば、憐れみの顔。わたくしはそのどちらでもない位置に、口角を止めてみる。
中途半端な表情になった。
途端に、不安が湧く。
中途半端は、許されない。
悪役は、悪役でなければならない。完璧に嫌われるべきだ。そうでなければ、誰も正しくなれない。
わたくしは、いつもの笑みに戻す。鏡の中のわたくしが、安心したように整う。整うことに安心してしまう自分が、また恐ろしい。
窓の外で、夜風が木を揺らした。枝がこすれ合い、かすかな音を立てる。庭は生きている。わたくしが何を思っても、枝は枝の都合で揺れる。
そういえば、王太子は昔、こんなふうに言ったことがある。
「君は強いね」
強い。強いから、悪役になれる。強いから、憎まれて死ねる。
その言葉を受け取ったとき、わたくしは笑った。勝ったように。正しく。彼が望む形で。
けれど今、その言葉が喉の奥で引っかかる。
強いのではない。弱いのだ。役割がなければ立てないほどに。
わたくしは窓辺に寄り、闇の中の白い小道を見下ろした。昼の設計のまま残る道。歩く者のいない道。
わたくしの道も、設計のまま残されている。
――断罪という終点が、いまだけ消えている。
それだけで、わたくしは立ち尽くしてしまう。
冷たい硝子に額を寄せる。息が白く曇り、すぐに消えた。曇っては消える。その繰り返しが、延期のようだった。
「正しく、憎まれなければ」
わたくしは呟く。呟いたところで、世界は何も返さない。
けれど、返事がないことにも、もう慣れてしまった。
慣れてしまったことが、何より怖い。




