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『私は断罪されて死ぬ予定でしたが、ヒロインがやってきません』  作者: 月白ふゆ


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第2話 延期通知

 絞首台の上で微笑んだまま、どれほどの時間が過ぎたのだろう。


 雲は低く垂れ、空はひたすらに同じ色をしていた。誰かが「幕を上げる」と言いさえすれば、すべてが始まるはずなのに、何も始まらない。観客のいない広場に、わたくしだけが置き去りにされている。


 やがて、石段を上る靴音がした。


 乾いた音。ためらいのない歩幅。こちらへ近づく気配だけが、妙に現実的だった。


 赤い目の男――いつもの監督官が、絞首台の下で立ち止まる。彼は首を少し傾げ、まるで天気の話でもするような調子で口を開いた。


 「すまないね。今日も、間に合わなかった」


 その一言が落ちた瞬間、胸の奥が微かに軋んだ。怒りでも悲しみでもない。期待してはいけないと分かっていながら、どこかで期待していた自分を見つけてしまったときの、鈍い痛み。


 「……今度は、何が整っていないのですの」


 問う声は、思ったより落ち着いていた。わたくしはもう、驚くことを学ばない。繰り返される延期に、心は擦り切れて、角の取れた石のように平らになってしまった。


 監督官は肩をすくめる。


 「いつも通りだよ。ヒロインの準備が整っていない」


 いつも通り。わたくしの死が先延ばしにされる理由が、たったそれだけの言葉で片付けられる。


 「それは、誰が決めるのかしら」


 「決める、というより……そうなるんだ。物語はそういうふうにできている。君も分かっているだろう?」


 分かっている。分かっているからこそ、ここに立っている。


 わたくしは絞首台の縁に視線を落とした。濡れた赤い絨毯が、わずかに重さを増して石に張り付いている。まるで、血に似せた布にさえ「役目」があるのに、と言いたげだった。


 「延期、ですのね」


 口にした言葉は確認でしかない。監督官は、頷くかわりに軽く指を立てた。


 「延期。来週……いや、来週も確約はできない。次の予定日は一応立てるけれど、また同じになるかもしれない」


 確約はできない。予定日は立てる。けれど同じになる。


 舞台の大切な要素だけが欠けているのに、舞台装置と悪役だけは撤去されない。美しい断罪のために整えられたわたくしは、整えられたまま、使われず、捨てられもしない。


 「……では、わたくしは、どうすればよろしいの」


 監督官は少し考えるふりをした。彼が本当に考えているのか、それとも、考えるふりをすることが役割なのか。わたくしにはもう判別がつかない。


 「城に戻りなさい。君の部屋はそのままだ。護衛も付ける。逃げる必要はないし、逃げても意味がない。君は……そこにいればいい」


 そこにいればいい。


 生きろとも死ねとも言われず、ただ「そこにいろ」と言われるのは、命令の中で最も残酷だと思う。何もしないことを命じられる。役割のないまま、存在だけを維持することを求められる。


 わたくしはゆっくりと頷き、絞首台の階段へ足を向けた。石の冷たさが靴底から伝わる。降りるときの方が、上るときよりも重い。処刑台から降りるという行為が、まるで赦された者の動きのようで、身体がそれを拒む。


 衛兵が二人、近づいてくる。縄も鎖もない。ただ、挟むようにして歩くだけ。それが余計に、わたくしを「罪人」ではなく「保管物」にしてしまう。


 広場を抜けると、外の空気は湿っていた。雨はもう降っていないのに、地面は乾ききらない。街の遠くから、昼の生活の音がかすかに届く。誰かが笑い、誰かが怒り、誰かが売り声を張り上げているのだろう。断罪のない広場の外側で、世界は勝手に回っていた。


 門をくぐり、城の回廊に入ると、石壁が音を吸い込む。空気がひんやりと締まり、香の匂いが薄く漂う。いつも通りの城。いつも通りの冷たさ。いつも通りの格式。


 けれど、わたくしだけが違っている。


 部屋へ戻る途中、侍女たちとすれ違った。目を合わせない。挨拶もしない。彼女たちの礼は、いつも王太子や貴婦人に向けられるものであって、断罪される予定の悪役には向かない。向けたところで、どの瞬間にそれが罪になるか、彼女たちにも分からないのだ。


 誰もが、わたくしを「正しく扱えない」。


 わたくしの扉は、きしむことなく開いた。部屋は整っていた。窓の硝子は磨かれ、カーテンは落ち着いた色に揃えられ、花瓶の花は新しい。椅子も机も、わたくしがここを出ていった朝と同じ配置のままだ。


 まるで、わたくしが今朝死ぬ予定だったことなど、最初からなかったかのように。


 侍女が一人、黙ってお茶を置き、静かに下がっていく。わたくしは椅子に腰を下ろし、カップに手を触れた。温かい。指先だけが、現実に引き戻される。


 窓の外には、庭が見えた。剪定された木々。白い小道。遠くで水が落ちる音。


 生きている。


 そう思った瞬間、胸の奥がふっと空いた。喜びではない。安堵でもない。むしろ逆だ。わたくしにとって、生きることは常に「延期」であり、「保留」であり、「未完了」だった。


 死ぬはずだった日の夕暮れに、わたくしは紅茶を飲んでいる。


 それは、滑稽というより、薄気味悪い。自分の人生が、誰かの都合で棚に上げられ、埃を払われ、また棚に戻される。そんな感覚。


 わたくしはカップを持ち上げ、口をつけた。舌に甘みが広がる。香りが鼻へ抜ける。確かに美味しい。美味しいのに、どうしてこんなにも無関係なのだろう。


 「……正しく、憎まれなければ」


 声は、部屋に吸い込まれて消える。返事はない。返事があるはずもない。


 断罪の日程がずれても、わたくしの役割は変わらない。わたくしは悪役であり続け、死ぬ予定であり続ける。変更されるのは日付だけ。延びるのは時間だけ。薄く引き伸ばされたまま、わたくしはここに置かれる。


 それでも。


 それでも、予定日が来るたびに、わたくしは絞首台へ向かうのだろう。


 立っていなければ、始まらないのだから。


 窓の外の庭は、何事もなかったように静かだった。雲の下で、世界は平然と呼吸をしている。わたくしだけが、その呼吸に混ざれずにいる。


 冷めきらない紅茶の温度が、わたくしの手の中で、ゆっくりと変わっていった。

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