第1話 断罪の予定日、観客不在
本作は、いわゆる「悪役令嬢もの」の構造を借りていますが、
爽快な断罪や派手な逆転は描いていません。
断罪が始まらなかった世界で、
役目を失った一人の令嬢が、静かに立ち尽くすところから物語は始まります。
合う・合わないははっきり分かれると思いますが、
もし「誰も悪くない話」に興味があれば、少しだけお付き合いください。
曇り空だった。
本来なら今日、王太子と聖女による公開断罪が行われる予定だった広場の上に、灰色の雲が一面に垂れ込めている。
まるで誰かが天井に灰布を掛けたかのような、均一で無感情な曇天。その下で、わたくしは絞首台に立っていた。
足場は冷たい石。装飾用の赤い絨毯が、血のように静かに濡れている。いや──血ではなかった。昨夜の雨が乾かぬまま、ただ冷えているだけ。人の血と見紛うには、あまりにも無味で、薄かった。
風が吹かない。
空気は張り詰め、凍りつくような静けさの中、まるでこの場所だけが時間の外に置き去りにされたかのよう。
わたくしの手足は縛られておらず、逃げようと思えば逃げられた。
だが、それはできない。
断罪という舞台は、悪役が定位置にいなければ始まらない。
広場は静まり返っている。
ざわめきも歓声も、罵声すらない。聖女は来ていない。王太子もいない。衛兵も数を減らして、ぼんやりと立っているだけ。断罪劇の終幕には、あまりにも侘しい舞台だった。
「……また、ですの」
小さく呟くと、自分の声がやけに大きく反響した。まるで空気そのものが、わたくしの存在を嘲笑うように。
何度目の“予定日”だったか。
確か、今月で六度目。すべて延期。延期。延期。
理由はいつも同じ──「ヒロインの準備が整っていない」。
まるで商人の納品遅延のような、形式的な理由。
物語は、『ヒロインが悪役令嬢を断罪する』という構造でなければならない。
王子の決別、民衆の怒声、聖女の涙、わたくしの哄笑。
すべてが整ってこそ、“美しい断罪”になる。
わたくしはそのために育てられ、整えられ、今日ここに立っている。
なのに、主役が来ない。
幕が上がらぬまま、登壇者だけが照明に晒され、滑稽に立ち尽くす。
わたくしは、周囲をぐるりと見渡した。
衛兵の一人と目が合ったが、彼はすぐに目を逸らした。
彼らも困っているのだろう。断罪の場で、断罪が発生しないことに。
しかし、わたくしの方が、もっと困っていた。
これは──わたくしの死の舞台なのだから。
「正しく、憎まれなければ」
それが、わたくしの唯一の救い。
善良ではなかった。美徳にも縁がない。恋をしたことも、友情を育んだこともない。
わたくしはただ、悪役としてこの物語に存在している。
だからせめて、美しく憎まれたい。
盛大に断罪され、泣き叫び、王子に唾を吐き、そして死にたい。
そうでなければ、わたくしが“いたこと”が、物語に残らない。
悪役として脚本に名前が残り、読まれ、記憶される。
そこに、ようやく意味が生まれるのだ。
数人の貴族たちが、やや離れたテントから顔を覗かせていた。
観客席の貴族桟敷。その中で、赤い目をした男がわたくしに気づき、小さく手を振る。
ああ、彼も来ていたのね。
この断罪劇の進行だけを確認しに来る、いつもの監督官。
彼はこう言うのだ。
「すまないね、ヒロインが間に合わなくて」
そして今日も、きっと言うのだろう。
「延期だよ。来週またやろう」
……何度も繰り返すうちに、台詞も顔もすべて暗記してしまった。
けれど、それでも立ち続けてしまう。
何故なら、わたくしの存在理由は“ここ”にしかないから。
空を見上げる。
雲は低く、垂れ下がるように空気を押し潰している。
絞首台に立ったまま、わたくしは微笑んだ。
「──誰か、わたくしを正しく憎んで、殺してちょうだい」




