第十一章『姫事』#7
夕暮れの中、黒いSUVがマレニア・シティの市街地へ入る。
極力音量を落としたラジオからは、シエンが産まれる遥か前のラブソングが流れている。
その歌詞が、偶然にも自分に当てはまり過ぎて、シエンは思わず笑みをこぼした。
(今日はこの曲に敬意を表して、大人しくしていましょうか)
シエンは運転しながら、助手席で眠るロイスに、一瞬目を向ける。
車に乗り込んだ直後のロイスは、コンソールパネルのボタンに興味深々で、運転中にハザードランプのボタンを押された時は慌てた。
しかし「静かになったな」と思ったら、コクリと睡魔と戦っていた。
その奮闘振りが可愛らしくて、そのままにしていたら、いつの間にか眠っていた。
車の揺籠のような振動に、ロイスの丸い頭がコクリと動く。
もう間も無くリチャードソン邸に到着する。
「──ロイス様」
赤信号で停車した。
声掛けだけでは起きないようだ。
ロイスはドアに身体を預けている為、運転席からは分厚いコンソールボックスに阻まれて、彼には届かない。
信号機が青色に変わり、前の車から順に動き出す。
その時だった。
道路工事跡に雑に敷かれたアスファルトに乗り上げてしまい、車体が激しく揺れた。
ロイスの身体も揺れて、ゴツンッと大きな音がした。
「いった!」
ロイスが頭をさすっている。どうやら窓ガラスに頭をぶつけたようだった。
「クッ…起きましたか? 間もなく到着しますよ」
シエンは笑いを堪える。
しばらく直進し、リチャードソン邸の裏駐車場へ向かう為に左折する。
「ゴメン…寝ちゃってた」
「大丈夫ですよ。可愛い寝顔が見れましたから」
フフッと笑うシエンの横顔を、ロイスは口を尖らせて睨む。
「フン…すぐに追い付いてみせるからな」
「お待ちしていますよ」
本能を抑えられる限りは、こんな“楽しい危険な遊び”は無い。
シエンは目を細めて微笑んだ。
やがてリチャードソン邸が見えて来る。
ロイスは不満そうに、窓の外を見ていた。
左折のウインカーを出し、対向車を二台程やり過ごして、待ち合わせに使った駐車場に入った。
辺りは既に薄暗い。
「──さて…」
シエンはダッシュボードの上に広げたロイスのシニョール織を手に取る。まだ湿っていた。
「帰りたくない」
シエンの言葉を遮って、ロイスは下を向いて呟く。
「──だって…楽しかったから。もっとシエンといたい」
ロイスの頬が少し膨らんでいる。
シエンはシニョール織を四つ折りにして、ロイスに握らせる。
ロイスのスモークブルーの目と合った。
シエンはニヤリと笑うと、ロイスの膨らんだ右頬に人差し指を立てる。
「──な、何だよ」
右頬に刺さった人差し指を払おうと、シエンの手を掴んだ。
「指切り、しましょう」
シエンは人差し指の代わりに、小指を突き出す。
「──また行きましょう。今度はプールでも山でも…また海でも」
「うん…」
ロイスも右手の小指を突き出す。
「お父様が待っていらっしゃいますよ。また学校でお会いしましょう」
シエンがロイスの小指に、自分の小指を絡ませて、歌を歌う。
「──約束、しましたよ」
「うん…また学校で」
指を解くと、シエンは車を降りて、助手席のドアを開ける。
ロイスは出来るだけ、ゆっくりとシートベルトを外して、シエンの差し出された手を見る。
今回の手の平は上を向いていた。
もう恋人の時間は終わりだと告げていた。
ロイスはその手の平に自分の手を乗せると、車を飛び降りた。
「おやすみなさいませ、ロイス様」
「うん…おやすみ、シエン」
ロイスは一歩、二歩と屋敷に向かう。
二メートル程歩いて振り返ると、シエンは車のフロントに腰を預けて、腕組みをしていた。
ゆっくりと前腕を上げて、シエンに手を振る。
シエンも手を振り返す。
ロイスは前を向くと、振り返ることなく屋敷に向かって歩いて行った。
シエンはロイスの姿が見えなくなるまで、ジッと見守る。
「まあ…予想外もありましたが…」
自分の選んだ“道”に躊躇いはない。
そう──それは既に望んだことだから。
シエンはウートルメールに浮かぶレグホーンの十六夜の月を眺めて薄く笑った。
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