第十一章『姫事』#3
『次はこっちだよ』
シエンの記憶が、一気に十五歳の春へ引き戻される。
リチャードソン邸の温室の中、小さなロイスに手を引っ張られ、この時、彼が特別な存在になった瞬間を──。
「…あっ」
小さく呟く。
「どうした?」
なかなか腰を上げないシエンに振り返り、ロイスが小首を傾げる。
「いえ、何でも。行きましょうか」
シエンはロイスに手を引かれながら、何故、こうなってしまったのだろう、と思う。
この人は、こんなに純真で、穢れを知らない無邪気な天使のようなのに。
あの頃…まだ十代半ばの頃は、気持ちを抑えられる自信が無く、大学は物理的に離れることを選んだ。
でも結局、忘れることも諦めることも出来ず、戻って来てしまった。
六年経って、何か変わるだろうと思っていたが、やはり気持ちを抑えることなど出来なかった。それよりも…。
『俺の“好き”も…お前と同じ…だと、思う…多分』
何よりも聞きたかった言葉を、この人はくれた。
今はまだ『愛』では無いかもしれないけれど、こうして自分を受け入れて、以前と同じように接してくれている。
(これだけで充分ではないのか? この瞬間も幸せを感じているのだから)
そう自問自答してみる。
「ほら! 置いて行くぞ」
ロイスはいつの間にか、堤防の上に登り、浜辺に降りる階段の所に居た。
「転ばないように、足元に気を付けて下さいよ」
そう大きめの声で言うと、ロイスは眉間を寄せると舌を出して、階段を降りて行ってしまった。
シエンが堤防の上に立つと、ロイスは靴と靴下を脱ごうとしている。
「あっつ‼︎」
素足で砂浜に触れた途端、ロイスは叫ぶ。
「大丈夫ですかっ!」
シエンは階段を駆け降りる。が、砂浜に足を踏み入れたシエンは、履いて来た靴の選択に後悔する。
この革靴では歩き難いだけでなく、砂が中に入って来る可能性がある。
それでもロイスの元へ行かなければならない。
しかし、シエンがロイスの元へ着く頃には、ロイスは裸足になって、両手に片方ずつ靴下を入れた靴を持って、波打ち際の冷たい砂の上を歩いていた。
ロイスは、やっと浜辺に降りて来たシエンを見つけて叫ぶ。
「シエン! こっちだ‼︎」
靴を持ったまま、ジャンプしながら両手を頭上で振っている。
「待って下さいよ」
この方は、あの頃から変わっていない。
学校では学長の息子、生徒会長と、何かと注目の的になり、冷徹にならざるを得ないが、こうして笑うことも出来る少年なのだ。
「うわっ、あぶなっ!」
ワイドパンツの裾が濡れそうになり、ロイスは靴を浜辺に放り投げる。
シエンはそれを拾い上げた。
ロイスは裾が濡れないように脹ら脛の高さに持ち上げて、時折り波を蹴り上げたり、波と追いかけっこを始める。
「──あーっ! 大きな波め、驚かすな‼︎」
彼のはしゃぎ声と波音と海鳥の鳴き声、遠くから船の汽笛が海風に乗って、シエンを包む。
「──シエン! お前も来い‼︎」
「いや…私は無理ですよ」
ロイスはシエンの足元を見て、頬を膨らませた。
「じゃあ、良いよ。俺一人で遊ぶから」
クルリと背を向けて、スキップをするように歩き出す。
来る途中で見た、体操着姿の学生達は、いつの間にか居なくなっていた。
「ロイス様、日焼けしますよ」
波打ち際を歩くロイスの後ろを、一定の距離を保ちながら、シエンも歩く。靴の中に砂が少し入ったようだ。
ロイスが振り返る。
「それは大問題だな。明日、真っ赤になる」
シエンは何気なく腕時計で時間を確認する。
咄嗟に時間を逆算すると、もう切り上げないとロイスの夕食の時間に間に合わない。
「門限に間に合うように、そろそろ帰りましょう」
時間を気にしていなかったロイスは、バッグから携帯電話を取り出して、時間を見る。
いつの間にか、一時間も経っていた。
「…うん、もうこんな時間か」
ロイスは名残り惜しそうに返事を返す。
シエンが靴のチョイスを間違えなければ…いや、あの服では裸足もビーチサンダルも似合わない。
昨日から楽しみにしていた、シエンと手を繋いでの、波打ち際の散歩が出来なかった。
それだけは心残りだった。
ロイスは乾いた砂へ足を移す。
「熱っ! まだ砂、熱いのか」
踏み出した右足を、慌てて引っ込めた。
そこへシエンが背を向けて、砂浜に膝を付いて座る。
「どうぞ」
さりげなく向けられた背中だが、明らかに「背中におぶされ」と言っている。
それがまた、ロイスは子供扱いをされたと思い、虚勢を張る。
「大丈夫だ! これくらい我慢出来る」
とは言ったものの、あの砂の熱さを体感するかと思うと、一歩を踏み出すのが躊躇われる。
「そうですか」
シエンはしれっと、そう言うと立ち上がり、膝の砂を払った。
ロイスは勇気を出して、恐る恐る再び乾いた砂に足を置く。
そして、一歩一歩大股でゆっくりと進む。
「あっつーー‼︎ 足が砂だらけだし‼︎ やっぱ…熱いっ‼︎」
足裏の熱さを我慢する為に、大声を出してみる。効果は薄いが、足が砂だらけになった方に気が逸れた。
シエンはロイスの三歩後ろから付いてくる。
「──あー‼︎ やっぱり…」
ダメだ、と言いかけて、ロイスはグッと堪える。ここで「ダメだ」と言えば、シエンは黙って背中を差し出すだろう。
「──熱い‼︎」
高校生にもなって背負われることは、絶対に嫌だった。
【キーワード】
・何故、こうなってしまったのだろう
・大学は物理的に離れることを選んだ




