第十章『秘事』#2
朝食を急いで食べる。
「ご馳走様でした」
「ロイスがそんなに急いで朝食を食べるなんて、珍しいな」
新聞を見ながら、食後のコーヒーを飲んでいた父親が、不思議そうに聞く。
「…学校の、友達と約束があるから」
父親に初めて嘘を言った。でも、正直に話したら、きっと反対される。
例え、それが幼馴染だとしても、相手の今の肩書きは「リチャードソン学院の地理教師」。そこの「学長」である父は、「生徒」とプライベートで会うことに良い顔をしないだろう。
「お前が友達と会うなんて、初めてじゃないか?」
「…初めてじゃないよ」
これは嘘じゃない。父さんが知らないだけだ。
「そうか。じゃあ、アンジェロに送らせよう」
心臓がチクリと痛んだ。
「だ…いじょうぶ」
オレンジジュースを飲んで、言葉の詰まりを誤魔化した。
「──駅で待ち合わせだから、歩いて行ける」
駅なら裏口から出た方が近い。途中で使用人の誰かに見られても誤魔化せる。
「そうか。気を付けるんだぞ」
「うん…判ってる。じゃあ、行って来るね」
ダイニングテーブルに、ナプキンを置いて立ち上がる。
「遅くなるんじゃないぞ」
「判った」
これ以上話しているとボロが出そうで、早々に私室に戻った。
扉を閉めると、扉を背に大きく溜め息を吐く。
多分、バレてない。
時計を見ると、間もなく九時四十五分になろうとしていた。
急いで、でも出来るだけ丁寧に歯を磨いて、鏡の前で全身の最終チェックをする。
「──うん、大丈夫…多分」
バッグを肩から斜めに掛けて、部屋のドアに向かう。
(──誰にも会いませんように…)
ドアから顔を覗かせて、左右を確認する。誰も居ないと判ると、廊下に出て、そっと扉を閉じた。
庭の迷路のような道を通って、裏の使用人や業者が使う駐車場に向かう。
その迷路を作っている庭には、ラベンダーやピオニー、花径が一回り小さくなったバラなどが咲いている。
その香りに誘われてやって来た、蝶がロイスの前を横切った。
あの、白い翅はねが大きく、太陽に照らされた鱗粉が七色に光る蝶だった。
「──あ…あの蝶…」
学院の象徴として、祖父が庭師と共に開発した、クリーム色のバラの“花言葉”を父親から聞いた時に見た蝶だった。
『ロイスが良い子にしていたら、またきっと来てくれるよ』
あの時、父親はそう言ったが、今の自分は嘘を吐いて、今ここにいる。
(父さん、ごめん)
ロイスは心の中で父親に謝罪する。
そんなロイスの心中など知らない蝶は、白いピオニーの花の周りを舞っている。そして、七輪咲いているうちの、離れた一輪に止まり、その翅はねをゆっくりと開閉させる。
「──あっ!」
ロイスは今、自分が秘密の待ち合わせをしていることに気付く。
のんびりとして、時間に遅れることは出来ないし、誰かに見つかる訳にもいかない。
急いで裏の駐車場へ向かう。
無事に駐車場に辿り着き、使用人達の車が停まる中、シエンの黒い車を探す。
出入り口付近に停まっている黒い車から、シエンが降りて来た。先日はただの黒のSUVだと思っていたのだが、太陽の光でメタリックが、先程の蝶の鱗粉のようにキラキラとしていた。
「おはようございます」
スーツを着ていない、私服のシエンを見て、ロイスは息を飲む。
いつもは真後ろで結んでいる髪は、左側に流すように結ばれて、結び目に届かない右側の髪が顔にかかって、それだけで妙な色気を感じてしまう。七部丈の袖口に折り返しの付いたデザインの黒ジャケット。身体に貼り付くような紫紺のシャツは、その下の筋肉が無駄なく鍛えられている事が判る。そして、黒レザーのスキニーパンツと足先が細長い革靴が、シエンの長身を際立たせて、やっと板について来たスーツ姿より、大人の男に見せていた。
ロイスも等身大の高校二年生らしい服装であるが、車の横に立つシエンと比べてしまうと、どうしても子供っぽく見えてしまうように思えた。
「お…おはよう」
引け目を感じて、声が小さくなってしまった。
(──まさか…赤いバラとか持って来ていないよな)
シエンの予想以上のコーディネートに、再び漫画のようなシチュエーションを想像してしまった。
「制服以外のあなたは新鮮ですね。よくお似合いですよ」
「お前も、な。もっと違う服にして来れば良かった」
シエンが助手席のドアを開け、手を差し伸べる。
「どうしてです? 高校生らしくて好印象ですよ。さぁ、どうぞ」
シエンの優しい笑みを見たロイスは、昨夜の“コト”を思い出して、顔を赤らめる。
差し出された手に触れることも、一瞬、躊躇ちゅうちょする。
「──どうしました?」
「何でもない」
ロイスはシエンの手を取ると、助手席に乗り込んだ。
手を取ったロイスの頭が、シエンの鼻先を掠かすめると、シャンプーのフローラルの香りと、ボディソープのサボンの香りがした。
シエンは出掛ける前に、ロイスが身を清めて来たことに、初々しさを感じて嬉しくなる。
ロイスがきちんとシートに座ると、シエンはバイザーに前腕を置いて、中を覗き込む。
「シートベルト、締めれますか?」
と、少し揶揄からかうように聞く。
ロイスは眉間を寄せて、シエンを上目遣いで見る。
「もう大丈夫だ。それくらい、一度で覚える」
「ふっふっ…それは失礼しました」
ロイスは左肩の方を振り返って、シートベルトを引き出して、少し手間取りながらもバックルに固定した。
シエンはロイスがシートベルトをきちんと締めたのを確認すると、ドアを丁寧に閉じた。
(あれ? 今までと違う香りだ)
紅茶っぽい気もするけど、バニラのような甘い香りではない。
爽やかな…でもミントみたいなスースーする香りでもない、優しい甘さのある大人の男の香り。
昨夜とは違う胸の高鳴りを覚える。
(──アマンシアが言ってたシトラスの香水とも違うし…あと革、かな?)
芳香剤みたいな人工的な香りではない。革はシートの匂いだろう。
今日のシエンの格好にも、凄く似合っている。今までのシエンの香水でも、一番好きかもしれない、と思った。
(──俺もあんな風に、服と香水を合わせれるようになれるのかな?)
ロイスは脚をきちんと揃えると、肩にかけていたバッグを膝の上に置いた。
改めてシエンの車の中をじっくりと見る。
普段は後部座席にしか乗らない為、目の前のグローブボックスからインストルメントパネルから、全てが珍しい。
先日は緊張していたし、暗くなっていた為、初めて真剣に見てみる。何の機能か判らないボタンが、パネルに幾つも並んでいる。そして、それを無性に押してみたい衝動に駆られる。
(──押しても壊れないよな…)
ロイスがこっそりとボタンに手を伸ばすと、シエンが運転席に乗り込んで来る。
慌てて手を引っ込めた。
シエンが車のエンジンをかける。
「ふっふっ…ボタンが気になりますか?」
シエンはジャケットの胸ポケットからサングラスを取り出して掛ける。
「べ…別に…」
バレていたのが恥ずかしくて…いや、違うと思う。
確かに恥ずかしさもあったけれど、それよりもサングラスをかけたシエンは、朝の陽射しを受けてもどこか涼しげで、ますますロイスの手の届かない存在に見えたからだ。
「エンジンかけてないので、何も動きませんよ」
「…‼︎ そっか…」
それもそうだ、と思って呟いた。
シエンがギアチェンジする為に、グッとシフトレバーを握り、パーキングからドライブに切り替える動作すら珍しく、ロイスはジッと見る。
(──そうやって運転するんだ)
左手首のシルバーの腕時計に、太陽光が反射する。
見慣れている少しゴツめのスケルトンの腕時計と、ジャケットの袖から伸びる前腕が、より大人の男を思わせる。
腕に浮き上がった血管にドキリとする。
柔道で身体を鍛えているロドルフの腕にも、血管が浮き上がってる時がある。が、こんな気持ちになったことはない。
自分の細い腕も、いずれはこんな風に逞しくなるんだろうか。
ロイスはこっそりと、自分の腕をさすってみる。
「今日はお天気が良くて、良かったですね。実は、意外と雨男でして…少し心配していたんです」
駐車場を出る為に、一旦停止をすると、シエンはロイスに向かって笑いかけた。
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