第六章『小指』#2
もうシエンから目が離せなかった。心臓は今日一番に大きな音を立てて、結んだ唇は震えている。
見開いたサファイアブルーの瞳は、灯され始めた街の灯りを映している。
言葉を紡ごうと口を開いてみたが、声が出て来ない。
そうしている内に、信号は青色に変わる。
「お…お前が、何処かに行ってしまわないって、約束するならな」
照れ隠しで、前を見る。
二度も捨てられるのは御免だった。もう、あんな思いはしたくない。
「もう何処にも行きませんよ。だから戻って来たんです」
リチャードソン家の敷地に入る頃には、既に辺りは暗くなっており、自動点灯する庭の外燈はすでに点っている。
玄関ポーチから少し離れた外燈の下に、車を停める。
「──北西圏に伝わる約束を守る誓いの風習をしましょう。小指、出して下さい」
そう言ってシエンは、右手の拳から小指だけを立ててロイスに差し出す。
それを真似てロイスも右手の拳から小指だけを立てて、シエンに差し出した。
シエンはその小指同士を結ぶと、おまじないのように、歌を歌い出す。
「──……指切った」
歌い切ると、指を解く。
「針を飲ませたり指を切るとは、また過激だな」
「昔は約束を破ると、本当に指を切り落とされたようですよ。それくらい約束とは重要なんです。ですから安心して下さい」
シエンはロイスの丸い後頭部に手を伸ばすと、額同士をくっ付ける。
ロイスは今度こそキスをされるのかと、また心臓が跳ね上がる。
「──これからはずっとあなたの傍にいますから」
「うん…約束、だからな」
ロイスゆっくりと瞬きをして、小指を撫でた。
額を離したシエンは、車から降りると助手席のドアを開け、ロイスに手を差し出す。
慌てて、シートベルトのロックを外した。
「折角だから、寄って親父さんに顔見せて行けよ」
シエンの手を取りながら、ロイスは家に寄るように誘う。まだ離れたくなかった。
「それは…遠慮しておきます」
「どうして? 親父さん、喜ぶぞ」
車から降りたロイスは、スクールバッグを肩にかけて、制服のシワを直した。
「父とは定期的に連絡取ってますから」
ロイスの手が止まる。
「えっ…何だって? 知らなかったのは俺だけか」
驚いて、シエンを見上げる。
「私が北西圏に行ったのを知っているのは、旦那様と父だけです」
「あのタヌキ親父め…チッ」
ロイスは横を向くと、小さく吐き捨てた。
春風が吹き、ロイスは肩を竦める。
それを見たシエンは、別れを告げる決意をする。
「まだ寒いですから、早くお屋敷で温まって下さい」
「う…ん、送ってくれて、ありがとう」
「どういたしまして」
シエンも笑ってみせるが、やはり別れるのは寂しかった。
「──では、おやすみなさいませ」
「おやすみ、シエン」
シエンは車に乗って去って行く。
ロイスはシエンの感触が残る小指を、名残惜しそうに撫でながら、去って行く車を見送る。
シエンの車の右側のウインカーのオレンジ色が光って、ブレーキランプの赤色見える。
「──あ……、そっか」
そこでロイスは小さく呟いた。
これからは同じ学校の生徒と教師なのだ。
「──ふっふっ」
思わず顔が綻ぶ。
「──明日から毎日会えるじゃないか」
あの雪の日と同じようにシエンを見送っても、今日はやり場のないの寂しさは感じなかった。
リチャードソン家の門を出る瞬間、シエンはルームミラーにチラリと視線を動かすと、まだロイスは車から降ろした外燈の下に立っていた。
(ん? もしかして…)
シエンはハンドルを握る右手に、一瞬視線を落として前を見た。
まだ彼の細い指の感触は残っている。
信号が黄色から赤色に変わる。
「──おっと!」
危うく見落とすところだった。
信号待ちをしている間、指切りの感触が残る小指を出して見つめる。
思わず、口元があやしく緩む。
「──…おやすみ、ロイス」
そう呟いて、まだ約束の感触が残る小指に唇付けをする。
袖口から、オードパルファムのフルーツ香がする。
「──……」
シエンは目を細めて、口角を上げて微笑む。
「──契約、成立ですね」
恋の味は、甘いだけではない。甘酸っぱさも苦味、温かさも爽やかさも、寂しさも“楽しみ”も全てが内包されている。
信号機が青色に変わった。
シエンはもう一度、最後にルームミラーを覗く。
ロイスはまだ、そこに立っていた。
名残惜しいが、これからは同じ学校の教師と生徒なのだ。
「──明日から毎日会えるじゃないか」
シエンはアクセルを踏み込んだ。
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・フルーツ香
・シエンの「恋の味」
・“楽しみ”




